銅鑼の音、十二ツ
唇には濃い紅。
普段は白い陶器のような肌なのに、薄っすら桃の頰紅をさして。稜花は不安げな表情のまま、大丈夫かな、と小さく呟いた。
風を通す為に開かれた戸口からは、麗らかな陽気が差し込んでくる。中庭に咲く桃の花びらが、ひらり、と部屋に舞い込んで、春の香りを運んできた。
「そんなに不安がらなくとも、大丈夫ですわよ。良かったですわね、貴女様をおなごにして下さる殿方がいらっしゃって」
「ちょっと、義姉上!」
「でも、稜花様。私、貴女様のそのような顔、初めて見ましたのよ」
にっこりと。自分自身も母へ相成る喜びをいっぱいに、すっかり大きくなった腹を撫でながら、香祥嬉は稜花の顔を覗いてくる。
「愛する殿方と一緒になると、女は本当に綺麗になりますのよ。稜花様?」
「義姉上……」
遠回しに、美しいと褒められたようで、こそばゆい。
すっと目を細めた香祥嬉の言葉は、稜花の耳に真っ直ぐに届いた。
母になる決意と、一時は夫を失う覚悟までしたらしい彼女もまた、ひとりの女性として大きく成長をしていた。
かつて、稜花を後押ししてくれた義姉。彼女の存在がなければ、稜花は今の地位を築き上げることなどできなかっただろう。
慈しむような瞳が嬉しくて、稜花は表情をくしゃりと歪めた。あらあら、と宥めるように声をかけられて、再びにっこりと微笑む。
どんなに心が塞いでも、逆に嬉しさのあまり動揺しようとも。どんなときでも美しくあれ、と、彼女は言った。彼女のような生き様もまた、好ましいと稜花は思う。そして己も、そうありたいと心に誓った。
「お綺麗ですわ。稜花おねえさま」
今度は、鈴の鳴るような声が稜花の背後から聞こえてくる。
くるりと稜花の前へ移動してきた少女は、稜花より二つ年下の少女だ。小さな体で、年齢よりもあどけない顔つきを残した彼女の名は、胡参眉。この秋には次兄李進のもとへ嫁ぐ、胡家のお嬢さまだ。
「私もはやく、香祥嬉おねえさまや稜花おねえさまのようになりたいです」
「あら、胡参眉様は稜花様よりははるかに姫君のようですわよ」
「ちょっと、義姉上!」
抗議するように声をあげると、あらあら、と笑い声が返ってくる。
「ふふ、秋には胡参眉様の方が稜花様の義姉様ですのよ。稜花様も胡参眉様を見習って、お淑やかになさいませ」
「いえ……わたくしなど。わたくしは、稜花おねえさまのようになりたいのです」
ほう、と、稜花の方を熱っぽい目で見つめては、胡参眉は両の頬に手を当てる。
無垢であどけない彼女は、何が気に入ったのかは分からないが、稜花に対してやけに友好的だ。もちろん、褒められて悪い気などしない。
どこか変なところは無いか、と訊ねたが、彼女はとてもお綺麗です、とにっこり言葉を返してくれた。
香祥嬉もまた、気高い笑みをたっぷり浮かべる。
「稜花様。自信を持って、行ってらっしゃい」
「――はい、義姉上」
香祥嬉に手を差し出され、長い裾越しにその手を取り、立ち上がる。
指先まですっぽりと覆われた衣の色は朱。牡丹や鳳凰などの大柄が印象的なそれらは、まぎれもなく稜国のものだ。
――ゴォーン、ゴォーン……
――ゴォーン、ゴォーン……
聞き慣れた音が十二ツ鳴る。本来ならば鐘を撞く音の筈なのに、この地に響くは銅鑼の音。それに呼応するかのように、尚稜の街中に銅鑼の音が広がっていく。
もはや十二ツでもなんでもないその合図は、まるで戦場を思わせる、賑やかな陣鐘の音を響かせた。
銅鑼の音に導かれるように、稜花は部屋の外へ出た。風に乗ってたどり着く飾り気のない音が、肌に染みる。心の奥底がじわりと熱くなるのと同時に、感慨深くなった。
「変な趣向だこと」
「あら、仕方ありませんわ。おねえさま。稜花おねえさまは、稜国の戦姫でいらっしゃるもの」
背後から、二人の女性の笑い声が聞こえてくる。祝いの日に銅鑼の音を喜ぶ姫君など、稜花以外にはいないらしい。
稜花が花嫁衣装を纏って戦場を駆けた様は、もはや各国の語り草だった。己の婚約を踏み倒し、自らの力でもって、自身の恋を手に入れた。
女なら誰でも憧れる。恋を叶えた稜国の戦姫。
「今日だって、嫁入りではありませんもの」
「本当に。自ら婿を奪い取るとは、流石ですこと」
「稜戦姫の恋。実に勇ましい物語ですわ」
部屋を出て、女官たちにも付き添われながら目的の宮へと足を進める。ひらり、ひらりと桃の花びらが散り、その柔らかな春色にうっとりと目を細めた。
いつか負った全身の傷もすっかりと綺麗になった。これで、なんの負い目もなく、彼と一緒になれる。
着飾ることが、こんなにも幸せなことだとは思わなかった。
柔らかな絹の心地が、心までくすぐって、こそばゆい。一歩一歩前に進むだけで、心が躍る。
銅鑼の音はまだまだ響く。街中がまるでお祭り騒ぎで、稜花の新しい門出を後押ししてくれているようだ。
あとは、彼が。
どんな反応を見せてくれるかが気になるわけで――。
***
かたり、と。
部屋に入るなり、音がした。
先程まで卓を囲んで談笑していたらしい男性陣。その中でひとり静かに佇んでいた男は、稜花の姿を見るなり立ち上がった。
鋼色の髪をきっちりまとめ、冠飾りで彩りを。普段は飾り気のない眼帯も、金の刺繍の入った気の利いたものへと変わっている。彼もまた鳳凰の刺繍の入った肩掛けを羽織り、改まった雰囲気に息を呑んだ。
闇色の片眸が、真っ直ぐ、射抜くかの様に稜花を見つめている。しかし、何を言われるわけでもない。呆然とこちらを見つめて来るだけで、稜花はどことなく居心地の悪さを感じた。
「来たか、稜花! 我が娘は本当に美しいな」
彼の隣で李永が感極まったかの様な声をあげる。が、すぐに李公季がその裾を引き、父を一歩下がらせた。
弁えよと言わんばかりの李公季の行動に、李永は色々と言いたそうなのを必死に我慢したようだ。歓喜の表情はそのままで、静止する。ここは突進せずに、威厳のある父を振舞うつもりではいるらしい。
彼らにくすりと笑みを落としたのち、稜花は目の前に歩んできた楊炎を見上げた。
研ぎ澄まされた刃の様な、誰をも寄せ付けぬ雰囲気の彼。ずっと闇に生きてきた彼が、稜花のために表舞台へ出てきてくれた。
つい、顔の古傷に目が行きがちだけれど、目鼻立ちがはっきりしている彼の顔。かっちりと整っているその顔も、今更ながら、とても好ましく思えてきて困惑する。いつもと違った衣装もまた、新しい彼の一面を見つけたみたいで、稜花の心をくすぐった。
――彼のこの格好、最初に見たの私じゃないんだ。
周囲の男たちが妬ましい。
今まで彼は、自分だけのものだったはずなのに。彼が表舞台に出たらこの様な想いをすることも増えるのだろうか。
見惚れてしまうほど凜々しく、美しいとも言える婿の姿。今更ながら、他の女性が彼に熱を上げないかと不安になってくる。影でいることを止めさせた代償は、大きそうだ。
「稜花」
勝手な恋敵に嫉妬し、すっかり気落ちして黙り込んでいたらしい。声をかけられてはっとする。
何度か瞬きしていると、目の前に立った楊炎が、稜花の顔をじいと見下ろしていた。
しかし彼の方も、呼びかけるだけ呼びかけておいて、その後が続かない。まるで穴が空きそうなくらい見つめられてしまい、もしかして衣装が似合ってないのかと不安になる。
ちらちらと彼と視線を合わせたり逸らしたり。でも何も声をかけてくれなくて。稜花は耐えきれなくなって横を向いた。
似合っていないのなら、似合っていないと言ってくれればいいのだ。黙られてしまうと、妙に不安になる。
そうして彼を目の前に、そわそわしていると、周囲から笑い声が漏れた。彼らは微笑ましそうな目をして、冷やかしの声を口にし始める。
楊炎は本当に無口だな、と李進が呟くと、おねえさまはそこを魅力的に感じているのでしょう? と、胡参眉がうっとりする。
殿方として情けないですわよ、と香祥嬉が一言添えると、楊炎、稜花が納得せぬぞ、と李公季がため息をついた。
しっかり周囲に釘を刺され、楊炎は困ったように視線を上下させた。
しかし、今日は待ちに待った祝いの席。彼も、ただ無口なだけではいるつもりがないようだった。覚悟を決めるようにして深く呼吸した後、彼は、その手で稜花の頬に触れた。
びくりと稜花の身が強ばった。楊炎の黒曜石のような闇色の瞳に、朱の衣を纏った己が映りこむのが分かる。
緊張と高揚感で引きつった顔をした己自身。彼の一挙一動に翻弄されているのを実感し、ますます羞恥で赤くなる。
おやおや、と、珍しいものを見るような声が聞こえてきた。
でも、仕方が無いではないか。
今日は、特別な日。稜花にとっても、楊炎にとっても、新しい人生の門出となる。
「稜花」
「なにかしら、炎」
ぎこちないやりとりがもどかしい。そわそわと、体が動き出して、手を上げたり、下げたり。落ち着きのない稜花に対して、益々周囲から笑い声があがる。
「とても、美しくていらっしゃる」
「……っ」
ようやく、欲しかった一言が落ちてきて、稜花は目を見開いた。
安堵と同時に、胸の高鳴りが大きくなる。まるで初めて彼に恋したみたいに、感情を上手く抑制できず、その瞳が潤んだ。
そんな稜花を逃がすまいと、楊炎は稜花の手を引いた。これから李家一同が顔合わせをして儀式が始まるというのに、問答無用で稜花を部屋から連れ出す。
部屋からはあらあら、と実に楽しげな声が聞こえてくるばかりで、誰も稜花達を引き留めようとはしなかった。
楊炎に手を引かれるまま、稜花は東屋の方へと足を運んだ。儀式までの時間がさほどないことを知っている。なのに彼がこうやって、人前で堂々と連れ出してくれたことが嬉しく、こそばゆい。
「こちらを向いて下さい、稜花」
「う、うん……」
なんだか、改めて向き合うのがこそばゆい。普段は自分から口づけをしたり、彼に抱きついたりといろいろしてきたけれども。儀式のために普段と違った装いの彼にもどきどきしてしまい、ああ、本当に楊炎の事が好きなんだなあと実感してしまうと、もう駄目だった。
今までどうしてあんなに大胆なことが出来てしまったのだろうと思う。真っ直ぐ、優しげに見つめられるだけでこんなにも嬉しくて、どうして良いのか分からないのに。
やはり、もう一度彼に恋してしまったらしい。
「今日は、大人しいですね。稜花」
「えっと、そうかな。いつも通りだと思うわよ?」
はぐらかしてみたものの、稜花の心内などお見通しらしい。楊炎は笑みを濃くし、稜花が視線を逸らせないようにと頬に手を添えられた。そうして顔を近づけ、稜花の視線を独り占めする。
左頬。眼帯で隠しきれないほどにざっくりと残った古い傷。その他にも数多。彼が受けてきた虐待による傷が目に入る。
彼が乗り越えてきたものが刻まれた彼の顔。見るだけで愛しさが溢れてきて、困る。非常に。困る。
「楊炎は、ずるい……」
堪えきれなくなって、稜花はぼそりと呟いた。何のことかと彼は片眸をぱちくりしているけれど、そんな彼の胸に稜花はそっとその手を添えた。
「貴方を見ると――その……好きで堪らなくなる」
そして、稜花は正直な気持ちを吐露した。言葉にしてしまうと、ますます顔に熱が集まってくる心地がして、益々、困る。けれど目の前の彼は、眩しそうに目を細め、稜花の体をそっと引き寄せた。
折角着付けられた花嫁衣装を崩さぬよう、優しく抱きしめられる。彼の顔が益々近づいて、視線を逸らせない。
目を細める彼の表情に、かつての闇はない。心の底から稜花を受け入れてくれるのが分かるからこそ、嬉しくてたまらない。
長い間、彼とともに過ごしてきた。右も左も分からぬ時から、彼は稜花を導いてくれた。そして、稜花の決意を曲げぬよう、影から、精一杯後押ししてくれた。
どこに向かうときも、どんな壁を乗り越えるときも、彼は稜花に寄り添ってくれた。そして、きっとこれからも変わらないのだろう。――いや、これからはきっと、後ろではなく、隣でともに歩んでくれる。
ありがとう、と口にした。
今までのこと、そしてこれからの未来に想いを馳せて。
「私こそ、稜花。私を、貴女の隣に連れ出してくれたことに、感謝する」
「うん」
「――私の妻と、なってくれるか。稜花」
「もちろんよ、炎」
我慢できなくなったのか、彼は稜花の唇に己のそれを重ねた。後でお化粧を直さないと。とぼんやり思いつつ、稜花だって離れることなどできはしない。
ずっと触れていたくて、目を閉じる。
十二ツの銅鑼が、永遠を思わせるように、鳴り響く。
唇から感じる柔らかな温もり。もう二度と、彼と離れはしないと、強く誓った。
 




