第十六章 その6 おっさん、命令を下す
その夜、ハインはゼファーソンの屋敷に残っていた。
「ベル様の容態はだいぶ落ち着いています」
薄暗い食堂にふっと現れたキーマ。椅子に座り込んでいたレフ・ヴィゴットは「そうか……」と小さく頷いた。
それに向かい合って座るハインは机の上に並べた粉薬の包み紙のひとつを手に取る。
「この薬にはやはり効果があるみたいだ。寿命が劇的に伸びるというわけではないが……少なくとも今のままよりは悪くなることはない」
すべて龍涎香と天馬草の根を調合して作ったベルの薬、手に入れた材料分だけ可能な限りの量を用意した。製法の失われた薬だったが、それを再びこの世によみがえらせたのだ。
「良かった。ベルの命が一秒でも永らえるのなら私は満足です」
対するヴィゴットは晴れ晴れとしていた。国家の転覆を企てながらばれてしまった人物とはとても思えない、すべてを諦観し身を捧げる覚悟を終えている顔だった。
「それからレフ・ヴィゴット。王家の人間として、君には命令を下す」
ハインが改まって切り出す。ヴィゴットは表情一つ変えず耳を傾けていた。
「愛するベルとともにこの王国を出て行くんだ。西でも東でも、気の向くまま好きなところへ行くがいい」
しばらくの間、ヴィゴットは目を大きく開いたまま固まっていた。
「そんな……お見逃しになられるのですか!? あなたならばおわかりでしょう。私のような国賊、どうぞ火あぶりにするなり地下牢で飢え死にさせるなりした方が後々のためですよ」
ようやく話し出せたものの、早口でまくし立てるヴィゴット。彼は自らの罪の重さを自覚していた。即日処刑されようとかまわないとさえも思っていたが、ハインの口から飛び出たあまりにも予想外の命令に動揺を禁じえなかった。
だがハインはゆっくりと首を振る。
「いや、許したわけではない。君はこの国にとって許されないことをした。だが、ここで君を処刑してはそれこそ君の願った通りになってしまうのではないか? ベル様も今北方帝国に戻っても、これまでと同じように幽閉されながら病死するだけだ。君が罪を償うためにできることは、ベル様を最期まで見とること。そしてその瞬間まで、ベル様に世界中の美しい風景を、人々の営みを見せて差し上げることだ」
言い渡したハインの顔は厳しくも、つい身を委ねてしまうようなおおらかさがあった。ヴィゴットの瞳からは涸らしたはずの涙が再び溢れ、そして机に擦り付けんばかりに深々と頭を下げたのだった。
「ハイン様……寛大なる処置、感謝いたします」
ふっと微笑むハイン。すかさずキーマが耳打ちする。
「魔動車は手配しました。ベル様のため、小さいですが車内にベッドも運び入れてあります。どうぞご自由にお使いください」
「さあ、急いで行くんだ。表向きはレフ・ヴィゴットは夜の間にベル様を連れて屋敷を抜け出したということにしておくよ」
騒乱から二週間が経った。
「王国へ侵攻していた共和国軍はすべて撤退した。共和国との和平交渉も進んでいる。相応の賠償はきっちりせしめるつもりだよ」
男はそう言いながら紅茶のカップに口を付けた。それを聞くハインもカップを手に、素朴な木製の椅子に腰かけている。
ここはハインの下宿先、コメニス書店の上階の質素な家具と学術書に囲まれた一室だ。ほんの少し開けられた部屋の扉の向こうからは、汗まみれになったハーマニーが胸を押さえて覗き込んでた。
この日、コメニス書店を何の前触れも無く訪問してきた一人の男。深くフードを被り顔を隠した、背の高い男だった。
ちょうど受験勉強に血眼で取り掛かりながら店番をしていたハーマニーだったが、顔を上げるなり彼女は仰天の表情のまま固まってしまった。
男は自らをハインの兄、つまりは国王だと名乗った。
「共和国の乱入があったおかげで、結果として反乱も自然と沈静化してしまった。反乱の首謀者と内通していた貴族が誰だったかは既に把握している。今度じっくりと話しを聞くつもりだ」
「処刑するのですか?」
国王と向かいあってお茶を嗜むハインと王は、まるで旧知の仲のように映った。初めてハインの下宿を訪ねたとは思えないほど、国王はくつろいでいる様子だった。
「そこまではしないが国王として何らかの処分はしなくてはならないだろう。だが再び同じ過ちを繰り返さぬよう、実質停止状態にあった議会を再開しようと思っている。民衆からの声を直接拾い上げる制度も整えてな」
嬉しそうに話す国王だが、やがて表情が曇る。
「だが、王妃はまだ行方知れずだ」
そして静かにカップを置いた。ハインは何も言い返せなかった。
「北方帝国には何て説明しようか。表向きは北方帝国は今回の争いには関わっていないことになっている。まあ、皇女ベルとヴィゴットがいなくなったことで我々が帝国の介在を知っていることは気付いているだろうがな」
ナディアから話は聞いている。反王政派の暴徒に連れ出された王妃は、それ以来姿をくらましていた。混乱の最中殺されたのか、何らかの利用機会があると睨まれ幽閉されているのか。もしくは密かに北方帝国に逃げ出せたのか。
兵士たちも捜索は行っているものの、手掛かりは今なおもつかめていない。ただ、王妃が一連の事件を扇動していたともっぱら噂になっている城内で、王妃の消息を追うのに必死になる者はどれほどいようか。
「それから、ヴィゴットを逃がしたのはむしろ良い判断だったよ。ここでヴィゴットを処刑すれば北方帝国の企みを広く公表することになる、そうなれば新たなる争いにつながっていただろう。これもお前のおかげだ、国を案じての決断、本当に助かっている」
国王がわざとらしく朗らかに話す。やはり十年も連れ添った王妃については色々と思うところもあるのだろうが、現状は現状として受け入れねばなるまい。
だがハインは「いや、そうじゃないんだ」と重々しく首を横に振った。
「僕がヴィゴットを逃がしたのはそんな大逸れたことを考えたからじゃない。ただ彼のことを白日の下に突き出して罪を咎めるより、ベル様の余生のために尽くしてもらうことの方が良かったんじゃないかってなんとなく思っただけなんだ。王国にとっては僕の方がむしろ反逆者だよ」
しばしの沈黙が部屋を包む。だが国王は紅茶を飲み干すと、懐から一枚の紙を取り出したのだった。
「ハイン、実はだな。こんな手紙が届いているんだ」
そう言って王はハインに紙を手渡す。細かな装飾の施された便箋に綴られたそれは正式な公文書ではない、ある貴族からの私信だった。
「ブルーナ伯爵夫人からですか!?」
ハインにとって遠戚に当たるエレン。その亭主たるブルーナ伯爵が、国王にしたためた手紙だった。
「共和国兵が撤退した翌日、レフ・ヴィゴットが伯爵領を通過したと書かれている。だが彼らは共和国ではなくさらに南の山脈へと向かっていったらしい。聞けばはるか東、誰も見たことの無い東方の国を目指すと言い残して去っていったそうだ」
共和国との国境に当たる伯爵領が無事であったことは聞き及んでいた。古城を使い回した監獄が共和国軍に占領されたものの、その後伯爵領軍の必死の防戦により本体の進軍は押しとどめられた。そこに王都に奇襲をかけていた飛行魔道具部隊が逃げ帰ってきたものだから、作戦の失敗を悟った共和国軍はさっさと引き揚げてしまったらしい。
「一部の貴族は此度の反乱の黒幕が北方帝国であることはすでに知っている。そして王妃とレフ・ヴィゴットが内通していたことも。だが決してそれを公言せぬようとも示し合わせている」
そう話しながら国王は自分からポットに手を伸ばし紅茶を注いでいた。
「結果としてお前の選択が無用な争いを防いだのだ。共和国にも北方帝国の動きには警戒しておけと釘を刺すこともできるからな。思えば共和国も北方帝国に踊らされていただけの被害者だ、今後は和睦と協力をもって国難を乗り越えることにするよ。お前のような弟を持って兄は鼻が高いぞ」
「陛下……いや兄さん。僕だってあなたが兄さんであることを同じように思っているよ」
ハインは兄から紅茶のポットを受け取り、自分のカップに注いだ。
その後、国王は王家の血筋を有することをもってハインの魔封じの紋章を消し去るよう特例の措置を施そうかと提案した。
だがハインは迷うことなく断った。自分は王家の人間ではない、孤児院で育った回復術師を目指す一介の石工であると。




