秋の花嫁(5)
トクトクと。
体を寄せて耳を澄ますと、彼の穏やかな心音が聞こえてくる。
触れる肌が温かく、外気の冷たさを感じない。
二人で一つの衣をかけて、身を寄せあう。とろとろとした感覚に身を任せて、稜花は彼の胸に己の顔を埋めた。
「焔、という少年がいたのです」
ぽつり、ぽつりと落ちてくる楊炎の言葉は耳に心地良く響く。
「異母兄とは別に育ったので、彼のことを兄だとは、思っていなかったようですが」
「まるで、他人のことを話すみたいに言うのね」
「——記憶が定かではありませんので。夢に見るのと、兄上から聞いた話の断片だけで……あまり、自分のことだとも感じません」
「そう」
寝物語にしては、残酷な話だ。
でも、彼が自らの事を語ってくれるのは、稜花にとって特別なこと。
「私は、疎まれた生まれでした」
「疎まれた……?」
「先代の第二夫人の子でありながら……父が定かではないのです」
「え?」
「正確には、先代の子か、先代の弟にあたる楊然の子だと言われています」
まるで噂話をするかのように、彼は焔の生い立ちを語った。
どちらの子か分からぬが故、生かされた事実。母親に疎まれ、傷つけられた日々。左眼の光を失い、母親は幽閉され、引き離された。
そして彼は、兄である楊基にその生を握られる。
兄と同じ教育を受け、兄と共に過ごすようになる。しかし、いつまで経っても、焔は彼の奴隷でしかなかった。
楊炎の記憶に残っているのは、この辺りのことかららしい。
彼の言葉がやがて、己のことを語る口調に変わってきて、納得する。
——道理で、楊基を警戒するわけだ。
楊基の生み出した檻の中に囚われていたのは、彼も同じだったのかと理解する。
楊基の紡ぐ言葉は呪いのよう。母には愛されていたのか、いなかったのか。定かでない父親の存在をも何度も刷り込み、焔の存在自体に揺らぎを与える言葉を発し続けていたようだ。
そして、母はすでにいないのに、母の部屋に焔を住まわせ続けた。
一見、幼子には過分な住まいなのに、彼の失われた記憶が呼び覚まされる環境。自分の存在が母を狂わせたのかと、ずっと己を責め続ける。なのにその待遇は、楊基の情だと判断されていた。楊炎は、ただ、従順であったから。疑問を心の中で溜め込むだけで。
「兄上は、私の疑問など気づいていらっしゃった。その上で、私を彼処に押し込めた」
「彼処って?」
「姫もご覧になったでしょう。あの地下のーー」
「……うん」
暗くて、深い。地下の道。
年端もいかない少年が、たったひとりであんな場所に。
想像しただけで稜花の心が痛み、不安になる。
もう終わったこと。変わりようのない出来事なのに、彼のことを想っては、苦しくなる。
堪えきれずに、手を握りしめる。
ありがとうございます、と、柔らかな言葉が落ちてきたが、どうして彼が礼など言うことがあるのだろうか。彼はただ、思っていたことを飲み込みながら、生にしがみついていただけなのに。
「兄上にとっては、遊びのつもりだったのでしょう。私がどう足掻くのか、見たかったのだと思います」
「でも、そんなことってーー」
「おかげで、こうして貴女を連れて逃げ出せた」
楊炎は稜花の頭を撫でた。
それはまるで強請られるかのような手つきで、稜花は彼に顔を見せた。すると、深い闇色と目が合い、ふっと彼の頬が緩む。
こうも幸せそうな顔をされてしまっては、何も言えない。そっか、と、言葉に出来ない気持ちだけを口にして、稜花もまた笑みを浮かべた。
「山賊まがいのことをしていました。年端もいかない少年がそれなりに生きて生けたのは、この腕にそれなりの力があったからだったのでしょう」
「幼い頃から、強かったんだ」
「いえ。ただ、向いていた、のでしょう。昭を出たくて、東へ移動し——稜明にたどり着きました」
「兄上とは……?」
「……聞きたいのですか?」
「ええ!」
力一杯頷くと、彼は苦笑する。少し気恥ずかしそうにしているのが愛しくて、稜花は彼の表情をじっと見つめた。
それが益々気恥ずかしさを煽ったらしい。顔を見られまいと、彼の大きな手は、稜花の両の目を覆う。
「その話は、いずれ。もう、お休み下さい」
「ええー……」
「明日から、また休みなしです。ーーご無理をさせてしまったのですから、本日は、もう」
「……わかってる、けど」
楊炎の言葉に、稜花はたちまち真っ赤になって、言葉が尻すぼみになる。まだ、体の芯が熱い。火照るような心地で、気恥ずかしさが蘇る。
今度は稜花が表情を見られたくなくて、かけている衣を引っ張っては頭をすっぽり隠した。そうして、ぽかぽかとした温もりに包まれたまま、呟く。
「大人しく、寝ます」
「はい」
それでいい、と、彼は手を滑らせ、稜花の頭を優しく撫でた。
その緩やかな手の流れが、心地良い。とろとろと眠気があるのは自覚していて、この温もりの中で、安らぎに身を任せたら、すぐにでも眠れそうだ。
彼の心音が耳に優しく、稜花は身を委ねたまま瞳を閉じた。
「お休みなさい、炎」
「はい、ごゆるりと。稜花」
***
体に疲労感が残っている。
それは一晩休んで、自分の疲れを自覚したからなのか、もしくはそれ以外の理由があるのか。考えるだけで真っ赤になりそうなので、火照った頬をぱんぱんと二度たたき、気合いを入れ直す。
空は白み始めている頃合い。冷たい空に向かって、ほう、と息を吐くと、空気が白くなる季節になってきた。
かじかむ手を擦り合わせながら、体を何度か捻り柔軟をする。
体の方は重たいけれども、心の中で抱えこんでいたものがすっかりと軽くなった気がする。
これから先、昭国のこと、稜明のこと、どちらにも心を裂かれるような思いをしていくだろう。それでも、稜花はもう、ひとりではない。
小屋の方に目をやると、稜花が開いていた扉から、まだ横になったままの彼の姿が見えた。小屋の中にかなりの冷気が入ったろうに、目が覚めなかったらしい。稜花の朱色の花嫁衣装を寝具代わりに被ったまま、彼は暖をとり続けている。
薄々感づいてはいたのだが、気を緩めたときの彼は、生来朝にとても弱いらしい。稜花の側でぐっすりと眠ってくれたらしく、それがとても嬉しい。
彼の意外な一面を見つけて、稜花はくすりと笑った。普段はあれほどピリピリとしていて、寝ろと言っても断固拒否するくらい強い信念を持ち合わせていたはずなのに。
一通り伸びをしてから、稜花は再び小屋の方へと戻っていった。入り口から中へと足を踏み入れ、未だ夢の中の彼の側にしゃがみ込む。
すうすうと、規則正しい呼吸音。眼帯はとられており、深い傷跡が彼の左頬に残っている。
彼の抱えてきた過去を想う。その過去を乗り越えてきてくれたからこそ、稜花は彼と出会うことができた。
これまで、彼が生きてきてくれたことが嬉しい。胸の中から愛しさが押し寄せてきて、ちう、と彼の左頬に口づけを落とした。
すると、ピクリと彼の肩が動き、ぼんやりとした闇色の片眸が稜花をとらえる。
「うふふ。おはよ、炎」
「姫」
「じゃないでしょ?」
「……」
ぼんやりとした眼のまま、彼はしばらく口を閉じた後、稜花、と口にする。
嬉しくてもう一つ口づけを落とした後、稜花は立ち上がろうとする。が、彼に腕を引かれてしまい、ままならなかった。
「夢を、見なくなりました——」
「?」
「貴方の隣で、眠ったときは。いつも」
以前、二人で旅していたときから。そう教えられて、稜花は瞬く。
ぽつりぽつりと話してくれた、焔の記憶。
稜花の隣でいることで、彼は少なからず心安らかになるらしい。それが嬉しく、稜花は頬をゆるゆるにする。
「これでは、護衛失格だ——」
が、彼は自分の方が寝こけていたことに対し、思うところがあるらしい。眉間に皺を寄せたまま、ゆったりと体を起こす。
朝の光に彼の引き締まった体が晒される。大小様々な傷跡はあるものの、まるで刃のような研ぎ澄まされた筋肉。
昨日の夜は薄暗くてきちんと見えなかったけれども、改めて目にすると、綺麗だなと感じると同時に、やはり気恥ずかしさが押し寄せる。
何度か見たことはあったものの、稜花が彼に向ける感情は、以前のものとはちがう。
照れているのを悟られるのが恥ずかしくて、きゅっと唇を引き結んだ稜花は、彼にエイヤと口づけを落とした。
楊炎は、突然の接吻にあっけにとられている様子で、離されていく稜花の表情から目を逸らせずにいるようだった。
彼の手を解き、今度こそ稜花は立ち上がる。入り口に差し掛かったところで、うーんと背伸びして、振り返る。そうして未だ寝起きの様子の彼を見下ろし、稜花は目を細めた。
「いいんじゃない? 失格で。もう、貴方は私の従者じゃないでしょう?」
くすり、と笑って外に飛び出す。
昨日から随分、彼の頬が緩む様子を見ている気がする。それがくすぐったくて、ソワソワした気持ちを堪えきれない。
こんな浮ついた気持ちのままではいけないことも当然分かっている。だから稜花はすぐに小屋を飛び出した。ひんやりとした朝の空気を、改めて吸い込み、空を仰いだ。
新しい一日がはじまった気がする。
彼と一緒になったことで、稜花には、手放せないものが増えた。
逃げなければいけない。そして、かの地に駆けつけなければ。
己が——そして、彼も大切に思ってくれている故郷へ、昭国の侵入を許してなるものか。




