埜比包囲網(2)
埜比を包囲して数日。戦況は完全に停滞しているように思えた。
日夜問わず、三領の連合軍はあえてぬるい手を打ち、数でもって埜比を追い詰める。しかし、一気に仕掛けることも無く、ただただ、相手を逃がさぬように包囲するのみだ。
それが二十日ほど続いたところで、そろそろかという声が上がりはじめた。じりじりと埜比軍に焦りが見え始めているのを、稜花も感じるようになった。
攻城戦は稜花にとっても初めての経験だが、日ごとに先方から伝わってくる異様さを肌で感じていた。
まず、薄黒い煙がひっきりなしに上がり始める。城壁の外まで異臭が漂い、日中の交戦では敵兵が異様な叫び声をあげる。以前参加した討伐戦での敵軍の勢いとは全く別の、虚ろな目をした連中を相手にしているようで、正直気味が悪い。
そもそも、相手の士気がそう高くないのだろう。王威さえいなければ、今回のようにそもそも攻められる事もなかっただろうし、早々に降伏することも出来たはずだ。しかし、それが出来ない。王威の気配は未だ見えないが、埜比の住民にとって相当な圧力が加えられていることくらい、稜花にもわかる。
相手の士気が大幅に下がっていることを受け、楊基たちも本格的に動き出す日を決定しようとしていた。季節は冬。そもそも、攻城戦には向いていない。焦っても仕方の無いことではあるが、早いところ勝負をつけてしまいたいのが本音なのだろう。
だが、上層部はそれでもゆるりと事をかまえ、長期戦に入るつもりなのだろうか。稜花をはじめとした李進隊も今だ本格的な出陣がなく、陣の後方で補給を担当している。稜花の気持ちとしては、折角戦に出てきているのだから前線に立ちたいわけだが、来たる日に備えよとそればかりだ。
稜花にとって“備える”という言葉を使うなど、調練にしか繋がらないではないか。最近警戒ばかりで体もなまってきたし、と、心の中で付け足しておく。
「ねえ、楊炎」
ある日の夜。闇が深くなり、一部の兵が交替で就寝をはじめる時間。
結局我慢できなくなって、稜花は楊炎に声をかけた。とはいっても、楊炎は毎日稜花の元を離れない。その実力からして、いち護衛にするにはもったいなさ過ぎる楊炎であったが、本人にも出世欲がないのだろう。李公季から命じられた通り、稜花の護衛として付き従っている。
「ちょっと体動かしたいんだけれど、付き合ってくれる?」
「……休めるときに休みませんと」
返ってきたのは、相変わらずのつれない返事だった。
先日の討伐戦とは違い、今回は彼と共に過ごす時間がたっぷりとある。護衛という立場から、彼が逃げも隠れも出来ない状況であることを利用し、稜花はひっきりなしに語りかけてきたのだ。
その甲斐もあって、稜花の言葉を完全に遮断・拒否してきた楊炎も、“受け流す”という手段を覚えてきたらしい。流されるとしても、一度言葉を受け止めてくれるだけ、大進歩とも言える。
「出陣ないから、体がなまっちゃって。楊炎もじゃない?」
「……」
もう一押し、と、言葉を付け足す。すると、ほう、と大きなため息をつきながらも、その気になったらしい。まさかの展開に、よし、と心で勝ち鬨をあげた。
自分の提案に楊炎が乗ってくれるなど、ついぞなかった。毎日話しかけて約二十日。ようやくここまでこぎ着けたのだ。心の中で万歳三唱し、稜花はうきうきと彼の手を引いて歩き出した。
幕舎を少し抜けたところまで歩く。あまり遠くまで行きすぎると、たいまつの炎が届かなくなる。月が輝き、比較的明るい夜ではあるが、刀を振るうなら、少しでも明るいところの方が良い。
冬の寒さで空気が澄み渡り、頭が冴え渡る。稜花は双剣を掲げ、一人で幾ばくか空を切り、自身の体の動きを確認する。思い切り動くのはいつぶりだろうか。ぼやんとしていた頭に冷たい空気が染みこんでくるようで、張り詰めた糸のような気を纏った。
「本当になされるのか」
「ほらほら、はやく武器を構えなさい」
「……」
楊炎は観念したかのように目を閉じ、腰の刀に手をかけた。次の瞬間、鋭い眼光に睨まれる。片眼にも関わらず、ぞわり、と得体の知れない緊張感に全身が覆われた。
やはり、楊炎。ただ者ではないらしい。対峙しているだけなのに全身から汗が噴き出る。彼自身が研ぎ澄まされた刃のようで、まったく隙がない。双剣を構えたまま、稜花はじり、と距離をとりあぐねた。楊炎から仕掛けてくる様子はなく、あくまでも、受けて流すつもりのようだ。
心の中で燻る恐怖を蓋を閉じ、稜花は大地を蹴った。
「やっ!」
左の剣で胸元を払う。が、さっと後ろに避けられて、彼から一振り。右手で上にはじき飛ばし、どうにか彼の懐へ入ろうとした。
しかし、楊炎は簡単には間合いに入らせてくれないらしい。半歩退き、稜花の攻撃をさっと避けるとすぐに、今度は逆方向からなぎ払ってくる。
——やっぱり、強い……!
刃を交えるだけで、わかる。稜花にとって、今までは兄が最も強い調練相手だったわけだが、これは完全に認識を改めなければならないだろう。
正直、楊炎がどれだけ強いのか、判断できない。本来刃を交えると、相手と自分の実力差が浮き彫りになるし、戦闘に向ける感情すら伝わってくるはずなのにだ。
そもそも、自分との実力差が大きすぎる。更に付け加えると、彼が何を考えているかなんてとても分かったものではない。刃を交える前と全く同じ。ただ、闇。深淵に心が埋もれて、こちらに届かない。
いつか楊炎とは闘ってみたいと思っていた。戦になるたびに側に居るのに、彼のことが知り得ない。だから刃を交えれば少しは、と思ったのに甘かったらしい。
けして心には踏み入れることを許さぬ、とばかりに、鋭い眼光に晒されるだけで、一向に彼に近づける気がしない。それでも、一緒に居るからには、もう少し心やすくあってくれても良いだろうと稜花は思う。
「いくわよっ」
「左脇が甘い」
一旦体勢を立て直し、再度彼の前へ飛び込む。小柄な体つきと速さでもって相手を翻弄するのが稜花の強みであるが、すべて見切られているのが歯がゆい。何度打ち込んでも、彼は柳のように受け流してしまい、かわりに大きな一振りがくる。その刀は速くて、重く、稜花は両手の剣を交差させて防ぐしか手段を持てなかった。
しかし、両手でもってしても彼の攻撃は受け止めきれなかったらしい。体ごとすべてを持っていかれて、彼の振るった剣先の方向へ吹き飛ばされた。
凍った大地にたたきつけられ、その衝撃に目を閉じる。ずきずきと、背中から痛みを感じ、目を開けたところ、自身の鼻先に彼の刃があった。
月を背に、深い闇が浮き彫りになるようで稜花は目を奪われた。全身黒い影になっている中で、彼の片眸と刀だけがぎらりと光る。身動きがとれずに、ただ、ぽかんと彼の方を見たまま、参ったと口にする。
稜花の声に、楊炎もすっと刀を下ろす。代わりに手を差し出してきてくれた。
思いがけぬ行動に稜花は目を丸くする。ふと彼の瞳に視線を送ると、表情一つ変えていない。ただ、当たり前のこととして手を貸してくれるようだ。
彼の手は稜花のものよりも二回りほど大きく、すっぽりと包みこむと、強い力で地面から引き上げられる。
「……ありがとう」
「無意識に左手を出すのを止めた方が宜しいかと。脇腹に隙ができます」
「……」
折角感謝の言葉を述べたのに、返ってきたのはお小言だった。しかし、楊炎ほどの実力者が言っているのだ。すとんと言葉が入ってきて、稜花は頷く。
「貴方が強いからよ。途中から無我夢中になっちゃった」
「姫の悪い癖でしょう。貴女は戦場に溺れる傾向がある。常に冷静でおいでください。命がいくらあっても足りない」
「それは……」
……そうだけど。と、返事が尻すぼみになってしまう。熱を持たない瞳に責めるように見つめられて、何とも言えないばつの悪さに閉口した。
そのときだ。ぱちぱち、と手を叩く音が聞こえて、稜花は振り返る。幕舎の方から、一人の男が護衛を連れてやってくるのが見えた。
鋼色の髪に、燃えるような朱の瞳。かっちりとした体つきに、精悍な顔立ち。
楊基——この軍の総大将が何故こんな幕舎の裏手に来るのか分からず、稜花はぽかんと口を開けた。
「見事だ。稜花姫」
「……ええと」
突然の楊基の出現になんと答えて良いのか分からず、稜花は狼狽した。そんな態度がおかしかったのだろうか。楊基はくつくつと笑いながら稜花に近づいてくる。
「なるほど、李進殿の言葉も頷ける。腕は良いようだ」
「ありがとうございます」
みっともないところを見られたはずなのに、こうも褒められてしまうと、素直になるしかなくなる。稜花は倒れた際についた砂埃を軽くはたいて、楊基に会釈した。
隣で、楊炎が警戒色を強くしたのがわかった。ぴり、と空気が張り詰める心地がする。今は援軍という形で協力し合っているものの、本来ならば対立する地の領主だ。楊炎の反応は間違いではない。
「——ふむ、そこの護衛も優秀だな。名は?」
「……楊炎と」
「私の部下にならないか?」
「ちょっ」
目の前で堂々と引き抜き活動をされてしまい、稜花は目を白黒させた。
「だめだめだめだめ! 楊炎は、私の、護衛なんだからっ!」
通せんぼをするかのごとく楊炎と楊基の間に立つ。その様子に堪えきれなかったのか、楊基が吹き出した。なんとも馬鹿にされたような気がして、抗議の声をあげようとしたが、楊炎の方からすっと前に出て、先に辞してしまう。
「私が心に決めた主は、李公季様ただお一人にて。お言葉には応えられません」
「なるほど、其方は李家の長兄の手の者か。ふむ。李家の長兄は、よほど妹君が大事とみえる」
稜花の護衛であると主張したことすらも、あっさりと本人に否定されてしまい、がっくりとうなだれた。しかし、相変わらず楊炎からはぴりぴりした気配が漂ってきて、どうしたものかと思う。なんだかいつもよりもその眼光が鋭い気がして、そこまで警戒すべきなのかと疑問視した。
一方で、楊基は断られたにも関わらず、満足そうに楊炎を見た。検分するかのように全身を見つめ、にいと笑みを浮かべる。
「楊炎。ふむ、隻眼の、剣士か……なるほど」
何に納得したのかはわからない。だが、非常に面白いものでも見る目で、楊炎に視線を注ぎ続ける。楊炎はというと、不快感を隠す様子もなく楊基をにらみ返した。
普段感情を露わにすることが滅多にない楊炎だ。なのにこうも簡単に、他領の領主に不快感を露わにすることが珍しく、稜花は驚きを隠せなかった。
「なんだ、そう怖い顔をするな。其方に興味を持っただけだ」
「何度言われようと私は……」
「いい、いい。其方が主とその妹君が大切なのはよくわかった。睨むな、諦めるから」
楊炎の表情が明らかに険しくなったことに苦笑しながら、楊基は手を振った。この短期間でこんなにも楊炎の感情を引き出せるものかと、稜花は少しばかり嫉妬する。しかし、当たり前の事ながらも、楊炎が楊基について行くことはなさそうなので、ひとまず安心しておくことにした。
「それはさておき、稜花姫。貴女はなかなか筋が良いな」
今度は稜花に視線を向けられ、はっとした。楽しげに笑みを浮かべながら、楊基は稜花に近づいてくる。力強く、自信に満ちた笑みを浮かべる様は、まさに王者の気風だ。
領主にしては彼は随分と年若く、まだ経験も浅いはずなのに、この堂々とした雰囲気はなんだろうか。父である李永にさえ勝るとも劣らない覇気を感じ取り、稜花は目を奪われた。
「稜花姫よ。先日、貴女を愚弄してしまったことをここに詫びよう」
「かまわないわ。あ、いえ、かまいません」
「くっ……普通にしてて良い。そう気構えるな。それにしても、本当に、なかなかの腕前だ」
楽しげに、楊基は稜花をじいと見つめた。今度は稜花自身が品定めされているような心地で、落ち着かない。少し困ったような表情を投げかけると、楊基はますます破顔する。
「李家の姫君は随分お転婆なようだ。楊炎、其方も苦労するだろう」
「っ。ちょっと、好き勝手言……」
「稜花姫よ、先ほど楊炎の言っていたとおり、戦場では冷静になることだ。御身の命はなかなかに貴重なようだからな」
反論しようとしたところ、直ぐに出鼻を挫かれてしまい、稜花は口を閉ざした。横で小さく楊炎が頷いているのが見える。普段は無表情、無反応なのに、こんなときだけ同意するのはずるいと思う。反射的に彼をにらみ付けてから、稜花は楊基に向き直った。
「……でも、今は戦場に立つ機会なんてないわ」
「なあに、心配せずとも、すぐだ。李進殿からも連絡があるだろう。攻め込む日が決まった」
「!」
まさかの言葉に、楊炎と目を見合わせた。曲がりなりにも、相手は総大将だ。情報源としてこれ以上正確な者はいまい。と同時に、身震いのようなえも言えぬ感情が湧いてくる。恐怖と高揚感が混じり合ったような感情の高ぶりに支配され、体が熱くなった。
目を大きく見開き、ぶるぶると震えそうになる体をどうにか押さえ込む。その稜花の一瞬の変化に気付いたらしく、楊基はほう、と目を細めた。
「——若いな。そういう目の前が見えなくなるところを楊炎は心配しているのだろう?」
完全に読まれているらしい。楊炎の方も、僅かに眉を上げたが、すぐにばつが悪そうにそっぽ向く。心配しているという言葉は、どうやら事実だったらしい。
さらに、宥めるようにぽんぽんと頭を叩かれたものだから稜花は目を白黒させた。
「ちょっと、子ども扱いしないでっ」
「子どもだろう。どう見ても」
抗議したものの、彼は手をどける気はないらしい。楽しげになでまわされ、稜花は何とも落ち着かない心地で楊基をにらみ付けた。
その様子に、横で楊炎が呆れたようにため息を吐き、失礼ですが、と声をかける。楊炎の言葉には楊基も素直に聞く気が起きたらしく、大きく頷きながら手をどけた。扱いの差がひどい気がするが、気のせいではないかもしれない。
「若いのは悪いことではない。経験を積んで、冷静でいられる心を育てることだ。だから、それまでに命を落としなさるな。……これは、李家の次兄にも同じ事が言えるが」
「兄上も?」
「流石李永殿のご子息と言うことだろう。なかなかに血気盛んで、有望だ。李進殿にも、姫にも、活躍に期待させて頂こう。ふむ。今回もなかなかの楽しみが出来たな」
そう言って余裕ぶった大人の笑みをみせていると、もうそろそろ、と、彼の背後から護衛兵達が声をかけてくる。もともと、別の用件のために稜明の幕舎の方へ来ていたらしい。
「なんだ、折角面白いものを見つけたのに、皆して邪魔をするのか? ……まあ、仕方ないか」
楊炎は稜花に背を向ける。そして去り際に一度足を止め、振り返った。
「稜花姫。けして無理はするな。己を忘れるな。その命、必ず自身で護ると心に刻みなされよ」
先ほどまでの砕けた笑みとは全く別の、真摯な瞳。稜花ははっとして、ただ、頷いた。
彼の姿が見えなくなるまでしばし、幕舎の方向に視線を投げかけ続ける。どうやらそのままぼんやりとしてしまっていたようで、楊炎に声をかけられるまで、身動き一つしなかったようだ。
「姫」
「……! 楊炎?」
「あまり、あの男に心を砕かれなさるな」
「?」
一瞬、何を忠告されたのかわからなかった。目を丸めて、脳裏で彼の言葉を反芻させる。
楊基。彼を信用するなと言うのだろうか。他領の者だから、楊炎の言い分はもっともだが、それにしても敵意をむき出しにし過ぎてないか、と稜花は思う。普段無表情な彼だからこそ余計に、表に出してきた感情に戸惑った。
楊炎の表情を見やる。
しかし、彼と目が合うことはない。彼は、楊基の去ったその先を、ただひたすら見据えたままだった。