秋の花嫁(3)
「第二軍は予定通り出航準備を。第一軍・第三軍主力部隊は、陸路より国境へ。第四軍は昭殷の守り、小隊を編成し、李稜花姫の行方を追え!」
バタバタと、忙しなく兵たちがあちらこちらを行き来する。祝いの色一色だった昭殷は、今や物々しい雰囲気に覆われ、民も動揺を隠せない。
民が心待ちにし、ようやくやって来た噂の戦姫。行方不明になりながらも、王の下へ自ら足を運び、彼の妃となることを受け入れた姫君。
そんな彼女がまさか、祝言当日に、逃亡するだなんて――。
「稜花姫は北の森の方へ逃げた。向かうのは間違いなく稜明! 稜河を封鎖。各街の検問も厳しくせよ!」
それそれの部隊に指示を飛ばしながら、陸由は舌打ちをした。
よりにもよって、こんな日に逃亡だなんて。ここ数日の楊基の様子を見ていると、彼の歪んだ執着心に恐れを抱いたのは間違いが無いだろうが。
――やはり、気がついていたのか。
楊基が、彼女と、稜明に行ったことについて。
監禁されながら、虎視眈々と逃げ出す機会を探していたというのか。
楊炎が何やら隠れて行っていたことは知っていた。しかし、彼もまた、祝言当日に姿を――楊基の弟として参列する気であったなど、思わなかった。
あの場には彼の過去を知る、反楊基派の者も多かった。そんな中で名乗り出られてしまっては、彼を否認することなど出来はしない。公の場を利用し、有無を言わせず己の立場を確立する。以前の楊炎からは考えられぬ思い切った行動だった。
――しかし、楊家の廟にも抜け道があっただなんて。
楊家直系の者しか知らぬ道があることは、陸由とて感づいてはいた。でないと、幼い頃焔が消えたことも、稜花達が昭殷へたどり着いた夜、いきなり燦夫人の部屋から出てきたことなど説明がつかない。
楊炎は、警備が薄くならざるを得ない廟への参拝時を狙っていたらしい。となると、そこに参列するために、無理に名乗り出たと言うことか。
はあ。と、大きなため息をつく。
姫ならば、と。そう思っていたのに。やはり、楊基の行ってきた所業の数々を連ね、彼女は我慢しきれなくなったらしい。
もっと普通に。純粋に彼女を妻に迎えていたならば――彼女は楊基にとって、良き妻になり得たはずなのに。
しかし、悔やんでいても、もう遅い。結果、彼女は逃げ、陸由たちは彼女を追わなくてはいけない。
そして同時に、稜明の警戒が強くなる前に国境を制さなければいけない。稜花の逃亡を理由に、かの地と相対することになる。
「ようやく楽しくなってきましたね」
隣にてくてくと歩いてきては、高濫が眩しそうに揃いつつある軍の方へと目をやる。すっかりと戦へ赴くつもりらしく、彼の従者が高濫の荷を運んでいった。
「高濫」
「いいじゃないですか。最初からこうすれば良かったのですよ。李公季が龐岸で足留めされているうちに、ね?」
判断が遅れたせいで、犠牲が増えます。にこっと笑ってそう告げられ、陸由は目を細めた。
季節は間もなく冬になろうとしている。稜明と昭国の国境も、当然早くから寒波が訪れる。本来ならば遠征に向かない気候だった。
こうなると分かっていたならば、高濫の言うとおり、稜花に付き従い龐岸へ向かったときに、そのまま国境を押さえてしまえば良かったのだ。明らかに稜明との間に亀裂は走るものの、今回のような無駄な戦など、起こす必要も無かった。
「陸由は楊炎さんと仲良かったですから、残念でしたね。優秀なお仲間が増えなくて。殿も駒がなくなって寂しそうですけれども――」
そこまで告げて、桃色の瞳が不愉快そうに歪んだ。
「不抜けてしまわれるよりは、よほどいい」
パン、と、彼は懐から扇を出し、手で打った。ここのところ、かなり楊基に対して思うところがあったのだろう。その苛立ちを隠すことなく、陸由にぶつけてくる。
「殿は今、何をされている」
「見てきてはどうです? 面白いものが見られますよ?」
「悪趣味だな」
「それで苛烈なあの方が戻られるなら、この経験も悪くない。傾国の姫君、と言うには少々お転婆が過ぎましたが、彼女は十分、この国を傾けてましたよ。貴方も傾けられた一人でしょう?」
「何を馬鹿なことを」
「でも、姫を気に入っていた。殿を丸くすることを考えていらっしゃったようですが、そうはさせません。丸くなったあの方など、面白くとも何ともない。少々無駄な犠牲が出ますが、いいですよね。情への対価、自覚して頂きます。それに――」
パン、パン、と何度も扇を打つ。通り過ぎていく兵たちの様子を実に楽しげに見つめながら、その奥には冷たい憎悪が浮かんでいた。
「稜明の者を信用するつもりはありません。すり潰します」
それだけ告げ、高濫は人の中へと消えてゆく。
その背中を見送って、陸由は、ああそうかと理解した。
彼もまた、干州――稜明に干渉され続けた地から逃げてきた一人だったかと。
***
「楊炎の、馬鹿っ」
「……ふっ……何をおっしゃるか」
「なんでこんなにっ」
必死の形相で、ひたすら前に進む。騎乗していても、高揚した気持ちを抑えきれない。
青毛の大きな馬。足腰のしっかりしたそれは、明らかに軍馬としか言いようがない立派なものだった。
「こんなにっ……用意周到なのよっ!」
それを二頭。稜花と楊炎のものをそれぞれ、例の出口の側に用意しておいた。つまり彼は、稜花の意思関係なく、もともと稜花を連れて逃げるつもりだったのだ。この日、この時間に。
彼はしっかりと帯刀しているばかりでなく、稜花に丁度良い長さの双剣、それに旅に必要な道具も一通り、例の通路の出口に用意していたようだった。完全に長旅を想定しているもので、万が一村や街に立ち寄れなかったとしても何とか出来るだけの準備がしてある。
「もうっ……すっごく悩んだ私が、馬鹿みたいじゃない!」
「あの者に、貴女を囚われないためには、こうするしかなかった」
「……っ」
まるで真っ直ぐな言葉を投げられて、稜花は息を呑む。
手綱を握る手につい力が入ってしまい、こんな時だというのに心臓が跳ねるのが煩わしい。
「姫が楊基に手を上げて下さって、助かりました。あの者から引き剥がすのにどうするかと、一番頭を悩ませましたから」
「……っ。ま、まあ……私も、楊炎を巻き込む気でいたんだけど……さ」
まるでじゃじゃ馬だと直接言われているような気分だ。
拗ねてちびちび呟いていると、闇色の片眸が優しく孤を描く。
彼も彼で、稜花と無事に合流出来たことは少なからず嬉しく思ってくれているようで。その感情を分かりやすく表現してくれることが嬉しく、同時になんだかこそばゆかった。
「安心なされよ。姫をあの地に留めるわけにはいかなかった。事情は追々――」
「もしかして……暗殺のこと? それとも、龐岸?」
「――気付いていらっしゃったか」
稜花から幾つかの単語を提供すると、楊炎は眉を上げた。
やはり彼も彼で、幾つか情報を仕入れた上で、楊基が怪しいと睨んでいたらしい。稜花は大きく頷き、馬を走らせながら、情報を共有していく。
「ええ、公季兄上が」
「やはりあの方も、気がついていらっしゃったのか――」
昭殷の街からは順調に離れていっている。楊炎はこの近くの土地にもかなり詳しくなったらしく、迷うことなく馬を走らせた。
遠くから、銅鑼の叩く音が聞こえる。地下通路を追うことが出来なかった楊基は、軍を取り纏め、稜花の行方を捜しているのだろう。
楊基ならば出口の位置は分かっているはず。だから、一刻も早く、この場から離れなければいけない。
「とんでもないことしちゃったわね……」
「今更何をおっしゃるか」
「うん……でも、兄上は。いざとなったら逃げて良いって、教えてくれた」
背中に忍ばれた、李公季の手紙のことを思い出す。
楊基を怪しみ、稜明と昭国の同盟を念頭に置いた上で、だが尚、いざというとき、国境まで逃げてこいと彼は書き記した。まさか本当にその通りになるだなんて、露とも思わなかったけれども。
「兄上は、国境に兵をかためるって。昭国と戦になることは、想定しているわよ、稜明は」
「流石李公季様だ」
「当たり前よ、私の兄上なんだから」
くすくす、と笑みが溢れ、表情がほぐれる。
こんな時なのに、何故だろう。悲観的な気持ちよりも、前へ進みたい気持ちの方が大きく膨らむのは。
「反楊基派の領地を抜けていきましょう。楊基の手の者も、少しは追って来にくくなるはず」
「反楊基派……? 北の方から回り込むの?」
「そこまでご存じなのか」
「婚儀の前にたたき込まれたのよ。ここの人間関係をね。――私は、貴方の考えを、信用するわ。行きましょう」
ふ、と稜花は笑って、手綱を引く。
おそらく、これを機に、楊基は軍を動かす。彼の我が侭で、また多くの者が命を落とす。
彼らが中央の街道を行く、あるいは稜河を利用したならば、稜花達よりも遥かに早く、国境へとたどり着くのだろう。でも、それでも。
この戦は、いずれ起こるものだったのだろう。彼はいつか、稜明を呑み込むつもりでいた。その時に、稜花自身が足手まといになってはいけない。
楊基の元を離れ、己の無事を確保せねばならない。でなければ、家族に甘い李家のこと。稜花の事を心配するあまり、判断が鈍ることも出てきてしまう。
稜花は一刻も早く国境へ向かい、その身の無事を証明しなければいけない。
そして、きっと稜明と昭国は正面からぶつかる。その戦で、何か、成さなければ。故郷に申し訳が立たない。
「姫」
「……何、楊炎?」
「少し顔色が悪くていらっしゃる」
「え? あ……そっか。少し、寝不足で」
しっかりと化粧で隠してあるにも関わらず、彼にはお見通しらしい。
苦笑いを浮かべて、頭を横に振る。大丈夫、と述べるが、彼は心配そうに目を細めた。
「これから、かなりの時間、この速度を維持してもらわねばなりません」
「ええ」
「ご負担を、おかけしますが……」
「いいのよ! 楊炎!」
申し訳なさそうな彼の言葉を、稜花は元気よく遮った。
全力で駆ける馬を操るのは、並大抵の集中力では持たない。しかも長時間となると、体勢を維持するだけでもかなりの体力を使うし、足腰への負担も大きい。
楊炎が選んだ道は悪路。注意して走らなければ落馬の危険性まであり、慣れた者でないと進むのが難しい。
「私を、誰だと思ってるの?」
でも。と。稜花は思う。
馬を二頭用意してくれて、嬉しかった。
わざわざ操馬術に長けていないと通れない道を選んでくれたことも。
彼が稜花の能力を配慮し、信用してくれたからこそ、選んだ手段だ。
護るだけではない、稜花自身に、立ち向かうことを要求している。ともに並ぶ者として、認めてくれている。
「稜明の、戦姫ですね」
「そう。最近すっかり体が鈍ってたから、良い運動よ!」
ふふ、と高らかに笑って見せ、稜花は前を見据えた。
「帰りましょう、稜明に!」
 




