エーデルワイス
なあに? まだ眠れない?
だめよ、良い子は夜には眠たくなくても寝るものよ。もう、しょうのない子。
じゃあね、ママがひとつお話をしてあげる。それを聞いたら、眠くなくても目を閉じるのよ。
昔々、ある国のある小さな村に、『歌姫様』が住んでいました。歌姫は名をフィアラといい、白銀の長い髪に、透き通るような水晶色の瞳を持った、とても美しい人でした。
フィアラには生まれつき、耳の後ろに小花の形の可愛いあざがありました。
フィアラは、村の奥の奥の『雪の神殿』に住んでいました。多くの神官にかしずかれ、何不自由なく暮らしていました。
歌姫は、ふだんは歌うことを固く禁じられていました。フィアラは言い伝えによれば、雪女の末裔で、彼女の歌は雪を降らせる歌だからです。
フィアラは十二月一日の、雪祭りの日の正午にだけ、歌うことを許されていました。その日、美しく着飾った歌姫が、神輿の上で歌を歌うと、決まって初雪が降るのでした。
その神秘、その美しさから、村は『雪の歌姫のおわす村』として、古くから観光の地として有名でした。
フィアラは、村の人々に『生き神様』として、大事に大事にされました。けれどフィアラは、そんな自分に薄っすら嫌気がさしていました。
(わたしは仮にも歌姫なのに、年に一度しか歌えない。もっとたくさん歌いたい。もっといろいろな場所に行き、いろいろな場所に美しい雪を降らせたい)
そんなフィアラの秘めたる想いは、日ましにつのっていきました。
そんなある日の冬の初め、村に一人の旅人がやって来ました。旅人は名をニクスといい、金色の髪に翠の目をした、美しい男の人でした。
ニクスは「雪の歌姫に逢いに来ました。どうか神殿の小間使いにさせてください」とくり返し、神殿から動こうとしませんでした。
困り果てた神官たちは、フィアラにその事を進言しました。すると歌姫は「簡単なこと。本人がそれほど望んでいるならば、小間使いにすれば良い」と答えました。
そうしてニクスは、フィアラの執事になりました。
ニクスは、不思議な青年でした。どこから来たのか、どこへ行くのか、何を訊ねても答えません。ただ、「あなたの歌を聴ける日が、楽しみで楽しみでなりません」と、口ぐせのように言うのでした。
いつか、フィアラはニクスを好きになっておりました。ニクスもフィアラを好いてくれたらしく、二人はいつしか口づけを交わす仲になっておりました。
やがて十二月になり、お祭りの日がやってきました。美しく着飾った歌姫は、神輿の上で紅をさした、赤い口を開きました。
雪よ雪よ 降ろうてくりゃれ
この村 雪で飾ってくりゃれ
それは美しい歌声が、あたりにふわっと広がりました。するとどうでしょう、ちらちらと雪が舞い出したではありませんか。
人々は毎年の奇跡に歓声を上げ、口々に歌姫を称えました。しかし、フィアラはそれどころではありませんでした。
フィアラは群衆の中に愛しいニクスの姿を見つけ、ただ彼のためにだけ、一心に歌っておりました。
やがてお祭りが終わりを告げ、フィアラは神殿に戻ってきました。ほてった体を寝床に横たえ、眠ろうとした歌姫の手を、ふいに誰かが引っぱりました。フィアラは驚いて身を起こし、何者かに問いかけました。
「だ、誰じゃ」
「大丈夫、僕だよ、ニクスだよ。フィアラ、僕と一緒に遠くに逃げよう」
ニクスは息を荒くして、歌姫の手を握って打ち明けました。
「フィアラ、僕はね、遠国の王様の使いなんだ。僕は王様に言いつかって、君をさらいに来たんだよ」
「さらいに……?」
「そう、雪の歌姫の君をさらいに。王様は珍しいものがお好きだから、歌姫の君をご自分のコレクションに加えようとしたんだよ」
あっけにとられるフィアラの前で、ニクスは苦く笑ってみせました。
「僕は『歌姫の歌を聴いて、その歌声が美しくて、本当に雪を降らせることが出来たなら、我が国に連れて帰るように』って、王様に言いつかったんだ」
でも、と言いさしたニクスは、照れくさそうに、泣き出しそうに笑いました。
「でも、もう無理だ。僕は君の事、本当に好きになっちゃったんだもの。王様の慰みに君を差し出すなんてこと、もう出来やしない。僕と一緒に逃げよう、フィアラ。このままここに残っていれば、王様は第二第三の使者を差し向けてくるはずだから」
フィアラは、頬を赤くしてうなずきました。
(今まで何も明かしてくれなかったニクスが、初めて真実を語ってくれた。そうして今、自分の王を裏切ってまで、わたしを救おうとしてくれている)
まだ少女の齢のフィアラには、そのことが涙の出るほど、嬉しかったのです。
そうして二人は、手に手を取り合い、こっそり神殿を後にしました。けれど、いくらも行かぬうち、追っ手に見つかってしまいました。
「怪しいと思って泳がせておいたら、やっぱりだ。やいニクス! この盗人犬め!」
言いざま武装した番人が、きりきりと弓を引きしぼり、ひょうと矢を放ちました。矢はニクスの背中にあたり、ニクスはその場にくず折れました。
「ニクス! ニクス!!」
驚いたフィアラがニクスを抱き起こすと、矢は背中から深々と、愛しいひとの心の臓に突き刺さっておりました。
「……泣かないで、フィアラ……僕は、君の笑った顔が、好きなんだ……」
ニクスは苦しい息の下からそう言うと、力ない微笑を浮かべました。
そうして、それが最後でした。愛しいひとの胸に抱かれて、ニクスは事切れておりました。
「さあ、帰りましょう、歌姫様」
「あなた様にいてもらわねば、この村は回らないのです」
番人たちがそう告げて、フィアラに手を差し伸べました。しかし、フィアラは応えません。ぷつぷつと何か、つぶやいています。
雪よ雪よ 降ろうてくりゃれ
この村 雪で飾ってくりゃれ
はっとした番人たちが、あわててフィアラを止めようとします。けれど、歌姫は歌を止めません。
雪よ雪よ 降ろうてくりゃれ
この村 雪で埋めてくりゃれ
止んでいた雪が、びょうびょう降り出しました。見る間に雪をかぶった番人たちが、必死でフィアラに手を伸ばします。
雪よ雪よ 降ろうてくりゃれ
この村 雪で殺してくりゃれ
フィアラの歌は、止みません。みずからも雪に埋もれながら、歌姫は歌い続けました。
やがて、村は雪の海に沈みました。降り続けた雪が止んだ後、フィアラとニクスが埋もれた雪のあたりから、小さなつぼみがひっそりと顔を出しました。
それは、エーデルワイスでした。二茎のエーデルワイスは、やがて季節はずれの、可憐な花を咲かせました。
はい、お話はもうこれでおしまい。もう寝なさい。
え? その後、二人はどうしたかって? そうねえ……今ごろどこかで生まれ変わって、幸せに暮らしているかもね。はい、寝んね。
一人子を寝かしつけた母親が、寝室からリビングへ戻ってきた。金色の髪で翠の目の父親が、ふんわり微笑って出迎える。
「おつかれ、ママ。いつもお話ご苦労様」
「そう思うなら、たまにはあなたが寝かしつけてよ」
「ええ? かんべんしてよ、僕はお話苦手だもの。……にしても、君は本当に想像力が豊かだねえ。毎晩まいばんいろんな話、頭のどこから湧き出てくるの?」
「それが何となく、するする出てきちゃうのよねえ。どうしてかしら?」
ふっと頭をかしげる妻に、夫がふいに気づいて告げた。
「……あれ……ねえ君、耳の後ろに花みたいな小さなあざがあるんだね。今まで気づかなかったけど」
「え……っ」
一瞬びっくりした妻は、まさかね、と苦笑して肩をすくめた。
窓の外に、音もなく初雪が降り出した。
(了)