第九章 その2 おっさん、最期の時に立ち会う
「明日まで戻ってこない?」
伯爵家が王都に所有する別荘のエントランス。メイドたちが運び込んできた荷物やこれから避難所に配る物資を運び込む中で、伯爵夫人エレンは手紙を渡し終えて戻って来た少年の話を聞き、驚いて口を隠した。
奉公人の少年がコメニス書店を訪ねたとき、ちょうど自分よりも少し年上の少女が店番をしていたらしい。
その少女は退屈な様子でカウンターに顎をついていた。だが封筒に女性の字で「ハインへ」と書かれているのを見るや否や人が変わったように目をぎらつかせ、差出人のことを機関銃のごとく尋ねてきたらしい。
あまりのしつこさに折れた少年が伯爵夫人の名を出すと、少女はどこからともなく手帳を取り出して凄まじいスピードでメモを取り始めたそうだ。その代わりとしてハインという人物の行き先を教えてくれたらしいが。
「はい、教会の司祭様でのところで、ハイン殿の育ての親だそうです。お身体が優れないようで、しばらく傍にいたいと」
「そう……なら仕方ないわね」
エレンはふっと笑いながらも小さくため息を吐く。
ハインは自分は孤児だと話していた。物心ついた頃には教会の運営する孤児院に入れられており、生みの親の顔も名前も知らないそうだ。
そんな自分でも最低限の読み書きを身に付けているのは、孤児院の管理者であるぺスタロット司祭が孤児たちに知識を伝授してくれたからだとも。司祭は非常に温厚で人柄に優れ、教会の派閥争いには加わらず孤児たちの教育に心血を注いできたという。
職人の家の子でも半数近く、農民に至ってはほぼ全員が文盲であるこの国で、孤児院を出た子供たちが手に職をつけられるのはひとえに司祭の尽力のおかげだった。読み書き計算の技能は職業選択の幅を広げ、読書による自己研鑽の基礎にもなる。
司祭は生涯を通して自己の出世よりも今目の前で救いを求める子供たちに手を差し伸べ続けた。ハインも初めて給料をもらった時、大きな収入があった時には孤児院に寄付金を贈ったという。彼にとっては親子も同然、自分の人生に最も影響を与えた人物に他ならない。
エレンは司祭とは顔を合わせたことは無い。以前から機会があれば一度、話してみたいとは思っていた。だが、今押し掛けても迷惑にしかならないだろう。
「ありがとう、あなた王都は初めてでしょう? せっかくだから、いろいろと見て回ってきなさい。それも大事な勉強ですよ」
ねぎらうと、少年は「ありがとうございます奥様」と一礼した。そしてくるりと向きを変えると、だっと外に駆け出したのだった。
「あら、行く場所はもう決めてるの?」
「はい、コメニス書店に戻ります。店番の女の子からもっと話をしたいと言われているので」
一方その頃。住宅街の小さな教会の奥の部屋からそっと抜け出し、ゆっくりと扉を閉めたハインはうつむいて口を噤んだまま、礼拝堂へと戻った。
大勢の人々とともに長椅子に座って祈っていたペーターはハインに気付いて顔を上げる。じっと向けられた赤い眼に、ハインは彼の言いたいことをすぐに察した。
「お疲れになられたのか、司祭様は眠られたよ」
「そうか……回復術師によると今晩が峠だそうだ」
腕で目を擦り、改めてハインに向き直るペーター。
そんな彼を見てハインも握りしめた拳を思い切り震わせた。そして抑えきれず、石造りの壁にその拳を打ち付けたのだった。
「くそっ! 僕がもっと早く入学していたら、司祭様は助かったかもしれないのに!」
なぜ、今年なのだろう。せめて最終学年での病院実習を終えていたなら、どうにかして解呪の腕輪さえ持ち出せば回復術の使用も可能だったのに。まだ人体には危険だからと、1年生のハインには回復術を施す技術も覚悟も不足していた。
「ハイン、回復術師でも治せない病はある。まして寿命はどうにもならんよ」
後ろからペーターがそっとハインの肩に手を置く。
「それでも……最期に自分は何もできないのが……」
「いつか絶対こうなる日が来ることは皆わかっていた。俺もそうだし、お前も。ただそれを認めたら、自分の愛情を裏切ってしまったようで気分になるんだろ。俺だって嫌だよ、司祭様にはずっと生きていてもらいたい。でもな……それは無理な話なんだ」
ペーターはそう諭すが、ハインは相変わらず壁に打ち込んだ拳を震わせてじっと壁を見つめ続けている。
ちらりと礼拝堂に視線を移す。ペーターの目に映るのは掌を合わせ、一心不乱に祈りを捧げる人々。
「ここにいる全員が司祭様を慕っている。孤児院が閉鎖された後、ペスタロット司祭はこの小さな教会に押し込められた。出世とは無縁の、小さな世界だ。でも司祭様はいつもまっすぐだった。教会の掃除さえも忘れていたこの地区の住民が、みんな暇さえあればここに集うようになったんだ。みんなお前と同じで、司祭様のおかげで人間らしい心を取り戻せたんだ。お前と同じ、司祭様には言葉で表せ切れないほどの恩を受けている。だから……せめて穏やかに見送ろう」
「そんなのは分かってる。でも……」
なおも頭を落とし、堪え切れない感情をなんとかして押さえ込むハイン。そんな彼にペーターは優しく語りかけた。
「ハイン、お前らしくない。死は生き物全ての運命、王様でもこの現実は覆せねえんだ」
「奥様、本日はお疲れでしたでしょう。お眠りの前にブランデーをどうぞ」
寝室の窓辺で髪をとかしていたブルーナ伯爵夫人エレンを気遣い、使用人の女が黄金色の酒をグラスに注ぐ。
既に夜も遅い。窓から外は漆黒の闇に包まれ、冬の澄み切った夜空を満天の星が彩っていた。とても数日前に建国以来の大事件が起こった都とは思えない静けさだった。
「ありがとう。後でいただくから、そこに置いといて」
よくといた髪をまるめてくくり上げる伯爵夫人。金色の髪がのけられ、うなじが見える姿は実に官能的だった。
「奥様、明日も予定は詰まっています。決してご無理はなさりませんように」
「ええ、今日はバタバタして腰を落ち着ける暇も無かったわ。明日は久しぶりに王城も訪ねるわ」
「ぺスタロット様はお訪ねに?」
長い髪を束ねていた手がピタリと止まる。エレンはしばらくじっと考え込んでいたものの、やがて表情を崩して髪をまとめなおし、最後にシルクのナイトキャップをかぶる。
「暇があればそうしたかったけど……無理そうね。こんな大事件の後だもの、あの人も今は忙しいみたい……あら?」
ふと顔を上げると窓の外、不意に横切った光に目を奪われる。
「流星だわ」
星々の散りばめられた夜空を一筋の閃光が走った。その白い光は空を切り裂くと彼方へと消える。それはまるで王都を埋め尽くす建物のひとつに、まっすぐ落ちたようだった。




