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第十章 その5 おっさん、店を手伝う

 王城を出てから伯爵夫人エレンと従者の乳母の表情は硬く、笑みを浮かべることは一切なかった。


「奥様、いかがなさいます?」


 復興進む王城前の通りをゆっくりと走る魔動車の中、乳母が険しい顔つきでエレンに尋ねる。


 隣に座るエレンはぼうっと窓の外を眺めたまま、静かに答えたのだった。


「王妃様の本心はわからない。あの人が何を企んでいるのか、私に何をさせたいのか。ゼファーソン様が本当に反乱を計画しているのか、それさえも」


 そこで乳母に振り返る。その眼差しには強靭で、揺ぎ無い意思がこもっていた。


「でも答えはひとつ。私は領主の妻として、命に代えてでも領地を――領民を守るわ」


 あの小さな娘がよくここまで強く育ったものだ。乳母はふふっとほほ笑むと、慈しむようにエレンの肩に手をそっと置いた。


「ご立派なお心構えですエレン。私はどこまでもお供しますよ」




「ねえ、これってどういう意味かしら?」


 本とノートを机に開いていたマリーナが、隣に座るナディアの肩をペンでつつく。ナディアは読んでいた分厚い書物から目を移し、級友の指差す箇所にじっと目を凝らす。


「ああ、ここね。生物のからだは一個体と言っても、実際は小さな生きた細胞が集まってできているの。で、その細胞もこれから成長して大きくなるものがあれば、すっかり成長し終わってもう動かない、いわば死んだ細胞もあるわけね。回復術は細胞の成長を促す技術だから、生きている細胞には効果はあっても既に死んでいる細胞には効かないのよ」


 ここは学園近くのカフェ『赤の魔術師の館』。店内はいつもの穏やかな様子と異なり、あちこちで本やノートを広げた学生が一心不乱に勉強に没頭している。


 学生たちにとって一年間の総決算、進級試験は目の前に迫っていた。


「あうううう、もう頭が爆発しそうです」


 回復術師科の生徒に混じり、入学試験を控えたハーマニーもいっしょになって勉強に励んでいた。だが短期間で許容量をはるかに超える知識量を詰め込んでいるおかげで、ハーマニーの耳からは今にもきそうだ。


「ハーマニー、今が踏ん張りどころよ。ここで最後まで耐えられるかが勝負の分かれ目、ファイトよ」


 くじけそうな様子のハーマニーにナディアが声援を贈る。


「そうよ、その内その辛さが快感に変わるわ!」


 マリーナも加わってハーマニーを励ます。だが直後、ナディアがじっと危ない人でも見るような目をこちらに向ける。


「何それ、マリーナってもしかして変態?」


「うるさい!」


 思わず怒鳴ってしまい、店中の視線がマリーナに注がれる。かっと顔を赤くしたマリーナは本を立て、急いで顔を隠した。


「お嬢さんたち、コーヒーのおかわりをどうぞ」


 そこに淹れたてのコーヒーで満たされた金属製ポットを手に、カフェのマスターが近付く。ナディア達は「ありがとうマスター」と空になったコーヒーカップを差し出すと、そこにおかわりのコーヒーが注がれた。


 ここ『赤の魔術師の館』は学園に近いこともあって、試験前には勉強のために入り浸る学生で埋め尽くされる。


 そこに目をつけたマスターが創業当初より行っているのがこの時間制でのコーヒー飲み放題のサービスだ。長時間居座って勉強を続けるには最高のコストパフォーマンスで、学園附属の図書館よりむしろこっちを好む学生も多い。


「うわあ、出遅れたなぁ」


 ちょうどその時、ひとりの若い男が入店する。その顔を見てマリーナたちはたちまち沸き立った。


「ヘルマン先輩、こんにちは」


 入試の再挑戦を目指すヘルマンだ。金欠でバイトばかりしている場合でもなくなったのか、脇に本とノートを抱えている。


「おう、ナディアちゃんにマリーナちゃんじゃないの。進級試験前の勉強会か?」


「はい、図書館よりもちょっと雑音あるこっちの方がなんか落ち着くので」


「わかるわ、その感覚。まあ、俺の場合はもう学園の生徒じゃないから図書館に入れてもらえないだけなんだけどな……と、どっかで見た子だな」


 ヘルマンの視線がナディア達にちょこんと混じるハーマニーに向けられる。端正な顔立ちのヘルマンに気を良くしてか、ハーマニーは淑女然として恭しく頭を下げる。


「はい、コメニス書店が看板娘、ハーマニー・コメニスです。以後お見知りおきを、ヘルマン・ベーギンラート様」


「コメニス……ああ、ハインさんと一緒に店番してた子か、思い出した思い出した。勉強なんて偉いね」


 まるで可愛らしい子犬でもあやすようなヘルマン。その態度にハーマニーは「むっ」と頬を膨らませる。


「年上だからって子ども扱いしないでください。秋には同じ王立魔術師養成学園の1年生として、肩を並べて入学することになるのですから」


「ええ、もうそんな歳なのか!?」


 ヘルマンは心底驚いた様子だった。たしかにハーマニーは同年代の子と比べても身体は小柄で顔つきも幼い。一見して入学試験を受けられるだけの年齢だとは思われないだろう。


 だがこれは彼女の逆鱗に触れたようだ。ハーマニーは「失礼な!」と立ち上がった。


「14歳といえば女の子の最も可憐な歳、一番の食い時ですよ。大人でもなく子どもでもない過渡期としておじさん方から最も好まれる年代であることをご存知ないのですか?」


「ねえ、さっきからハーマニーの言ってることが全然わからないんだけど、どういう意味?」


 ぽかんとした顔のマリーナがナディアをつつく。引きつった笑顔のナディアは「知る必要は無いと思う」と眉をひくつかせていた。


「何をセールスしてんだよ。まあいっか、俺も勉強したいし、ここ借りるぞ」


 ムキになったハーマニーを手で制しながら、ヘルマンは机の下から椅子を引っ張って彼女たちと同自机に座り込む。


「お客様、コーヒーをご注文ください」


 その直後、音も無く近付いていたマスターがぬっと顔を出したのでヘルマンは椅子から転げ落ちんばかりにのけぞった。


「うわ、びっくりした。じゃあ……オリジナルブレンドで」


「かしこまりました、お待ちください」


 マスターも生活が懸かっているのだ、無料ただで席を占有されては堪らない。


「ところで今日はハインさんいないのか? あの人だって試験あるだろ?」


 机の上に本を置きながらヘルマンが訊くと、席についてコーヒーをすすっていたハーマニーが答える。


「ハインさんならお父さんといっしょに再建中の王立図書館に本を卸しに行きました」


 ダン・トゥーンの起こした事件で屋根の落ちた王立図書館だが、直後に行なわれた必死の消火活動により蔵書への被害は想像以上に軽く抑えられたらしい。コメニス書店は王立図書館から依頼を受け、焼失した蔵書を補うべく大量の書籍を集めたのだった。


 今日はその本を運搬しに行っているのだ。


「あそこ、気に入ってたのになぁ。再建まではもうしばらくかかるんだよな」


「わかりますその気持ち、本屋の娘として本を粗末に扱う輩には我慢なりません」


「だよなぁ、わかるぞハーマニー」


 ついさっきまで怒鳴り合っていたのに。ヘルマンとハーマニーが拳を突き合わせている。


 ふたりのやり取りを傍らで見ていたマリーナは呆れたように深く息を吐く。


「なんだか気が合うわね、あなたたち……て、あれイヴじゃない?」


 マリーナがちらりと店の入り口に目を向ける。そこに立っていたのはハーマニーと同じくらいに小柄な少女。同じ回復術師科1年生のイヴ・セドリウスだった。


「本当だ、イヴー、あなたも試験勉強?」


 ナディアが手を挙げてひらひらとなびかせる。


「お、あの子もかわいいな」


「ヘルマンさん、あなたの行動基準はそれしかないのですか?」


 よく知った顔の級友と視線を交わすイヴ。だが彼女はぷいっと背を向けると、そのまま店を出ていったのだった。


「どうしたのかしら?」


 あまり話したことは無いものの、そんな険悪な仲でもないはずなのに。ナディアは首を傾げた。




「本当に……腹が立つ、腹が立つ!」


 人の行き交う王都をわざと強く足音を立てて歩くイヴ。周りの風景をなるべく見ないよう、俯いて石畳ばかりを見つめただひたすらに歩く。


「やあイヴ、こんな所で偶然だね」


 おかげで声をかけられるまで気が付かなかった。顔を上げるとコメニス書店の前、同じクラスのハイン・ぺスタロットが本の詰め込まれた木箱を店の前に停められた魔動車にちょうど積み込んでいたのだった。


「こんにちはハインさん。お仕事……ですか、試験前なのに?」


 消え入りそうな小さな声。だがこれでも彼女にとっては大きく出している方なのだ。


「下宿させてもらっている身だからね、店の手伝いはできる限りしなくちゃ。勉強かい?」


「まあ、そんなところですが……家は小さい弟もいて落ち着かないので」


「『赤の魔術師の館』ならいいんじゃないかな。たしかナディアたちもいるはず……」


 そこでハインは口ごもる。イヴが顔を背けたのを見て、何かを悟ったのだ。


「と、あそこは学生だらけで落ち着かないか。どこか静かな場所は――」


「いえ、おかまいなく。学校の空き教室でも借りますので」


 そう言ってイヴは再び歩き出す。


 誰もかまわないで。彼女の背中は無言でそう語っていた。

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