冬の花嫁(1)
この感覚。まるで渦のような熱気の中に意識を全て奪われるかのような。
心臓の鼓動が高まる。呼吸が浅くなり、真っ直ぐ、目指すべき一点を見据えて――。
「稜花!」
「分かってる! 稜明軍に――いえ、稜国軍に合流しましょう!」
ちら、と稜花は、初めて見る旗に目をやる。その鮮やかな青。稜、の一文字に想いを馳せて――。
――稜国か……。
閉じ込められ、逃げだし、ここまでやってくるまでの日々。
短いようで長かった時の流れの中で、外の世界はこうも変化していたらしい。自分ひとりで何か成そうなんて、烏滸がましかった。皆、それぞれ、国のために出来ることを成している。
そして、稜明が稜国になったと言うこと。それはすなわち、杜との関係に何らかのケリが付いたことを意味している。
あの混乱をどうまとめたのか、稜花には確認しきれなかった。だが、李公季は龐岸で失った杜の使者の命に関し、何らかの申し開きをしたのだろう。
とは言っても、あの状況。杜と稜明が不信に陥った異常事態。そう簡単に、話がまとまるとも思えない。一体どんな方法をとったかは分からないが、一つだけ、確かなことがある。
稜花は、自分の兄を信じている。
稜国がすでに起っていることが証明している。李公季は、ことを成したのだ。
「流石、兄上っ」
益々気分が高揚する。速度を上げると、周囲の冷気が稜花の肌を刺す。色彩の少ない閑散とした世界に、ほう、と息を吐いた。
まだ、稜国軍までの距離は遠い。彼らの目に入るにはもう少し――そう思い、戦場を睨み付けていたとき――。
はらり、と、稜花の頬に、冷気の粒が落ちた。
目を見開き、空を見上げる。灰白色の雲が青を覆い、薄暗い光だけが溢れる世界に。ちらり、ちらりと白が落ちる。
ああ、と、稜花は思った。
二年前。初めて、戦場へ飛び出したときも――こうやって、雪がちらついていた。
あの時、隣に初めて楊炎が立ってくれて、その圧倒的な強さに惹かれもした。
戻ってきた。
雪とともに。稜国へ――。
「稜花」
隣に、黒の影が寄る。
こちらの存在に気付いた者が居る。そう彼は告げ、稜花の前に出た。
「炎ったら! 一番乗りをとらないでよ」
「貴女は、私の背中を護っていれば良いのです」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ!」
いつになく好戦的な楊炎の隣に並び、稜花は身構える。肩に引っかけた衣がはためいて、白の世界に鮮烈な朱を落とした。
競うように前に進むと、一人、二人とこちらの存在に気がつき、動きを止める者が出てくる。
敵は戦車部隊の第一波が押し込んだ後のようで、第二波に向けて空間を広げている。稜国側の弩兵部隊が下がりゆく戦車部隊の背後を襲っていた。
稜国軍は、いつになく防衛の構えが出来上がっている。しかしそんなことは、昭国だって百も承知なのだろう。圧倒的な戦力でもって押しきろうと構えている。
相手は短期決戦の構えなのに、稜国はよく被害を少なく押さえ込んだものだと思った。
やはり、自分は烏滸がましかった。彼らは、彼らだけで、自分たちを防衛するだけの力がある。
それでも稜花の想いは変わらない。自分だって、稜国を護りたい。ただそれだけだ。
「――稜花!」
遠くから、聞き覚えのある声が届く。
ハリのある、力強い青年の声。溌剌とした響きが、懐かしい。
稜花はその声の主を発見して、頬を緩める。隣に走る楊炎もまた、口の端を上げた。
「あの者も、相変わらずですね」
「そうね……でも、なんだか、懐かしい……!」
稜花は更に速度を上げる。戦車が何度も通った地面。少し足場は悪いけれども、この軍馬はなんと言うことなく進んで行く。
「泊雷! みんな!」
稜花の呼びかけに、一気に歓声が広がる。最前線に飛び込むと、稜花達の後ろに並ぶようにして、泊雷、悠舜たち遊撃騎馬兵が列を成す。
「稜花! お前、馬鹿っ! 無事だったのか」
「まあね。ちょっと色々あって、逃げてきたの。炎と」
「炎?」
そう呟き、泊雷は眉をひそめて楊炎の方を向く。楊炎はそんな彼には気も止めないらしく、第二波が来るぞと短く言葉を切った。
「貴方たち、私に付いてくるのは良いけれど、大丈夫? 作戦無視には……」
「今は俺が指揮を。姫様に譲渡します」
「悠舜」
「稜花軍、ですから」
稜花は、濃い笑みを浮かべ、しかし、首を横に振った。まさか否定されるとは思わなかったらしく、悠舜は何度か瞬く。
「私は、行かなければ行けない場所があるの。貴方たちは持ち場に残りなさい。この軍の総指揮は?」
「若――李進様です」
「そう、兄上が……」
李家の次兄。懐かしい顔を思い出して、心が温かくなる。
別れの時。どんなことがあっても、彼は稜花の味方でいてくれると言っていた。
――国境まで、出てきてくれたんだ。
もちろん、それは稜花のためだけとは言えない。
それでも、昭国との関係が不穏なものになったとき、きっと自分のことを心配してくれたことくらい分かる。だって、兄妹なんだから。
「炎」
「はい」
「私の兄上は、最高でしょう?」
「ふ……存じておりますとも」
稜花の言に笑う楊炎。
まるで夢でも見ているかのように、泊雷がぽかんと口を開けている。悠舜も何度か瞬いてから、では、姫様の援護を、と言葉をひねり出した。
「ありがとう! じゃあ、行くわ! 誰か、弓を頂戴!」
弓を受け取りながら、自軍に目を向けてみる。川の向こう側にある、国境を警備するための砦の上。手を振る小さな人影が見えた。
――宇文斉……!
彼もまた、出てきてくれたらしい。ふと笑い、自軍中央を目指して駆ける。
迫り来る戦車隊の第二波。稜花は味方から弓を受け取り、狙いを定める。久しぶりだけれども、的が大きければ外すはずがない。
機動力はこちらの方が圧倒的だ。数では負けていても、側面をとってしまえば怖いものでも何でもない。
狙い放題の位置。ぺろりと舌を出しながら、弓を放つ。
立て続けに二頭の馬を狩り、戦車が横に倒れていく。そこに仲間の騎馬兵が一気に押し寄せた。
敵の左翼は一気に混乱状態に陥る。もちろんそれを逃す稜花でもない。
今よ! と声をかけると、それに呼応するのは歩兵部隊だ。数でもって一気に押し寄せ、逃げ遅れた敵兵を狩ってゆく。
しかし、こんなものはまだ戦場の隅で行われている小さな戦いでしかない。戦線はかなり広がっているようで、数で圧倒しようとしている昭軍の包囲網は厚い。
ざっと引いていく第二波に紛れるようにして、稜花は悠舜たちの元を離れた。稜国軍の歓声を受けながら、戦場中央へと馬を走らせる。目的の人物が見えるようになるまでしばし、無理に戦場を横切り、ただ駆ける。
自軍の兵たちは稜花のために道を開け、昭国の攻撃を防いでくれる。何も言わずとも稜花を通してくれる皆に礼を告げながら、稜花は真っ直ぐ本陣の方向へ走った。
「稜花!!」
遠くから、稜花の存在に気がついて、相手の方から前に出てきてくれた。やはり、砦の上でぬくぬくとしている人ではなかったらしい。
李家の兄妹の中でもっとも戦慣れしている次兄李進は、きっちりと味方全体が見える位置で、いつでも前に出られるように準備している。その威風堂々とした顔を見るだけで、稜花の心も軽くなった。
「兄上!」
「お前っ……無事でっ!」
「兄上! 私に、役目を! 楊基を止める役目を頂戴っ」
必死に、叫ぶ。
そのために、この戦場に駆けてきた。
この戦、いつか起こるものだったとしても、そのきっかけを作ったのは間違えなく稜花だ。だからこそ、稜花は、ここから逃げることなど許されない。
「ったく、なんて良い時に……あっちより先に着くのか、お前は!」
「ふふ、あっちは、もう直ぐ来るわよ?」
「何だって?」
ちら、と、稜花は自らがかけてきた北の方角に顎を振る。それだけで、彼には十分通じたらしい。
「何でお前それを……だが、まあいいっ」
李進は、周囲の旗兵に、旗を掲げるように合図をする。
白の空に突き上げられる、稜の青。冷たい風が吹き、鮮やかにはためく。
「皆! 稜の戦姫がたった今、帰国した! これより、攻勢に転ずる!」
ドン! と、皆が一斉に地面に強く足を鳴らす。と同時に、武器が天へと突き上げられた。
「第一軍、稜花の援護をしろ! 稜花っ!」
「ありがとう、兄上っ! ちょっと、行ってくる!」
稜国の総指揮に手を振りながら、今度は稜花は敵陣に向かって真っ正面に向き直った。ぽんぽん、と、自分を乗せてくれている軍馬の頭を撫でる。
――無茶をさせるわよ、よろしくね。
いつかのように、自分の愛馬を慈しむかのように、微笑む。
次に、隣にいる黒の影に声をかけた。
「付き合ってくれるわよね、炎?」
「勿論」
無茶にはもう、慣れている。そう告げる彼の表情は、戦場で見せる鋭いものへと変わっている。
そうだ、この顔だ、と稜花は思う。
こうして彼は、稜花が意思を貫き通せるように、いつも隣で支えてくれた。
これまでも、そして、これからも。
「行くわ!」
真っ直ぐに、敵兵に向かって進んで行く。
敵の層は厚くて、これを破った先に、楊基がいる。
きっと、そこにたどり着くまでには、かなりの犠牲が必要になる。それでも、稜花には分かっている。彼と決着をつけるべきは、自分だ、と。
そして、稜花を見つけたならば、彼はどんな手段を使ったとしても、稜花と会おうとしてくるだろう、とも。
「はああああ!」
「……っ!」
稜花と楊炎を先頭にして、敵の最前線にぶつかる。右翼側とは違い、騎兵と歩兵でかためられた中央。稜国の陣――戦車対策に対応した結果なのだろう。一点突破するには、悪くない布陣だ。
朱の衣をはためかせ、最前の敵を薙ぎ払う。その手応えが予想以上に軽くて、稜花は何度か瞬いた。
なるほど、彼らもまた、突然戦場に現れた朱の衣を纏った女が“一体誰なのか”を悟ったらしい。
動揺が、戦場に広がってゆく。
鮮やかな朱色。まるで花嫁衣装を纏ったような、艶やかな娘。
両手に剣を構え、馬に小弓を背負わせて。
雪のちらつく冬の空に、寒々とした青銀色の髪。意思の強い瞳で、やだ真っ直ぐ前を見つめる。
そんな彼女が何者なのか、知らぬ者などいない。
かつて昭国の鎧を纏い、王とともに龐岸へ赴いた。帰ってきたときには、まるで王に愛されるように抱きかかえられて――。
そして、祝言の日。
噂とともに、消えた花嫁。
雪の粒が、風に流れる。寒々とした空に映える朱色。
それはまるで――。
冬の花嫁、と。誰かが、呟いた。
 




