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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第四章
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秋の花嫁(4)

 馬の足が重たくなるまで走り通し、かなり無理して北東へと向かう。

 昭殷を出てからすでに三日が過ぎようとしている。まともに飲まず、食わず。ひたすら馬を走らせ、僅かな仮眠をとるだけ。もともと体力のある楊炎と稜花だからこそ出来る、無茶な行程となっていた。

 さらに北の大地はもともと森林が多く、整備された道が少ない。だからこそ、追っ手も稜花達には追いつけず、早馬の連絡が抜けるよりも早く進むことが出来た。


 楊炎が言うには、そろそろ反楊基派の土地にあたるらしい。このあたりから、追っ手も手を出しにくくなるとか。

 辺境を渡り歩くと仮定し、軍馬二頭で駆けるならば、稜明まではひと月もかからぬ程の旅路となる。もたもたと歩んだ行きとは違い、距離自体は長くなっても、それなりの速度で戻ることが出来ると予測できた。


 軍を取りまとめ、昭国軍が国境へたどり着くまでは、どれくらいの時間がかかるだろう。稜河を利用したならばかなりの早さで移動が可能だとは思うが、全て水軍というわけにもいかないはず。

 そもそも昭国軍の強みはその騎馬部隊にあると考えるならば――陸路からも進軍すると考えるのが自然だ。



 稜明に戻る頃には、暦上では冬になっているはず。

 変わりゆく季節の気配が、稜花達をすでに取り巻いている。こうやって馬で駆けていても、ひんやりとした空気に手がかじかむ。朝や夜は痛むほどで、比較的厚着をしている稜花にとっても、けして過ごしやすい状況とは言いがたい。


 稜花は身に纏った朱の衣の、首元をたぐり寄せた。

 彼女を飾った花嫁衣装は、暖をとるのに捨てがたく、羽織として残していた。身を隠すには派手すぎるが、ひと気のまったくない野山では今更だ。

 冷たい風が、肌を刺す。今日もまた日が落ちてきて、視界が暗くなる。いよいよ、進むのが難しくなる頃合いだ。


 流石に休み無く走り続けている疲れが溜まり、稜花はほう、と息を吐く。そして己の頬を何度か叩き、喝を入れる。ボヤボヤしている暇はない。少しでも早く稜明へと帰りたい、その気持ちだけでなんとか持ちこたえていた。




「姫」


 険しい表情で前を見据えていると、楊炎が隣から声をかけてきた。

 狭い道。前に注意しつつちら、と彼の方に視線を向ける。どうやら彼は稜花の顔色を窺っていたようで、闇色の片眸と目が合った。


「本日は休みましょう」

「でも……早く稜明に戻らないと」

「いえ、一度休息をとっておいた方が。今後の為にも」


 淡々と告げ、彼は馬の速度を落とした。それに合わせて、稜花も少し体を楽にする。


「本当に……いいの?」



 稜花としてもゆっくり体を癒やす時間が持てるのはありがたい。

 正直なところ、いくら気持ちが急こうとも、睡魔というのは容赦なく襲ってくる。落馬せぬようにと神経をとがらせ続けるにも限界があると考えていた頃合いだった。


「追っ手もかなり引き離したかと。それよりも、貴女のことが心配だ」

「ありがとう」

「随分と素直でいらっしゃる」


 ふ、と口の端を緩める彼の笑み。それはやはり、かの王とよく似ていて、ああ、本当に兄弟なんだと自覚する。


「楊炎が大丈夫だと判断したのなら、安心だもの」

「私を信頼して下さるか」

「当然よ」


 ゆっくりと馬を進める楊炎の隣に並ぶようにして、彼の後についていく。

 彼がこんな事を言い出したのも、このあたりが小休止をとるのに適した土地柄だからだろう。

 春から秋にかけては人の行き来もそれなりにある場所らしく、彼らの仮住まいのような小屋を幾つか見かけている。

 であるにもかかわらず、冬を目前にしたこの時季になると、逆に一切の人の気配がなかった。彼らは己の村へと戻っていき、冬支度をしなければいけない。よって、無人の小屋が幾つか森に残っている状態になっていた。





 しばらく森の中を進むと、案の定、使われていない小屋が見つかった。楊炎は迷うことなくそちらへ進み、やがて地面へと降り立った。適当に馬を繋いだところで、小屋の中を確認する。

 鍵すらも存在しないボロではあるが、冷たい夜露を凌げるだけで、そこがとても素敵な場所に思えた。

 稜花も楊炎に習うようにして、馬から下りる。その毛並みを整え、楊炎のものと並べるようにして馬を木に繋いだ。



「今夜は、ここを借りましょう」

「ええ、悪いけれど――」


 稜花も、大きく頷く。

 中を覗いてみると、丁度里へと下りたばかりの時季らしい。床のすみに寄せられた藁はそのままで、久しぶりにまともな場所で眠れそうで、頬が綻ぶ。


「近くに水場がないか、探して参りましょう。姫はこの場に留まって頂けますか?」

「ええ、この子たちを見ているわね」

「ありがとう存じます。では、行って参ります」


 二頭の馬に近寄り、稜花は彼らの背を撫でた。楊炎も一つ頷くと、迷い無く森の奥へと消えてゆく。

 取り残されて少し不安はあるけれども、大丈夫。

 きっと彼は、稜花のもとへ戻ってくれるから。





 ***





 虫の鳴き声すらも絶える季節。ぶるり、と肌を刺すような冷たさを感じる。外の木々もすっかりと葉を落としてしまい、針葉樹だけが寒々とした緑を残すばかり。

 稜花は身を横たえる。小屋に残されていた藁を敷き詰め、その上に布をかける。ふわりとした寝心地は悪くない。

 昨日の夜までの僅かな仮眠とは大違いで、久しぶりの安らぎにほっとしている。言い換えれば、蓄積していた疲労を自覚してしまい、ぐったりとしてしまった。



 外はもう、すっかりと暗くなっている。小屋の中も同じで、僅かに開けた戸口からぼんやりと月明かりが差し込んでくるだけだった。


 ――昨日までとは全然違うけど、でも。


 まだ、寒い。

 いつかのように当たり前に隣にいた人を想い、稜花は手を伸ばした。


 小屋の入り口の側。まるで侵入者から稜花を護るようにして、腰を下ろした黒い影。

 もう、眠っているのだろうか。首を垂れた彼は微動だにせず、刀を抱えて、静かに息をしている。



 ――本当に、二人で旅してた頃に戻ったみたい。


 忘れられるはずがない。あのときも彼は遠慮がちに稜花から距離をとろうとしていた。

 稜花だって彼の体力が心配だったのもある。だから、何もわからずに声をかけていた。いつしか、隣に並んで眠ることもあって――。


 懐かしさにくすりと笑みがこぼれ、稜花は彼に声をかける。


「ねえ、楊炎?」

「……っ」



 稜花の呼びかけに、彼はぴくりと顔を動かす。どうやら眠りにはついていなかったようだ。

 まるで遠慮するかのように少しだけ視線をこちらに向け、何か、と言葉を返してくる。

 その態度が何だか不満で、稜花は口を尖らせた。

 

 でも。と、同時に稜花は思う。

 昭殷に向かっていた頃とは、違う。稜花だって、彼の気持ちは幾ばくか分かるようになった。

 それでも、声をかけずにはいられない。こんなに近くにいるのに、彼に触れることが叶わないなんて。たくさん不安に感じてきたのに、こんなにも距離があるなんて。

 躊躇うように唾を飲み込んで、稜花は自分の思いを吐露した。



「側に来ては――くれないの?」

「姫はゆっくりお休み下さい。警護は、私が」

「本心を言って」


 楊炎の言葉を遮るようにして、稜花は真っ直ぐ彼を見つめた。

 体を起こし、己の身の上にかけた朱の衣を引き寄せる。カサカサ、という藁の音がしばし小屋に響くが、再び静寂に包まれる。


 彼と目が合う。

 暗がりの中で、闇色の瞳が浮かび上がるかのように、こちらを見つめている。かと思うと、彼はすっと視線を逸らした。


「お分かりでしょう、以前のようには、とても」

「……」


 彼の言葉が耳に残る。だが、稜花は少し目を伏せて、首を横に振った。



 ずっと逢いたかった彼と、ようやく手を取り合えた。

 会えなかった日々は、心にぽっかり穴が空いたようで、彼のことを思い浮かべて、苦しくてたまらなかった夜もあった。

 楊基の妻になるからと、精一杯我慢していたこともある。

 でも、そんなしがらみはもう、消えて無くなってしまった。


 今、この場所にいる自分自身は、もはや楊基の婚約者でも何でも無い。

 ようやく。そして、初めて。真っ新な状態で、彼と向き合うことが出来る。



「ずっと、寂しくて。貴方に抱きしめて欲しくて、堪らなかった」


 暗がりの中に、凜と、稜花の声が響く。

 必死で逃げ、ひと息ついてようやく、彼と向き合える気がして。そうなると、溢れ出る想いを止められなくなる。

 じいと、彼を見つめ続ける。そして長い、長い沈黙が二人を包みこんだ。



「……」


 楊炎はぎり、と唇を噛みしめ、己の額に手を当てる。

 しばらく考え事をしているかのような様子を見せた後、おもむろに彼は、立ち上がった。




 この小屋は広いものではない。数歩歩くと、彼は稜花の手前にたどり着く。

 変わらず座り込んでいる稜花の前で、彼は傅き、稜花の手を取った。


 ひんやりとした指先に、彼の大きな手が重なる。稜花の両手を、彼自身の手で包みこむようにして、優しくさすった。

 開かれた片眸が、稜花を見つめ続けている。普段の彼からは考えられないような熱っぽさで、稜花はどう反応して良いのかわからなくなった。



「私は、貴女をお慕いしているのです」

「……」

「そして、貴女は楊基の元から逃げてきた。もう、あの者の婚約者でも、何でも無い」

「……ええ」

「私の目の前にいる貴女は、ただの、稜花という女性でしかない。この意味が、お分かりか?」


 とく、とく。と。直接体の芯に響くような心臓の鼓動。

 耳には彼の低い声が心地良く届き、こくり、と唾を飲み込んだ。


 狭くて、薄暗い小屋に二人きり。秋ももう、終わろうとしている肌寒い夜。刺すような空気と彼の瞳に射貫かれて、稜花の時間は止まる。



 とく。とく。とく。


 彼に手を握られたまま、長い時が流れた。

 彼の表情は真剣そのもの。嘘偽り無く彼の本心を話してくれていることくらい、稜花にも分かっている。



「私を、ただの、稜花として見てくれるの?」

「そのつもりがなければ、貴女を攫ったりなど、致しません」


 彼の言葉が、じわりと、胸に響いた。

 嬉しくて、己の呼吸音すら邪魔に感じる。やわらかな彼の声に、ずっと耳を傾けていたかった。


「私は、耐えられなかった。貴女が、意に添わぬ者の妻になる姿など、見ることが出来なかった」

「楊炎――」

「いや、貴女が望んだ婚姻だとしても、もはや――」


 まるで後悔するかのように吐き出し、彼は表情を引き締める。

 稜花の手を包む彼自身のそれにぐっと力がこもり、しばし。

 やがて決意したかのように彼は、静かに、稜花に請い願った。



「――私の、妻になって下さい。姫」




 とく。とく。とく――。


 静寂に包まれているはずなのに、やけに煩く感じる。でもそんな中、彼の声は、するりと稜花の耳へと届いた。

 彼は包みこんだ稜花の手の甲を撫でた後、そっと唇を落とした。まるで慈しむような優しい表情に目を奪われ、唇が緩む。

 手に口づけをした後、彼は再び稜花と視線を合わせた。その片眸。穏やかな闇色の瞳は、まるで懇願するかのようで。



「楊炎……」


 迷うことなど、何もなかった。

 稜花の答えなど、とっくに決まっていたのだから。



「愛してる」

「私もです、姫」



 次の瞬間、稜花の視界が真っ暗になった。顔を彼の胸に押し付けられ、背にその力強い腕を回される。そのままぎゅうぎゅうに抱きしめられた。

 楊炎、と彼の名前を呼ぶ。すると今度は顎に手をかけられ、真っ直ぐに唇を奪われた。


「……んっ」


 塞がれた唇から、彼の温もりが伝わってくる。痛いほどに強く吸われているのに、稜花は幸福感でいっぱいになった。


「姫っ」

「ようえ……んっ」


 息継ぐ間もないほど、何度も口づけを落とされる。それは稜花の望んでいた彼の温もりそのもので、稜花自身も、彼の体を強く抱きしめ返した。


 頬を撫でるように触れられ、稜花は目を細める。ごく近い位置に彼の片眸があって、その瞳に自分が映っていることがわかる。

 熱っぽい彼の視線。彼が真っ直ぐに見つめてくれているのが嬉しい。

 額に、頬に、左頬に走る傷に。彼の全てが愛しくて、全てを愛したくて、稜花も何度も口づけを落とした。



「姫――」


 くすぐったそうに微笑んだ彼は、やがて稜花の肩に触れた。

 次の瞬間、まるで稜花を引き剥がすように体をつき離されてしまい、稜花は目を大きく見開いた。


 少し離れただけで寂しさが押し寄せてくる。

 折角彼と想いが通じたのに、と。だからもう少し触れたくて、ねだるかのように顔を近づける。

 しかし彼は困ったよう苦笑いを浮かべ、首を横に振った。

 姫、と躊躇しながらも名前を呼んだ後、何度も口を開け閉めしている。


「楊炎?」


 どうしたの、と彼の顔をのぞき込む。

 彼はというと、息を呑み込んでしばらく――実に言いにくそうに、だが正直に、彼の気持ちを吐露した。



「……こうなるから、姫に近づきたくはなかったのです」

「え?」

「貴女に触れると、止められる自信が無くなりますから」

「あ……えっと……」


 流石の稜花も、彼が言わんとしている事は分かった。

 頬に熱が集中している気がする。先ほどまで肌寒く感じていたのに、体の芯から、ぽかぽかと熱を帯びてきて、落ち着かない。

 でも、それは全て、彼に触れているからだ。


 この体の温もりも、喜びも、全て。彼が自分に与えてくれたもの。

 どうして彼のことを、拒むことが出来ようか。



 稜花は改めて、彼の唇を奪った。

 柔らかく触れるだけの接吻を落とし、彼の耳元で小さく呟く。


「私が纏っているのは朱の衣。貴方の先祖の皆様にも、挨拶はしてきたわ。暦もまだ、秋のまま――」

「……姫」

「私を、貴方の妻にしてくれるのでしょう?」



 にっこりと微笑むと、彼もまた、その頬を緩めた。

 躊躇していた手はためらいなく、再度稜花の肩を抱く。


 かさり、と藁がこすれる音が耳に響く。

 ゆっくりと彼に押し倒された稜花もまた、真っ直ぐ彼に手を伸ばし、彼の体を受け止めた。

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