12.地下迷宮のジェイネス
抜け穴の向こうには、石の階段が伸びていて、下へ下へと、続いていた。
階段を降りきった先は、石造りの薄暗い通路。
ずっとついているのか。最近、誰かがつけたのか。
壁に取り付けられた燭台に灯る明かりが、行く手をほんのりと照らし出してくれていた。
「おにいちゃん、こっち!」
とはいえ、こうやってリノオールに誘導してもらわなければ、どこへどう進めばいいのか分からない。
この通路は薄暗いだけでなく、脇道も多い。迷路のように入り組んでいる。
「すごいな、この屋敷。こんな地下があるなんて……」
視界のほとんど効かない空間。ビクビクしながら、俺は歩みを進める。
リノオールは夜目が聞くのか、暗闇でもお構いなしに軽い足取りで、まっすぐ歩いていく。
「おじいさまの研究室とか、牢屋とか。たくさんのお部屋があるんだよ」
牢屋とか。個人の邸宅には、まずない代物だな。
容易く人間を殺して、魂を抜き取る悪しき所業を行う男が使っているものだ。
色々と、恐ろしい使用方法を想像してしまう。
「出口につながる道も、いっぱいあるの。お兄ちゃんを、外につれていってあげるからね!」
リノオールの機転の利いた親切には感謝、感謝だ。
でも、この誘導が、この小さな女の子の考え出した案だとは、考えにくい。
黒幕は、レインか。
彼女がリノオールに指示を出して、俺を屋敷から逃がそうとしてくれている。
そう考えるほうが自然だ。どっちにしても、感謝する。
行く先には、変わらない景色の石造りの道が、延々と続いている。
この地下迷路の全貌も現在地も、自分で把握することは、もはや不可能だ。今はこの子を信じて、行けるところまでいくだけだ。
薄暗い空間は、燭台の明かりだけでは、遙か前方を見渡すことが困難になっている。
視覚に頼れないせいか、逆に、聴覚がやたらと研ぎ澄まされていく。
そうして敏感になった耳が、遙か遠くで響く、異質な音を聞き取った。
ガシャン、ガシャンと、金属が堅いものにぶつかる音。
一定間隔で、ずっと鳴り続けている。
その音の聞こえる間隔が、俺の足が地面を踏みつけるものと同じだと気付いた時、体中を戦慄が走った。
あれは足音だ。
さっきの、鎧を纏った蝋人形――ジェイネスとか呼ばれていた奴らの鉄靴の音に間違いない。
俺が地上から逃げ出したと気付いて、ついに地下にも入り込んできたのか?
相変わらず聞こえてくる、堅い足音。
一つではない、複数だ。
やたら近くで聞こえているのが気になる。
目の前は十字路になっている。
リノオールはその交差した通路を右へ曲がろうとしていたが、俺は彼女の腕を引き、いったん立ち止まった。
壁に張り付き、進行方向を慎重に覗き見ると、その先で合流している通路を例の人形兵士が、淡々と横切っていく姿が、影絵みたいに壁面に映し出された。
俺たちの存在には気付かず、まっすぐ通り過ぎてくれたみたいで、鉢合わせは免れた。
安堵の息を吐く。
「気をつけて進まないとな」
俺は常に、リノオールの行こうとしている先を警戒しつつ。慎重に歩みを進めた。
しかし。前ばかり気にして、ゆっくり進んでいるわけにもいかない。
背後から、じわりじわりと。
規則的な足音が近付いていた。
後ろからも、奴らが迫って来ているのか。
万が一、追いつかれて、挟み撃ちにあってはまずい。
俺たちは周囲を警戒しつつも、歩みを早めた。
時折、進行方向の前方を通過していくジェイネスを躱すくらいは、それほど難しい動作ではなかった。
あいつらの行動は単純だ。
不審者にぶつかるまで、まっすぐに歩き続けているだけだから、人の気配を探ったり、先回りして罠を張るような器用な真似はできないらしい。
にもかかわらず、後ろから聞こえる一つの足音だけは、明らかに俺たちに的を絞って、追いかけてきているのだ。
そいつは俺たちを見失うことなく的確に、滞りなくついてくる。
素早く通路を曲がっても、撒くことができない。
何だ、あの正確さは。
一体だけ、尾行に長けた優秀なジェイネスがいるとでもいうのか。そんな反則的な。
暗がりの中、ひたすら人形に追いかけられる。
それはかなり怖い体験だった。
やがて、リノオールの進まんとする道は、長い直線に入った。
脇道も何もない、完全な一本道。
その道をひたすら進むわけだが、相変わらず、後ろからは足音がついてくる。
もしも、リノオールが道を間違えていて、この先が行き止まりだったとしたら。
完全に逃げ場はなくなる。
そいつに捕らえられることを危惧しているわけではない。
たかが武装した蝋人形。倒すくらいなら俺にもたやすいことなのだが。
あの装備は周囲の石壁にぶつかれば、ものすごい音を立てて反響するだろう。
それせいで、この居場所を他の奴に知られてしまう可能性が高い。
狭い通路では満足に剣も振れないし、この空間で戦おうとするのは、得策ではない。
「リノオール、本当にこの道でいいのか?」
「うん! ちゃんと外にでられるよ!」
自信満々だ。本当なら、いいんだけれど。
信じていないわけじゃないが、不安は拭えない。
そして、その不安が現実のものに。
突き当たってしまった。
なにもない、石壁に。
「行き止まりだぞ!」
なんてこったい。立ち止まるしかない。
しかし、背後からの追っ手は全く歩みを止めない。
ガシャガシャと、足音が早くなる。
そして、姿を現した。
燭台の明かりを反射して、不気味な光沢を放つ蝋人形、ジェイネス。その手には白銀の剣を握り、こちらへ向けて構えている。
「くっ……」
やるしかないか。
俺は腰に装着していた仕込み杖に手をかけた。
「おにいちゃん、だめだよ!」
なぜか、その腕をリノオールにつかまれ、妨害される。
「ええっ! 何でだよ!?」
やらなきゃ、やられるだろうが。
いったい何を考えているんだ、この子は。
突然の不意打ちに困惑し、隙を作ってしまった。
ジェイネスは剣を突き立てて、俺めがけて突進してくる。
俺はほとんど身動きがとれず、リノオールを庇って目を閉じた。
キーンと、高い、澄んだ音が通路に響く。
人間の肉を切る音ではない。俺自身、痛みもないし。
ゆっくり目を開くと、ジェイネスは俺の側を通り過ぎ、行き止まりの壁に向けて、剣を突き刺していた。
俺が唖然としていると、その壁がギギギと鈍い音を立てて、向こう側に開いていく。
「か、隠し出口……?」
その先から入り込んでくる眩しい光に、目が眩む。
俺はリノオールに腕を引かれて、外に出た。
そこは赤い煉瓦の敷き詰められた、人気のない路地。
俺の住む町、ロノステラの見慣れた風景だ。
ほんの少し見なかっただけなのに、とても懐かしく感じる。
不思議と心が安らいだ。
体を撫でる風が、心地よい。
深呼吸し、肩の力を抜いたのも束の間。
ふと見れば、さっきの蝋人形まで、外に出てきているじゃないか。
俺は身構えた。だが、そいつは俺の前に手を突きだし、制止の体勢をとった。
そしてゆっくりと、顔に手をかけた。
すると蝋でできたその無表情な顔が、バリバリと音を立てて剥がれ出す。
奇妙な情景。その奥からでてきたものに、俺はまたしても、驚愕した。
「れ、レイン!?」
蝋でできたマスクの中から出てきた顔は、麗しい美少女のそれだった。
彼女が首を振ると。長い髪がさらりと流れ、濡れた顔に張り付く。透明な汗の滴が辺りに飛び散り、光に反射して、宝石みたいに美しかった。
レインは手際よく甲冑を脱ぎ捨てる。
身軽になると体を伸ばし、深呼吸をした。
そして、唖然としている俺に微笑みかけてくる。
「この出口は、お祖父さまも知らない秘密の場所なの。ここから逃げれば、安全だわ」
「……ど、どうして君が。こんなことを?」
「ジェイネスは、他のジェイネスがいる場所にはやってこないの。だからあたしがあなたたちの後をずっとあの格好でついていれば、本物のジェイネスに追いかけられることはないってわけ」
わざわざ蝋人形に変装して。ここまで俺たちを追いかけてきたのは。
追っ手に悟られないように、俺たちを守りながら、ここまで誘導するためだったのか。
俺を無事に逃がすために、先手先手を打って。
その手際の良さも、さながら。
慎ましくも豪快な行動力に感嘆した。
気持ちが昂る瞬間だった。顔が熱くなる。
「ありがとう」と、恥じらい混じりに礼を述べた。
「お礼を言わなくちゃいけないのは、あたし。リノオールから聞いたわ。……あたしのことを、心配して屋敷まで来てくれたのでしょう? あんな人形たちがいる危険な場所に、命がけで忍び込んでくれて」
レインは俺の目の前に立ち、下から顔を覗き込んでくる。
「とても嬉しかったの。来てくれて、ありがとう」
そして、にっこりと笑った。
言われると、嬉しいはずの言葉。
それが、今のふがいない俺には、鋭い刃物のように突き刺さる。
「ごめん。本当なら、俺がレインを助けなきゃいけないのに。助けてもらってばかりだ」
「そんなの、あなたが気に病むことじゃないわ。本当に優しいのね、ノイエ君は」
愉快そうに、レインは笑う。
「そんな優しさを持っているあなただから、何が何でも助けたいと思ったのかしらね」
彼女の言葉は、俺の心を強く打った。
俺は意を決し、彼女の肩を掴んだ。
「レイン、一緒に逃げよう! ここにいたら殺されるぞ!」
レインは一瞬、驚いて固まったが、すぐに寂しげな笑みを浮かべた。
「知ってしまったのね。お祖父さまの本性や、これから、しようとしていることを」
やっぱり、彼女は知っていたのだ。自分の尊敬する祖父の正体を。
「あんな奴の側に、いてはいけない。ひとまず、うちへ行こう。ショーンに相談すれば匿ってくれるし、何かいい知恵を出してくれるはずだ」
レインは目を伏せ、足下にくっついている女の子に、目を向ける。
「なら、リノオールだけでも」
まだ、そんなことを言っているのか。俺は少し、苛立った。
「……君は、あいつの言いなりになるのか? あんな奴のために、自分の命を、人生を犠牲にするつもりなのか?」
祖父を偉大な人形師として尊敬する気持ちは分かる。
たとえ、その行いのほとんどがペテンであったと分かっていても、今まで想い描いてきた強い感情を消してしまうなんて、きっと難しいだろう。
でも、命を捨てる必要なんて、レインにはないはずだ。
しかし、彼女は静かに首を横に振る。
「そんなつもりは、初めからないわ。でも、お祖父さまを、あのまま放っていくわけには、いかないのよ。あたしが逃げたところで。あの人はどこまでも追いかけて、あたしを探して見つけだすでしょう。元を絶たなくちゃ、何の解決にもならないの」
宝石のように美しい紫の瞳が、強い決意に輝いていた。
「だから、あたしの手で、お祖父さまを殺すわ」
その鋭い言葉に、俺は思わずレインから手を離して。一歩、後ずさっていた。
「身内の罪は、身内が責任を持たなきゃね。でもそんなことをすれば、次に罪に問われるのはあたしでしょう? 捕まればリノオールの面倒を見られなくなる。だから、ショーンさんのような立派な人形師に、この子を頼もうと思って、昨日は町の中を探し回っていたのよ」
俺は、彼女と再会した時のことを思い出す。
それだけの覚悟をもって。
彼女はあの路地にいたのか。
その決意が気高くも美しく、脆く儚く感じた。
「君は、身内の罪を背負って、何もかも捨てる気なのか?」
「自由や潔白という名の犠牲は、避けられない。でも、命を捨てる気はないわ。周囲から罪人と非難されても、生きてさえいれば、次の道は開けるはずだから。精一杯、考えて悩んだ結果なのよ。これがあたし一人でできる限界であり、最善なの」
レインは寂しげに微笑む。
「お祖父さまにはクラウンマーチや、あのお医者の先生みたいな強力な味方がいるから、あたし一人では真っ向に戦っても、勝ち目はないもの。警察に頼ろうにも。お祖父さまと人形師狩りが共犯であるという事実を証明できるものがない以上、力にはなってもらえないでしょうし。だから、あたしが隙をついて、あの人に止めを刺すのが、いちばん確実な方法なのよ」
そう告げるレインの手は、少し震えていた。
「あたし、お爺様が大好きよ。あたしが人形師として生きていくために必要なものを、全て与えてくださった。本当なら、殺したくなんてない。人としての道を踏み外してしまった罪を、生きて償ってほしい。でも、あたしには説得できるだけの力がないの……」
「そっか、よく分かった」
レインの告白を聞き終え、俺は、少し安心していた。
彼女が絶望に敗れ、諦めて何もかも捨ててしまったわけではないという事実が、はっきりした。
この娘は、昔から何も変わっていない。
回転の速い頭脳であらゆる可能性を考慮して吟味して、挫折することなく最善の道を選んで、進んでいこうとする。
常に、前を見ている。光の射す場所を、探し続けているのだ。
ただ、それが非効率に見える原因は、きっと手駒が少なすぎるからなのだろう。
「レイン。もう一度、考え直してみないか?」
レインを見つめて、俺は笑う。
「今度は、一緒に戦う味方を計算に入れて」
「一緒に……? 味方……?」
レインは眉を顰める。
「君の考えた計画は、自分一人で遂行するための、精一杯のものなんだろう? でも。他に協力する人間がいれば、もっと別の方法をとることも可能なはずだ」
そうすれば、レインの望み通り、エニルダに生きて罪を償わせる方法だって選べる。
レインが、その身を犠牲にする必要なんて、なくなるんだ。
「それは、そうだけど。ノイエ君、まさか……」
レインにも、俺が言いたいことが、だんだん分かってきたらしい。
「君のやろうとしていることを、君の思った通りに実現するために、俺にも、手伝わせてほしいんだ。今度こそ、君の助けになりたい」
それが俺の、ずっと昔からの願いだったんだ。
「でも。そんな危険なことを、いきなりあなたに頼むなんて、あまりにもおこがましすぎるわ。本当に、命懸けなのよ?」
レインは困っている。戸惑っている。
きっと、俺が信じるに足る人物であると、確信が持てないからだ。
「君が、俺のことを信用してないのは、辛いけど分かっている。でも俺は、君に嘘吐いたりなんか、絶対にしていないから。信じて欲しいんだ、俺のことを!」
彼女が抱くような疑いなんて、何一つない。
俺がレインを助けたい。力になりたいという強い思いに、嘘も偽りもない。ここに誓う。宣言する。
レインは俺の目を見て、きょとんとしていた。そして首を傾げる。
「あなたが、嘘を吐いているって……? あたし、その件はリノオールにしか話さなかったのに、どうして知っているの?」
しまった。感情に任せて、余計なことを口走った。
「うっ、いや、それは……」
汗を垂れ流し、目を泳がせ、言い訳を考えるが、何も浮かんでこない。
「……ひょっとして、ノイエ君。あの時、あたしの部屋にいた?」
レインが勘付いた。少し頬を赤く染める。悟ってしまったか。
あの時、彼女が何をしていたかなんて、本人が一番、よく分かっているはずなのだから。
俺がその部屋の中にいて、一部始終を知っていたと分かれば、俺の素行を疑っても無理はない。
「えっと、その……。ごめん! で、でも見てないから、俺は絶対に見ていないから!」
嘘ばっかりだ。でも、そうでも言わないと、信頼がますます、なくなる。
「見ていないって、何を?」
「な、何をって……」
そんなことを、俺の口から言わせる気か、この娘は。
「顔が真っ赤よ、ノイエ君」
「いや、だから。それはだな……」
ひょっとして、全てを知っていて、俺をからかって楽しんでる?
そんな気さえしてくる。
俺がしどろもどろしていると、レインは吹き出して笑い出す。
「そんなに動揺しなくたって。ノイエ君って、本当に面白い」
そのまま笑い飛ばした。これ以上、俺を苦しめる詮索をする気は、ないみたいだ。とりあえず、胸を撫で下ろす。
「……あなたがあたしに嘘を吐いていないのならば、きっとあなたは、勘違いをしているのね」
レインは寂しげに呟く。
だから、いったい何の話?
気になるが、聞く間もなく、レインの話のペースに呑まれる。
「あなたが悪い人じゃないって、最初から分かってる。あなたを疑っているわけじゃないのよ。でも、だからこそ、あなたの力を借りるわけにはいかないわ」
「どうして!?」
レインが俺を拒む理由が、皆目分からない。俺は少し声を乱して、尋ねる。
「もし、あたしに協力者がいたとしたらって、それを前提に別の方法も考えたわ。でも、それを実行するためには、どうしてもクラウンマーチや人形師狩りと戦って、倒さなくてはいけないの」
それは納得だな。
あいつらさえいなくなれば、あの老体や医者の一人や二人、何とでもなりそうだ。
「でも」と、レインは続ける。
「あなたには無理よ。無抵抗に、人形師狩りから逃げ回っていたくらいだもの」
俺の額の包帯に手を触れ、表情を歪める。
「この頭の怪我、クラウンマーチにやられたのでしょう? あれに突っかかって行って、命があっただけでも運がいいわ。あいつは特別、戦闘能力を強化されて作られた人形だから」
ははん、なるほど。そういうわけか。
俺はレインに、ただの無鉄砲で弱っちい奴だと思われている訳だな。
超ショック!
確かに、格好悪いところしか見られてないし、助けてもらってばっかりだし。
弱小者に見られていても、仕方がないかもしれないが。
「だから、やっぱりこの問題は、あたしが何とかします。あなたは、リノオールを連れて逃げて」
レインはとにかく、弱い俺を逃がそうと躍起になっている。
俺はどう説明して自分の印象を改善しようかと、悩んでいた。
その刹那。
「逃がしはしませんよ、不届き者!」
地下通路の中から声がした。
飛び出してきたのは、細身の剣を握った、執事姿の代行人形。
俺はレインたちを引き寄せ、クラウンマーチから距離をとった。