秋の花嫁(1)
――ゴォーン、ゴォーン……
――ゴォーン、ゴォーン……
低く、重たい鐘の音。
十二ツ。この音が鈍く響くは慶事の知らせ。日は中天に差し掛かる少し手前。まもなく儀式が始まることを皆に知らせる。
ぎゅ、と、稜花は両手を握りしめる。
薄暗い、閉鎖された空間の扉が、今まさに開かれた。
久方ぶりに浴びる太陽の光。部屋の外にはぎっしりと護衛兵が待ち構えているのが目に入るが、今、彼らのことを考えている余裕はない。
「さあ、稜花様」
女官の一人に支えられ、稜花は椅子から立ち上がる。指先まですっぽりと隠した長い袖。幾重にも重ねられた深みの異なる朱が、稜花の全身を包みこむ。
昭国で織られた花嫁の衣装は、稜明のものとはかなり趣向が違う。鳳や牡丹の姿はなく、縁に連なる幾何学模様。そして小柄の花に似た模様が散りばめられ、まるで西国のもののような趣があった。
青銀色の髪もきっちりと結われ、繊細な細工の簪が数多く添えられる。
朱と紅。そして随所に碧色の珠をあてがわれる。まるで楊基の所有物のように、彼から送られた簪もまた、稜花の髪で存在感を放っていた。
――私は、昭国の花嫁。
そして、囚われ。
肩にずっしりとのし掛かる重たい花嫁衣装は、思ったよりも自由がきかない。
それでも、と、稜花は、小さく前に歩み始める。部屋の周囲に集まった護衛や女官の視線を一身に浴びながら。
部屋の外に出ると、秋晴れの空が眩しく感じた。久々の外界。こんな時にならなければ、外に出ることも許されないなんて。
目を細めて大空を懐かしみ、そして前を向く。
稜花の住まう宮の回廊には、ぎっしりと見送りの者たちが並んでいる。稜花が前へと進んでいくと、その後ろに列を成し、彼ら彼女らは付き従っていく。
そうして、稜花とその供を先頭にした列は、やがて本殿の北――慶事・祭典時にしか使用されない王のための小宮へとたどり着いた。
普段は完全に閉ざされているらしいその宮は、数多の従者たちが周囲を取り囲んでいることから、すでに“彼”がいることが予測できた。
「――来たか」
細い窓がいくつも並んでいるひと部屋だけの作りの宮。その中央には長い背もたれの椅子が一つだけ置いてあり、この城の主のみが座ることを許されている。
そこにどっしりと腰掛けたこの国の王は、稜花の姿を見るなり、目を細め、口の端を上げた。
彼の射竦めるような瞳が、稜花の体の自由を奪う。
先日の感覚が背に、腕に蘇り、躊躇するように脚を止めた。
見つめ合ってしばし。
なかなか彼に近寄れないままでいる稜花に対して、楊基はゆっくりと腕を差し出した。周囲にもまるで責められるように見つめられ、誰もが、王のもとへ、と言っているような気さえする。
おずおずと彼に近づくと、彼もやがて立ち上がり、稜花を見下ろした。
こうやって、お互い立ったまま向き合うことなどいつぶりだろう。
相変わらずしっかりした体。そしてこの長身。
鎧姿でなければ麗しの若き君主だと感じる者も多いようだが、稜花の中では偉丈夫である印象は今でも変わっていない。
どこで時間をとっているのか分からないが、彼自身も定期的に体を動かしているのだろう。でなければ、稜花に勝る技術や力の説明がつかない。
「美しいな。我が国の衣装が、よく似合っている」
「……」
「先日のことは――許せ、とは言わん。其方が私のものになる。その事実を変えるつもりはない」
「……」
王の言葉に、上手く返答が出来ない。視線を落とすと、そうはさせまいと、首に手を回される。
「少しは愛想良くしろ。折角の美貌が、勿体ないぞ」
「……」
「頑なだな」
一言も言葉を発しない稜花に対して、楊基は苦々しげに表情を歪めた。
「私は、威勢の良い其方が好きなのだがな」
「――でも、こうさせているのは貴方じゃない」
ようやく言葉が出てきて、楊基は目を丸くした。
どんな言葉であれ、稜花の声が届いたのが嬉しかったらしい。くしゃりと目を細め、ああ、そうだな、と哀しそうに笑った。
本格的な儀式が始まる前に、先ずはこの小宮で親族との対面がある。楊基は中央の椅子に座り、その隣に添うようにして並べられた椅子に、稜花も腰を下ろした。
楊家の者は数は少ないとは言っても、やはりもともと大領地を統べる一族。血の濃い者から順番に頭を下げては、小宮を出て行く。
楊基の近くには、陸由をはじめとした武官が並んでおり、厳戒態勢を敷かれた中、滞りなく挨拶は進んでいく。
そうしてしばらく挨拶を受けていると、外からざわざわとした声が聞こえてきた。
あらかじめ決められた手順をこなすだけの儀式であるはずなのに、一体何が起きたのだろうか。不思議に思い楊基の方に視線を送ると、彼もまた、難しい顔をして外の様子を探っているようだった。
様子を見るため少し前に出た陸由が、明らかに表情を変える。
一体何が起こったのだろうと心がざらつく。
順番に挨拶に入殿してきた楊家の者たち。その者たちが後ろに引くのがわかる。それなりに身分の高い者たちがこぞって何者かに配慮する。一体何者が、と思ったとき、彼らの間から姿を現した者を見て、驚愕した。
「え?」
驚きで、小さく、声が漏れる。
――楊……炎?
見間違えるはずがない。
左眼を眼帯覆い、隠しきれない無数の傷をもった男。その闇色の片眸がこちらを見据えている。
その深い黒に吸い込まれるように、稜花もまた、彼に視線を奪われた。
――どうして……?
ここは楊家の者が挨拶に訪れる場。そんな中、周囲は困惑の色を示しながらも、彼のために道を開いた。
普段護衛をするときの装束ではない。今の彼が纏っているのは明らかに礼服の類い。細やかな金の装飾が美しく、髪もきっちりと結い上げられている。
言葉を失った稜花を彼は一瞥し、真っ直ぐ、楊基の正面へと進んだ。
誰もが固唾を呑んで彼の行動を見守る中、彼は、やがてその膝を折る。
「謹んでお祝い申し上げます、兄上。それから、李稜花様」
胸の前に手を掲げ、首を垂れたまま宣ったその一言。
耳には届くが、その意味が遅れて脳に響く。
「――え?」
細く、声が漏れた。
なんと言った。
今、彼は、一体何と言ったのだろうか。
――兄上、ですって……?
呼吸することも忘れ、楊炎を見下ろす。迷いのない彼の様子は、冗談であるとも到底思えず。だが、信じられない様な言葉に、どう解釈して良いのか全くもって分からない。
「此度の良縁、昭国および稜明との同盟。心よりお慶び申し上げます。昭国が主――楊基様」
稜花は息を呑んだ。同じようにして、楊基も明らかに動揺の色を濃くしているようだった。陸由も目を細め、護衛たちもどう対応して良いのか分からない様子。
突然、この国の王を“兄”と呼んだ男は、皆がよく知る稜明からの使者の一人だった。
誰もがお互いを牽制し合い、どう切り出していいものかと様子見をしている様だった。稜花とて、この戸惑いをどう行動に移せば良いのかわからない。
「其方、何を考えている……?」
「何も。ただ、我が敬愛する兄上と、私がお仕えしていた主のご縁をお祝い申し上げているだけのこと」
「このような場で――」
「このような場、なればこそ」
周囲の視線をもろともせず、楊炎はその頭を益々深く下げた。咎めるような視線と、驚きの視線、数多の感情が入り交じりって居る中には、納得の色を示している者もいる。
一体、どう言うことなのだろうか。何が起こっているのか益々分からなくなって、稜花は何度も瞬いた。
「それとも、私を咎めなさるか、兄上」
「……」
楊基の表情が明らかに歪んだ。
彼の迷いが分かる。正面切って否定しないのは、何故だ。
あの楊炎が、楊基を兄と呼んでいる。参列する楊家の者の中に交じっていること自体、明らかにおかしい。――であるはずなのに、何故、楊基は彼を咎めない。
「――焔よ」
「え……ん……?」
楊基が、苦々しく、ようやく口にした名前。それが脳内で何度も反芻し、稜花は呟く。
焔。聞き慣れた響きのはずなのに、どうしてだろうか。その名に含まれる意が、本来の意味とは異なって聞こえるのは。
「……いや、良く戻った。焔。其方を歓迎しよう」
「ありがとう存じます、兄上。この場をお騒がせしたこと、お許し頂きたく」
「いや、兄を祝うためだろう。どうして謝る必要がある。後に、また其方の話を聞こう」
「感謝致します」
深く頭を下げた後、楊炎は稜花に向き直る。
改めて一礼し、まるで初めて挨拶するかのように、彼は高らかに名乗り出た。
「李稜花様。私は、昭王楊基の弟にあたります楊焔と申します。長らく、己の出自について名乗らなかったことをお許し頂きたく。本日は、大変おめでたく存じます」
「楊焔……?」
自分に言い聞かせるようにして、稜花は呟いた。
ざわざわと、胸の中の記憶が蘇る。
その髪、鋼色。楊基と並ぶと同じほどの長身。
楊基のことを、稜明に来る前から知っていた。彼の存在を警戒し、稜花に注意をし続けた。それは何故か。
この城の地下に存在する通路。それを知り、彼がたどり着いた先は――、
――第二夫人の……部屋?
数々の疑問が、合致していく。
楊基が、楊炎にこだわり続けた理由も。彼がどうして昭殷に一人残ったのかも。
――地下の通路を知るものにしか出来ないことをするためだと、楊基は言っていた。
それはすなわち、彼の弟にしか出来ないこと、という意味なのでは無いだろうか。
驚きに言葉を失い、稜花は息を呑んだ。
目の前に膝を折る楊炎は、再び顔を上げ、稜花と目を合わせる。
その色は落ち着き払っており、きゅっと引き結ばれた唇が、彼の決意を示していた。
「はい。焔と。諸事情故本国を離れておりましたが、これからは兄上、李稜花様お二人に、誠心誠意お支えすることを約束致しましょう」
稜花の気持ちをよそに、闇色の瞳は落ち着いていた。
彼の口から、楊基との婚姻を祝う言葉が紡がれている。それに心が痛んでもおかしくないのに――高揚して、心臓がどきどきと音をたてている。
きゅ、と、胸の前で手を握りしめる。彼の闇色の瞳を真っ直ぐ見下ろすと、熱の籠もらない彼の黒が、優しく揺れた気がした。
それだけで、十分だった。
どんな事情があるにせよ、彼は立場上の無理を重ね、稜花の前に姿を現してくれた。それはきっと、稜花のためであることが伝わって。
この日、この参賀に参列できるように、してくれた。
ちり、と心の中で、もしかしてという気持ちが溢れてくる。
ふと、稜花は目を細めた。
顔の筋肉が緊張で引きつっていたらしく、少し、痛いくらいだ。
「そうでしたか……焔。貴方の立場は変われども、貴方との関係は、変わらないのですね」
改まった言葉遣いをしながら、稜花は微笑んだ。
“関係が、変わらない”そう言葉にする。まるで、改めて、彼との間柄を確認するかのように。
ふと表情を緩め、頷く彼の顔を見て、十分だ、と稜花は思った。
冷たかった指先に、熱が、ともりはじめる。
凍える気持ちで震えていた心が、いつの間にか、溶けていて。
息を呑む。
たった一度きり。その機会を、無駄にしてなるものか、と。




