冬の花嫁(2)
冬の花嫁。
故事によると、雪とともに不吉を運ぶと言われるもので、北国では特に忌み嫌われる。
冬の輿入れは基本的に避けられ、実り多き秋までに、執り行われることが圧倒的に多い。
しかし今。
昭国軍の前に現れた彼女は、彼らの主君に輿入れするために誂えられた衣装をそのまま羽織っている。まるで花嫁のような美しき娘が、彼らの王を鋭く睨み付けている。
白き雪が、稜花を運んだ。
青銀色の艶のある髪は、この空の下では寒々しく感じるらしい。意思の強い稜花の瞳に気圧されて、誰もが恐怖しているようだった。
「……私がいなくなったとたん稜国を攻めるだなんて。ずいぶんなことね?」
不吉を呼び込む、冬の花嫁。
怒気を含む稜花の声に、前線の兵が一歩引く。
「道を開けなさい! 貴方たちに用はないっ! 私は、一刻も早く、この戦を終わらせたいのっ!」
曲がりなりにも、稜花は楊基の元婚約者。いや、昭国兵にとっては、未だ稜花は彼の婚約者、あるいは妻としての立ち位置にしか見えないはず。
これが表向きに、稜花を奪い返すための戦であるならば、尚更。
だからこそ、彼らも戸惑っている。目の前に立った王の婚約者に、刃を向けて良いものか、と。
そのざわめきの中に割って入るかのごとく、稜花は前線を突破する。
完全に出遅れた昭兵は、後続の稜国騎馬部隊に呑み込まれるようにして、混乱が広がってゆく。
戦場は横に広がっている。楊基の所まで辿り突くには、一体何層突破すれば良いのだろうか。
だが、と同時に稜花は思う。
全て突破する必要なんて、ない。稜花の存在に気がつけば、楊基は必ず稜花の前に姿を出す。
だって稜花は知っている。彼はもう、かつて稜花を殺そうとした時の彼とは異なっている。恐怖を感じて逃げてきたけれども――何故だろう、彼が、稜花を殺すことを良しとしていないことだけは理解している。
そして、今。
たったひとり、楊基に捕らえられていたあの時とは違う。稜花の側には、仲間が居る。
二度と彼の檻に取り込まれないように、護り、援護してくれる者たちが。
道を切り開く。一般兵卒などものともせず、稜花は一心に突破を目指す。
楊炎が躍り出て、邪魔な弓兵を薙ぎはらう。流石、と思ったところで、視界の端に不審な動きをする者を発見した。
「楊炎、暗部!」
「っ! こんな戦場に!」
ちょろちょろと素早く動く彼らの数は、二。多くはない。が、彼らに足止めされるつもりも無い。
「姫様! 奴らは、俺たちが! ですから前へ!」
後ろに続く兵のうち、何名かが名乗りを上げ、方向を転換する。
ありがとう、と礼を告げ、稜花は彼らを信じて前へ。ぐんぐんと、驚く敵兵の間をすり抜け、一軍の層を抜ける。
視界が一気に開かれる。楊基は、と探してすぐに分かる。
組まれた陣と、旗の数。正面奥。このまま真っ直ぐ進めば、彼の所へ辿り着くはず。
冬の花嫁の噂は、昭国兵のかなり奥まで広がっているようだ。稜花自身が敵兵の層から抜け出し、姿を現したとき。第二陣にあたる者たちも、ざわ、とこちらを見た。
朱の衣が、鮮烈にはためく。皆それに目を奪われているようで、稜花はにい、と笑顔を浮かべた。
――この位置なら。楊基に、届くかしら。
馬を走らせ、稜花は叫ぶ。
「楊基……っ!!」
彼とは、きちんと、向かい合わないといけない。
「楊基、稜花が来たわよ! 通しなさい!」
***
「……」
主の拳に力が入ったことくらい、陸由は分かる。こくり、と、唾を飲み込む音すら聞こえてきそうで。彼は、明らかに動揺の色を見せていた。
戦況を見渡せるようにと組み上げられた陣の上で、遠くに揺れる朱を見つめ続けている。
へぇ〜、と、その隣では実に楽しそうに、高濫が笑みを浮かべていた。すぐに近くにいる兵に対応を命じようとしたところ、主である楊基が手で制する。
「なぜ止めるのです、殿。彼女は、昭国を裏切った娘ではないですか」
「まだ私のものではなかっただけだ。これから手に入れる」
降り始めた雪は、やがて大地を白く染め始める。宙を舞う白も強くなり、霞む視界に、彼女の朱は強く印象に残る。
どこから見ても、誰から見ても。すぐに彼女を見つけられる。戦場で目立つのは自殺行為だが、彼女の目的はすぐにわかった。
「姫を取り囲みますか、殿」
だからこそ、陸由は提案する。幼いときからずっと側にあり続けた王の、本当の意味での我儘だ。
今まで、彼が積み重ねてきた要求、我儘の類は、どれも彼の主としての存在を印象づけるためのものでしか無かった。時には苛烈に、時には懐深く。そう振舞ってきたのも、彼の地の主という立場を確立するためのものに過ぎなかった。
でも、陸由は気がついている。
そんな彼が、初めて後手に出ざるをえなくなったのは、彼女の位置づけが変わったからだ。
稜国との関係は、修復できないものになるだろう。だからこそ、彼女を手に入れるならば、今。稜国の奥深くへ戻ってしまう前に。そして、昭国軍の目の前に、彼女自ら出てきたのだから。
じいと、隣に並ぶ楊基を見た。彼女からただの一度も目を離さず、その朱色を見つめている。飛び出すことをこらえて、王たらんと悠然と構えている。
「弟君はどうするのですか、殿。姫君を連れ去った稜国の刺客。あるいは婚約者と姦通した犯罪者の弟君。どうとでもできると思いますが」
「おい、高濫!」
「だって、そうでしょう? 少なくとも、殿に協力的でない楊家の者は、彼らの逃亡を黙認した。一掃するなら、今、手を打つべきだ」
稜花たちが昭国北部を抜けてこちらへ出てきたのは、陸由だってわかっている。いくら辺境とはいえ、あそこは反楊基派の地。簡単に昭殷の兵が足を踏み入れられる場所ではない。
しかし、楊基は高濫の助言を気にとめることはなかった。彼はただ、まるで舞うかのように前進する朱を目で追っていた。そして、考え込むように両の目を伏せた後、口を開く。
「道を開けよ」
「殿?」
「稜花をここまで引き入れよ! 取り逃さぬ様、囲い込め!」
楊基の命により、中央の兵が手を緩める。稜花を誘い込む様にして兵が後ろに引くと、舞う朱がこちらに近づいて来るのがよくわかった。
彼女の事だ。こちらの手が緩んだ事くらいすぐに分かるだろう。罠を張り、誘い込んでいる事もおそらく。
しかし、一度は昭国から逃げた彼女が、再び向こうから罠に飛び込んで来るのは何故か。
後ろの稜国軍と、こちらに迫りつつある彼女の部隊は、明らかに分断されつつある。にも関わらず、揺るぎない意志でもって、こちらに近づいて来るのは――。
じりじりと戦場を見守り続ける。
白い空気に強く主張する朱が、やがて王の前に迫り来る。
やがて彼女は目の前に、その艶やかな姿を現した。
少数の彼女の駒。彼女の側に寄り添う様にして立つ楊炎。僅かながらの稜国軍は、あっという間に昭国軍に取り囲まれた。
しかし、彼女は一切ひるむ事は無い。青毛の馬から地面に降り立ち、慈しむ様に馬の首を撫でる。
そうして稜花は、昭国王楊基に向き直った。
「楊基――」
彼女の凜とした声は、よく通った。
強い風が吹き、彼女の青銀色の髪をすくう。白い雪の粒が煌いて、彼女の朱がより鮮明に目に焼きつく。
怒りの色で染め上げたようでもあるが――どこか落ち着きのある瞳の赤。眉を吊り上げ、背筋を伸ばし、この圧倒的な軍勢に一切の恐れを抱かぬ彼女。
射貫くような強い視線に気圧されて、周囲の兵たちが一歩引く。
冬の花嫁、と誰かが呟くのが聞こえた。
艶やかな花嫁衣装は、彼女の整った顔立ちによく似合う。雪とともに不吉を運ぶ、美しき花嫁――なるほど確かにその通りだとも思うが、そんな言葉では説明しきれない。
「よく、私の元へ戻ってきた。稜の戦姫よ」
「楊基」
「戦場でもその衣装を纏っているのは、私の妻になる為なのだろう?」
「馬鹿なことを言わないで」
「私が、冬の花嫁など迷信を信じない事くらい、そなたは分かっているだろう?」
「そうね――」
目を細めながら、彼女は一歩一歩、こちらに近づいて来る。そのすぐ隣には、楊炎が。彼もまた、迷いなき目で実の兄を見据える。
稜花がごく近くにたどり着いた時、腰に佩いた双剣に手をかけた。それを目にした瞬間、陸由自身も、他の者たちも一斉に武器を構える。
が、楊基はあっさりと皆を手で制した。何を考えているのだと、王の注意を喚起するように声をかけるが、彼は構わん、と返答するのみだった。
「私はね、楊基。貴方を止めに来たのよ」
「私を、止める?」
「このくだらない戦を止めなさいと言っているの!」
稜花の怒声が周囲に響く。彼女は挑発するかのように双剣をくるくると手のひらの上で回転させては、やがて両腕を伸ばし、構え直した。
「貴方が稜国を手に入れようとするならば、私は全力でそれを止める!」
今にも楊基に襲いかからんとする稜花を、止めようと周囲の兵が武器を掲げる。しかし、稜花の背を護るようにして、地面に降り立った楊炎もまた、その刀に手をかけた。
「兄上の腕は、確かですよ」
「そうでしょうね」
「本当に、行くのですか?」
「あら、私を止めるの? 炎?」
「止めても行くのでしょう? ならば、後方の憂いは、私が」
楊炎が構える手に力を込めるのがわかる。稜花もまた、楊基を睨みつけたままだった。
じいと見つめ合いしばし。楊基が一歩前へ出る。
「我が妻は、本当に勇ましい」
「誰が、貴方の妻になんか」
「威勢が良いな。直接たたき伏せないと分からんのか」
「やれるものなら、やってみなさいよ」
相対する二人の距離がつまり、誰もが緊張の色を見せた。手を出すな、と楊基は言い残し、腰に構えた剣を抜く。
長すぎず、重すぎず、程よい大きさの両刃の剣。その実力を陸由はよく知っている。
楊基の剣は、王者の剣だ。基本に忠実で、真っ当。誰に恥じることのない、正統なる技術に裏打ちされたもの。
そして稜花と相対したこともあったからこそ、陸由には分かっていた。彼女が楊基にかなうはずがないと言うことを。




