囚われの姫君
カツカツ、と、石造りの回廊は相も変わらず音が良く響いた。
真っ暗な空間に蝋燭ひとつ。以前はこの暗がりに閉じ込められ、不安で微動だにできずにいたこともあったが――今は違う。
無数に枝分かれした通路を一つ一つ確認する。あの部屋から、城の外までの出口。それが楊炎にとっては全てだった。それ以外の道など、数多彷徨ったはずなのに、記憶に留めてはいられなかったらしい。
もともと、領主とその後継者にしか知らされてこなかったこの通路だ。楊炎が知っていること自体が異例の事ではあるのだが、それは咎められようはずがない。
彼は、かつて焔を放り込んだのだ。この深くて、暗い、地下の通路へ。
それでも望むなら、外へ出てみるが良いと。まるで焔がどのように挑戦するのか楽しむように。彼はこの道を未来への可能性として与えた。
――後悔すると良い。
傲っているとも言える、彼の性質に。皆を侮り、まるで高みから見下ろしてくる彼の視線。人がどう足掻くのか楽しくて仕方が無いと言った彼。
しかし、楊炎とて、幼かったあの頃の少年ではない。もう、彼の手の内で転がされることなど御免だ。
楊炎は問うた。一体どう言うことだと。
楊基は稜花の自由を奪った。常にかなりの数の護衛が、彼女の周囲を囲っている。
龐岸から戻ったときから、様子がおかしいとは思っていたのだ。
楊炎を遠ざけるばかりか、彼女を宮から出そうともしなかった。ゆるゆると警戒態勢を敷き、彼女の動きを常に把握していた。
表向きには暗殺者対策であると言うものの、楊炎は、それは違うと確信できていた。何故なら、稜花に対する楊基の態度が、以前と全く異なるものだったからだ。
龐岸から帰ってきたとき、驚いた。船から下りてきた稜花と目があった。彼女が少し表情を緩めただけで――その後ろで彼女を支えていた楊基の表情が、がらりと変わった。まるで、動揺するかのような、揺らぎ。
――最悪だ。
変化しつつある彼の姿には、薄々気がついていた。汰尾にて、稜花が王威を討ったと知ったあたりからだろうか――彼は間違いなく、稜花の存在を追うようになった。
戦場で、男に混じって指揮をとる勇敢な彼女。自分の力を足りないと自覚しながらも、目の前の壁を乗り越え続ける彼女。
その意志の強さ、素直さに、惹かれない筈がない。
闇の中に身を置いてきた楊炎自身。そして、誰をも心の底から信じることなど出来なかった楊基にとっても。――彼女は、あまりに眩しい。
だからこそ、楊基が執着するのは怖い。
かつて、焔を捕えていたのとは別の形で、彼は、彼女を囲おうとしている。
だからこそ、今、楊基が楊炎に向けている感情は。
――嫉妬、だと? あの男が。
笑ってなど、いられるか。
楊炎には見えてきている。彼が行ったことの数々が。
だからこそ、稜明と昭国の同盟に亀裂が走ることくらい予測できる。同時に、稜花が嫁ぐこと自体が、歓迎できない未来へと変わり始めている。
万が一、昭国と稜明の間に対立が起きようものなら――稜花に残されるのは、人質としての未来だけだ。
そして今、彼女は、別の想いであるとは言え、歪んだ形で囚われようとしている。
稜明にとって、昭国と同盟する利益は数あれど、昭国にとってもそれは切実なことくらい楊炎にも分かっている。
大陸の内地に存在する昭国。稜明とは別の国になってしまった今、海への航路を確保することは絶対だ。
楊基が国を大きくしようというならば、必要なものが稜明には溢れている。
だから、もし稜明との同盟が瓦解しようと、彼は必ず稜明を取りに来るだろう。領地をまるごと、飲み込むつもりで。
そしてその手段は、きっと武力――。
楊炎はそうして、足をはやめた。ボヤボヤしている暇などない。自分が自由に出来る時間は、楊炎にも多くはない。
だが、こうやって歩き回ることによって、地下の通路のことはだいたい把握が出来た。想定しうる経路も決まれば、具体的な準備も進められよう。
稜花は何と言うだろうか。
決意を固めて、この地にやって来た彼女を、問答無用で連れ帰ろうなど。
ぎり、と、握る手に力がこもる。
先日の出来事が、頭にこびりついている。
報告を受けて、目の前が真っ赤になった。稜花の部屋に楊基が訪れた後、悲鳴のような声が聞こえてくると。
己の立場と状況を忘れて飛び出してしまった。幸い、ともにいた陸由がとりなしてくれたから何とかなったものの――。
部屋に飛び込み、言葉を失った。
掻き乱された青銀色の髪。はだけた夜着からのぞく肌。涙に濡れた彼女の双眸。
楊炎の顔を見つけるなり、縋るようにその手をのばしてきて――それすら、楊基に取り押さえられ。
何が起こったのか、十分過ぎるほど伝わった。
彼女の上にのしかかった男の顔を見るだけで、かっと血の気がのぼるのがわかった。咄嗟に抜刀しようとしてしまったが、陸由に制されて、正直助かった。
流石に王に向かって抜刀してしまっては、最早言い逃れようのない罪人となる。それでは、本末転倒だ。
拳に力が入る。いつの間にか、随分と握り込んでいたらしく、汗がびっしり張り付いていた。
感情とは、こうも制御出来ぬものかと、理解する。この歳になって、ようやく、だ。
稜花を連れ去ろうという考えが固まってきた今、それが稜明の為なのか、彼女のためなのか、それとも、自分の為なのかもはや分からなくなっている。
だが、昭国のために己に与えられた裏での立場が、こんな形で利用できるとは思わなかった。
反楊基派の存在を確定させる。そのために築きはじめてきた彼らとの繋がり。
――反楊基派は、ここにきて慎重にはなったが――。
元々さほど当てにするつもりもなかったが、楊基と組みする気がないだけで十分だ。稜花を逃すつもりでいる事も伝えるつもりは無いが――あの様子だと、邪魔はしてこないだろう。
反楊基派の領地を渡り歩いたら、かなり稜明に近いところまで辿り着ける。
稜明はすでに昭国に対する不信感を抱いている。李公季の動きを聞けば、絶対だ。
事が動くのは、覚悟していた以上に、早そうだ。
だが、見えてきたと楊炎は思う。
稜花を、楊基の腕の中から取り戻す方法が――。
***
「――また、お眠りにならなかったのですか?」
「……」
「花嫁のする顔ではありませんよ、稜花様」
空が暗くなっても、白んでも。稜花は彼女の寝台で座り込んだままだった。
目の下にはくっきりと隈ができており、痛々しいほどに顔色が悪い。花嫁が持つべき幸福感など、今の稜花からは微塵も感じられなかった。
あの日から、楊基が再び稜花の前に顔を出すことはなかった。
しかし、噂だけは女官の口から幾つか耳にした。
普段、どんなときでも余裕のある態度で皆を率いるあの男が、ここ数日は塞いでいると。いずれは夫婦となる身。どうか彼を受け入れてくれ、と。何度も何度も、時には宥め、時には咎めるように女官たちに言われたが、稜花が首を縦に振ることはなかった。
妻になる身なのだから、あの時の彼を受け入れろ。それはきっと、正しい考え方なのだろう。
婚儀までは閨を共にしない。それはあくまでも稜明に対する礼儀のようなものであるだけで、実質稜花はすでに楊基のものだ。
いつ伽の命を下したとしても、彼は咎められるいわれなどない。
稜花とて、かつては覚悟を決めていた。はじめて昭殷に来た夜。その日に彼の妻となれと言われ、それでも構わないとすら思った。
なのに、今は――怖い。
彼は、稜花を檻の中に閉じ込めようとしている。稜花が感じ始めていた以上に、強い執着心でもって、彼は稜花を見ていた。それだけならば、稜花だって、受け入れることを考えたかもしれない。
稜明の為に、この地に来た。
彼の寵を受けることで、かの地の役に立てるなら……。そう思っていたのに。
使者は、来ない。
連絡も、とれない。
そればかりか、彼は李公季を亡き者にしようとした。龐岸も、国境も。稜花の考えがどこまで合っているのかはわからない。だが、確実に彼は、稜明に手を出そうとしている。まるで、稜花を閉じ込めようとするのと同じように。
――彼が稜明に手を出そうとするなら、こんな場所にはいられない。
それでも、昭殷で何か出来るかと考えた。
軍に介入できないか。どうにか彼を説得できないか。
自分が追い込まれてようやく、全てが手遅れであることに気がついた。
しかし、自由を奪われ、ただただ彼の思い通りにされるだけならば、自分はただの人質にしかならない。稜明の為どころか、足を引っ張ってしまうことにしかならないではないか。
「少しでも休まれませんと。明日をその顔で迎えるつもりですか?」
宥めるように、女官の一人が稜花のすぐ側に膝をついている。
そして稜花の両手を握りしめてゆっくりとさする。物思いにふける稜花を、純粋に心配してくれているらしい。見上げるようにして顔をのぞき込んできた彼女の表情は、憂いに満ちていた。
「もう明日が祝言ですからね。不安になるのは、当然でしょうが――」
「殿も、稜花様を愛しいと思ってたからこそですよ。いずれ明日には」
「ちょっと貴女。こんな時にまでそのようなことを言わなくても良いでしょう?」
慰めるのか、意見するのか。目の前で女官同士が言い争いを始めてしまう。しかし、彼女たちの言など、まったく頭に入ってこない。
今、稜花の頭にあるのは、この厳重になった警備の中、どうやって逃げ出すのか。そればかりだ。――それも、楊炎とともに。
逃げるときには、彼も一緒に。それ以外の選択肢は、ありえない。
ここ最近、眠れなかったのには理由がある。
楊基が怖かったのはもちろんだ。これから先が不安だったのもある。逃げ出す手段を考え、頭を悩ませた夜もあった。
だが、それよりも――同時に、期待してしまった。
あの夜。
楊炎が駆けつけてくれたから。その立場上難しかっただろうに、稜花の異変に気がついてくれたから。
だからこそ、祝言が差し迫った今、もしかしたら助けに来てくれるかもしれない。毎日毎晩その期待が頭をちらついて、眠ることが出来なかった。
彼とともに逃げ出す手段を模索すると同時に、彼自身に期待してしまう自分がいることに、驚いた。
しかしもう、そんな期待も終わりだ。
明日にはもう、稜花は楊基の妻。彼の腕の中で眠る日々が、続くのだろう。
ちくりと、心が痛む。
このままの状況を、甘んじて受け入れてどうする、と自分を叱咤する。
しかし、どうすれば良いのか分からない。この扉も外側もしっかりと塞がれてしまい、稜花一人が中からどうにかしようとしても、開かなくなってしまっている。
女官の話によると、部屋の前だけでなく、この宮全体の兵の数まで増えたのだという。
彼女たちに楊基の気が済むまでは大人しくしていてくれと、遠回しに懇願されてしまい、稜花も困惑するしかなかった。
「じっと大人しくしていて下さいませ。楊基様の怒りが溶けたら、きっと外に出して下さいますよ」
「お約束なさったのでしょう? 軍に、従事なさると」
その場しのぎで元気づけるように、口々に励ましの言葉を受けた。
しかし、よほど楊基の様子が頑ななのだろう。それはあくまで希望的観測らしく、彼女たちの微笑みはどことなく無理があった。
「稜花様。祝言は明日より。三日三晩は休むことなど出来ないと心置かれませ」
「もう、支度は終えておりますから。明日に備えて、今日はお体を休めて下さいませ」
「花嫁がそんな顔をしていては、皆が心配しますよ?」
そう、口々に告げられ、ああ、そうかと稜花も理解する。
――明日になったら、外に……。
出ることが、叶うかもしれない。
薄々感じていたことではあった。
婚儀の日。祝言を執り行う際、稜花は外に出ることが許される。彼女の周辺には数多くの護衛が配置されるだろうが――唯一、一般の兵が入れない儀式がある。
楊家の廟へと赴く機会があるのだ。彼の先祖に、新しい家族を受け入れる許可を請う。その場には、楊家の者しか参列してはならないという。
一番警備が手薄になるのは間違いない。だが……、
――楊炎。
どうしても、彼のことが気になる。
楊家の者しか参加できないと言うことは、彼もまた、その場にいないこととなる。
彼と合流出来なかったとして、稜花は、たった一人でこの地から逃げることなど出来るだろうか。
自分の身だけ、無事だったらそれで良いのだろうか。
――嫌。そんなの、出来ない……。
――出来ないよ、楊炎……。
膝を抱えて丸くなる。
心細くて、どうしたら良いのか分からない。
しかし、時間は無慈悲に過ぎてゆく。
昼の刻から、浅い眠りと覚醒を繰り返し。
長い夜が過ぎ。
やがて、新しい朝が訪れる。
 




