1.出会いと別れ
あの頃の俺は、まだとても小さかった。
体も心も魂も、その目に映る全てのものさえも。
それは、七年前。
長い夏が終わり、短い秋が始まろうとしていた。
「――この世界に存在する、あらゆるものには、魂が宿っているの。人間、動物、植物はもちろん、水や空気、この町を形作っているレンガ一つ一つだって、ちゃんと命を持っているのよ」
赤レンガを綺麗に並べ、積み重ねて形成された町並み。
どこかから伸びてきてレンガにまとわりついている、蔓草の細い茎やハート型の緑葉が、単調な町並みに新鮮な彩りを加えている。
まるで、御伽話の舞台にそぐわしい、単調で小綺麗な町。
その一角で、幼くかん高い、楽しそうな声が響く。
まるで高名な演説者のように胸を張って、見知らぬ女の子が、延々と講釈をたれていた。
「無機質なものたちの魂を成長させ、意志を持たせる。その魂を抜き取り、疑似の媒体に移しかえることによって、新たなる生命を生み出せる。それが、魂学の根本的な概念なの」
紫がかった光沢を持つ、長い黒髪。
瞳は紫色の輝きを持つ、大きな宝石みたいだ。
女の子は赤を基調とした、レースやフリルのたくさんついたドレスを身に纏って、艶やかな光沢のある赤色の靴を履いていた。
お金持ちのお嬢様、を彷彿とさせる風貌だった。
「でもね、魂学そのものは、人知を越えた奇跡の所業。偉大なる自然が作り出した命を抜き取ってしまうなんて、同じく自然に作られた存在である人間には、とうてい不可能とされているの。仮にできたとしても、神を冒涜する許されない行為なんですって。興味はあるけれど、罪なのね。それを侵さないことが、世界の秩序を守るっていうことなのよ。だから、魂学の多くは確立されながらも、一部を除いて禁忌の学問とされているの」
少女は、十歳くらいだろうか。しかし、その小さな唇から放たれる、とめどない言葉の数々は、おおよそ、そんな歳頃の子供が口にするものとは思えないほど、難解で複雑で、大人びたものだった。
この娘は、とても頭がいいのだろう。俺なんかが想像もつかない未知なる世界を熟知し、その世界を軸に生きている。
だから、少女が紡ぐ多くの言葉の意味は、当時の俺には、さっぱり理解できなかった。今ですら、理解できるか怪しい。
俺が心中で首を傾げているなんて、全く気付く気配もなく、女の子は話し続ける。
「だけどね。人間が自分の手で作り出したものに宿る魂ならば、人間にも育てて取り出すことができるのよ! 人間が、人間のために初めて作り上げた、人にもっとも近い、人であらざるもの――」
少女は、腕の中に大事に抱きしめていたものを、勢いよく俺の目の前に突き出した。
「それが人形よ! 人形に宿った魂を大事に育てると、やがて意志を持ち、人格を形成し、人間そっくりになるの。言葉も話せるし、体も動かせるようになる。あたしたちと変わらないくらい高度な存在に進化するのよ!」
少女曰く、人形の魂に関する概念だけを魂学から分離させ、特化させたものを「人形学」と呼ぶそうだ。
「あたしは文字が読めるようになってから、ずっと人形学をお勉強してきたわ。その結果、ようやく、生み出すことができたの!」
俺の眼前につきつけられたのは、布で作られた女の子の姿の人形だった。
太い毛糸で作られた、長い赤い髪。赤いボタンのくりっとした瞳。糸で縫いつけられた口は、にっこり笑顔を浮かべていた。
少女と同じく、赤を基調とした豪勢なドレスに身を包んでいる。
大切にされているのだなと、一目で分かった。
「この子、リノオールって言うの! あたしがずっと大事に可愛がってきたお人形よ。この子の魂が今日、やっと人格を形成するに至ったの。すごいでしょう? あたしが自分の手で生み出した、初めての魂なのよ!」
興奮して、かん高い声を放つ女の子。
その手に持つ人形――リノオールが、主人の声に反応して首を動かし、見上げた。
両手をピョコピョコと、上下に動かした。
人形には糸やゼンマイ、その他身体を自動で動かせる要素は、何もついていない。
女の子が操っていないことは、明白だった。
自分の意志で、この人形は動いているのだと、素人目に見ても分かった。
自然と、納得した。この人形は「生きて」いるのだと。
俺には否定する理由も確証もなかった。
人であらざる人――リノオールは、嬉しがっているみたいだった。
自分の魂を作ってくれた、女の子が喜んでいる姿を見て。
「今日は、リノオールが成長したお祝いの日なの! その記念すべき日に、偶然あたしの前に居合わせたあなたは幸福だわ。一緒に、この奇跡をお祝いしましょうよ!」
「悪いけど、そんな気分じゃないから」
曇り空の下。
周囲の住宅に比べると、わりと小さな建物の玄関の前。
レンガ作りの階段に腰掛けていた俺は、目の前の少女を見上げ、にべもなく誘いを断った。
少女は笑顔のまま、しばらく固まっていた。
向かい合う俺達の間を行き交う空気に、すさまじい温度差が生じ、会話の熱が一気に冷えていく。
まだ秋の始まりだというのに、木枯らしが吹き荒れているみたいだ。
唇を尖らせ、少女は不服そうな反論の視線を俺に向けてくる。
だが、俺はそんな態度を気にするでもなく、むしろ周囲が涼しくなって、ほっとしていた。
さっきまでの、熱気が渦巻く陽気な空気は、気持ちの沈んだ今の俺には、ちょっと暑すぎた。
「何よ。気分でもないくせに、あたしの話を、じっと熱心に聞いてたっていうの?」
「別に熱心に聞いてたわけじゃないよ。君がいきなり僕の目の前に現れて、一人で勢いよく喋り続けていただけじゃないか」
俺の気力ない反論に、少女は「まあ」と呆れた声を上げた。
「あなた、ずいぶんと荒んだ魂を持っているのね。せっかくのリノオールのお祝いが台無しだわ。何があなたの魂を病ませているの? どうしてそんなに落ち込んでいるの? 偶然とはいえ、ここで出会ったのも何かの縁だもの。お話くらい聞いてあげるわよ?」
俺はしばらく、その言葉を頭の中で反芻させていた。
なんとなく上から目線なのは気に食わないが。
何かの縁、というのは、良い響きだと思った。
それに、心の中で蟠っている、この苦しい想いを誰かにぶつけられたら、誰かに聞いてもらえたら、と思っていたところだったし。
俺は一息吐いて、話し始めた。
「……お兄さんが、酷い熱を出しているんだ。お医者さんの話だと、もう長くないかもって」
口に出しても、決してすっきりする話ではなかった。
だが、一度口をついて出してしまった以上、最後まで吐き出さなければ、後味が悪い。
「お兄さんは体が弱いから、一度病気になると、なかなか治らない。治ってもまた、すぐに病気に罹ってしまう。いつも死と戦っているんだよ。……でも、今度は負けてしまうかもしれない」
体が震えだした。
寒さとは違う。これは絶望だ。
絶望が俺の体を蝕むように、震えさせるんだ。
俺はぎゅっと、自分の体を抱きしめた。
「僕はお兄さんが大好きだ。だからお兄さんが死んでしまったら、どうすればいいんだろう……。そう考えると、怖くて怖くてたまらないんだよ」
「どうすればいいのか分からないから、怖く感じるのね。そう思う理由は、途中で考える行為を放棄してしまっているからだわ」
俺の話を聞き終えた少女は、すかさず感想を述べた。
「多くを知り、学び、得たものを組み立てる。考えて考えて、可能性を突き詰めて研ぎ澄ませていく。そうすればいつか必ず、自ずと納得のいく答は見えてくるものよ。あなたはそこに辿り着く前に、諦めてしまっているだけ」
その感想は、どちらかというと批評、批判に近かった。
話せと言われたから話したのに、なぜ故に俺がそんな否定的な言葉を返されなければならないのか。
そんな他人の個人論を聞かされるために、俺は心の内を明かしたわけではない。
まるで悩む俺自身を否定されているかのような、小馬鹿にされている気さえした。正直、腹が立つ。
「だって、仕方がないじゃないか! お医者さんにもどうにもならない病気なんて、僕が何をどうしたって、治してあげられるわけがない。いくら考えたって、答は同じだ。僕には何もできないんだよ」
発散する場所のない苛立ちを、俺は少女にぶつけた。
怯えるように、リノオールがビクリと体を震わせた。
対して、少女は動じもしない。
「何もできない魂なんて、この世にはないわ。全ての命は役割を持っているからこそ、この世界に存在しているのだから。お医者さんの真似事がうまくできないからって、挫折する必要なんてないのよ。あなたには、あなたにしかできない役目があるのだから。視点を変えて、それを探してみてはどうかしら」
落ち着いた、物静かな口調でそう言った。
俺は体の力が抜けた。
同時に、今まで抱えていた苛立ちや怒り、恐怖が、憑き物が落ちたみたいに体内から消えて、なくなっていった気がした。
同時に気付いた。
この少女は、自分の頭の良さを笠に着て、俺を批判してバカにしていたわけじゃないのだと。
本当に、俺を心配してくれているのだという、真実に。
「自分にしかできない役目って、何? 君にもあるの? 君はそれを、ちゃんと分かってるの?」
憤ってあたり散らした態度が、急に恥ずかしくなる。だが謝る勇気もなく、俺は話を逸らした。
「もちろん。人形学の概念を作り出したのは、あたしのお祖父さまなの。その卓越した人形師としての知識、技術を受け継いでいくことこそが、あたしの役目」
彼女は愛おしそうに、人形を優しく抱きしめる。
「この、リノオールの魂を完璧に育て上げ、人形師の英知の結晶――代行人形を作り上げる。それがあたしの望みであり、すべき役目なのよ」
「代行人形……?」
「そう。人間そっくりに進化を遂げた人形の魂を、それにふさわしい姿の媒体に移し変えることで、完璧な?生きた人形?を作り上げるの。まだ、誰も成し遂げていない、人形師の永遠の夢なのよ」
少女は笑顔で続ける。
「今日は、リノオールに人格が生まれた日。つまり。あたしの大きな使命であり、大きな夢が、最初の一歩を踏み出した日なの。そんな素敵な日に、立ち止まって怯えているあなたを見ているなんて、しのびないわ。……ねえ、あなたも今日を、最初の記念日にしてみてはどう?」
「記念日?」
俺が首を傾けると、少女は大きく頷いた。
「あなたが、あなたにしかできない役目を探し始める、最初の日よ。これから少しずつ、見つけていけばいいわ。あなたが、大好きなお兄さんのためにしてあげられる、何かを」
お兄さんのためにしてあげられる何か。
ずっと憧れていた。乞うていた。
素敵な言葉だと思った。
「――そうだね。何もしないうちから、諦めるなんて良くないよね。もう一度、考えるよ。僕にしかできないやり方で、お兄さんを助けてみせる」
「その調子よ。お互い、がんばりましょうね」
そう言って、少女は俺に微笑みかけてくれた。
心が無性に、暖かく感じた。
直後。通りの向こうから、微かに大人の声が聞こえた。その声に、少女は敏感に反応する。
「お祖父さまが呼んでる。もう行かなきゃ」
「待って!」
駆けだしていこうとする女の子を、俺は慌てて呼び止めた。
「あの、また会えるかな? 今度は元気になったお兄さんにも、一緒に会ってくれる?」
別れる前に、とにかく聞いておきたかった。
だが、少女の返事は、否定の首振りだった。
「あたし、今日でこの町とお別れするの。ずっと遠くに行っちゃうのよ」
「遠くに……?」
ショックな言葉だった。せっかく知り合えたのに、もう会えないだなんて。
「寂しがらなくてもいいのよ。生きていれば、いつかまた会えるかもしれないでしょう?」
俺の心証を読みとったらしい。
少女は優しく、諭してくれた。
「あたしは将来、人形師になるの。だから大きくなったら絶対、この人形の町――ロノステラに帰ってくるわ。だからいつか、きっと会いましょう。その時には、あなたのお兄さんも紹介してね」
そう言い残して、少女は俺に手を振り、声のした方向に駆けていった。
少女はその声の主に、こう呼ばれていた。
――レイン、と。
その名前を、俺はしっかりと記憶に刻み込んだ。
彼女と過ごした、ほんのわずかな時間。
彼女と交わした、ほんのわずかな会話。
当時の瞬間を思い出す度に、俺の心は熱く高揚し、その瞬間が、もう終わってしまったのだと気付く度に、苦しくて胸が締め付けられそうになった。
興奮と虚脱が交互に訪れ、俺を襲う。
それが恋心だと気付いたのは、それからずっと後のことであって。
その時にはもう、俺の初恋はその相手と共に時の彼方へと流され、手の届かない場所へと運ばれてしまっていた。
だが、いつかそれを引き戻せる日がやってくると、俺は信じ続けてきた。
生きていれば、いつか必ずまた会える。
少女――レインの言葉が手綱みたいに、俺の想いを引き留めてくれていた。
あれから、七年経った。
俺は現在も、この町で生きている。
彼女の帰還を待ちわびながら。