真夜中の訪問者(1)
すっかり目が冴えてしまっている。
空気はひんやりと肌に染みる程になってきて、寝具にくるまりながら暖をとる。風が部屋の扉を揺すり、がたがたと響くのが心許ない。
しかし、外に立つ護衛は微動だにせず、ひと気をまったく感じない真っ暗な世界。ぐるぐると頭の中に渦巻く考えが、稜花を夢に落とすまいとする。
疑惑の種は確実に育ち、どうすれば良いのか、とただただ悩む。
楊基は――稜花をこのように足留めしている間に、何をしようとしているのか。
稜花に顔を見せることが出来ぬほど多忙を極めているのは理解できる。この国自体も今、変動のさなか。時間を無駄に出来ないことは重々承知しているが。
――せめて、ここから抜け出せれば。
――ううん、でも、だめ。
確実に、祝言への日取りは近づいており、ますます気持ちが焦るようになってきた。
正直、外の護衛兵四人くらいなら稜花一人でなんとでもなるのだ。単純にこの部屋から出るだけなら、本当に容易い。
それでもそれをしないのは、その後の行動が上手くいくとは思えないから。
楊基のことだ。稜花が逃げだそうとでもしたならば、今よりももっと監視の目を厳しくする気がする。今のように、“部屋から出るだけなら何とかなる”状況ですらなくなりそうで。
――単純に力で逃げ出すなら、機会は一度……でも、どうする?
正直、稜花の心の内はまだ定まっていない。
逃げれば、全てが終わりだ。この地へ来た覚悟も、想いも。すべて無駄なものになる。
李公季の手紙に従い、稜明へ逃げ戻るのか。
かといって、このまま、楊基の妃となるのか。
――でも、楊基はこれから、稜明への対応をどうするつもりなのかしら。
楊基は、李公季が疑っていることくらいは気がついている気がする。
龐岸でのやりとりで、二人の間には不穏な空気があった。稜花がどちらへ行くのかというやりとりが中心だったが、彼らの本心が見え隠れしていた。
稜明は国境に軍をかためると言っていた。しかし、稜花が昭殷にいる限りは、こちらに攻め入るようなことはしないだろう。
――楊炎と会って話がしたかったけれど、難しいか……。
せめて、逃げ回っていないで、一度楊基とはきちんと話をした方が良いかもしれない。
例の事件のことはさておき、今後のことについて彼の考えを聞いておきたい。
どこまで本心を話してくれるのかは、見当もつかないけれど。それでも、答えを先延ばしにしていては埒があかない。
ぎゅう、と唇を噛みしめた矢先、風の音がいっそう強くなった気がして、扉の方向を見る。
丁度、護衛兵たちの影が、大きく動いたのが分かった。
いくつか戸惑うような声の中に「殿」という単語が聞こえて、体が強ばる。すぐさま稜花は体を起こし、視線を声の方向へ向ける。すると、外から聞こえる声の数がどんどん増えてきた。
どうやら近くの部屋に控えていたらしい女官までやって来たようで、こんな時間に来訪することに対し、戸惑う様子が聞き取れる。
「かまわん、通せ」
はっきりとした声が聞こえて、やはり、と体が強ばる。
寝具を掴んだまま、寝台の端に寄る。どきどきと心臓の音が早くなり、呼吸が浅くなる。
いくら何でも、早すぎだ。
話をしたいと思った矢先ではあるが、まだ覚悟がかたまっていない。こちらの心の準備とは無関係に押しかけてきた男に対し、心の中で全力で咎めた。
外での押し問答はまだ続いていたようだが、やがて女官が観念するかのように部屋の扉を開けるのがわかった。ぎしぎしと、軋む音を立て、女官が部屋に一歩踏み入れる。
「稜花様、あの……こんなお時間なのですが、殿が――」
「入るぞ、稜花」
女官の先触れなど知ったことかと、月明かりが一人の男の影を落とした。その影は真っ直ぐに部屋の奥へとのび、稜花はそれを視線で追う。
丁度顔が影になってしまい、訪問者の表情はわからない。しかし、その燃えるような強い朱色の瞳が光ったかのような気がして、稜花は射竦められる。
「不思議なことだな。少し会わなかっただけで、随分と久しい感覚がする――息災だったか、稜花」
***
「……いくらなんでも、あんまりだと思うの」
慌てて夜着の上に羽織るものを準備してもらった稜花は、卓を挟んで突然の訪問者と向き合う事になってしまった。
彼――楊基が手土産として持参した酒を酌しながら、稜花はため息をひとつ落とす。
「……で? 何しに来たの? くだを巻きに来た、とか言わないわよね?」
突然、呑むぞ、つきあえ、などと言われてしまって、言葉を失った自分は悪くないと思う。立場は微妙なところではあるが、一応輿入れ前の娘の部屋だ。そこに深夜に押しかけてくるなど、どうかしている。
未来の夫とは言え、やっていいことと悪いことがあるはず。酒を呑むだけなど、尚更。非常識にも程がある。
「そう邪険にするな。日中は時間をとれんのだ、許せ」
「ずいぶんと疲れているように見えるわ。というより、もう出来上がってるでしょう? 今から呑むくらいなら、眠った方がいいんじゃないの?」
「何だ、添い寝でもしてくれるのか」
「馬鹿っ!」
目をつり上げる稜花に対して、上機嫌に笑い声を上げながら、彼は酒を口にする。こくりと喉仏が上下しするのを、つい目で追ってしまった。
彼の体からは酒気がぷんとした。かなりの酒を呑んでいたようだが、仕事の一つでしかないのだろう。
その証拠に、彼は随分と気を張っていたようだった。稜花と二人になってようやく、彼の表情が緩んだことくらい、稜花にもわかった。わかって、しまった。
「少し、其方の顔が見たくなっただけだ――」
いつからだろうか。この人が、こんなにも心中を露わにするようになったのは。
以前は紛らわしい言葉を交じらせて、本心を隠しているようにしか見えなかったのに。改めて向き合うからこそ、分かる。彼は少なからず、稜花を受け入れてくれている。――稜花が大切に思う、稜明や楊炎とは切り離して。
「随分と好き勝手やっているようではないか」
「好き勝手?」
「陸由を毎朝借り出しているだろう。あの者を顎で使う者など、私以外には知らんぞ」
「それは貴方のせいでしょう? 文句があるなら、私よりも強い他の護衛を寄越す事ね」
「無茶を言う……」
「いないなら別に良いわよ。私が、この手で育てるから。あるいは――」
護衛の話になるなら手っ取り早い。
いつか、一言言ってやろうとは思っていたのだ。
「楊炎を寄越してくれたら、すべて済む話じゃないの。わざわざ要職であらせられる、お忙しい陸由様、にお願いしようだなんて無茶しないわよ」
「稜花――お前は。陸由にも言われたろう。其方とあの者が噂になっていると」
「だから、誰もいないところで直接貴方に意見しているんじゃない。他の者に言っても、咎められるだけだもの」
「だからと言って、本当に聞くか?」
「貴方があの人のことは一番把握しているでしょ。稜明からの唯一の従者なのよ。不当な扱いをされてないか、心配するのは私の義務じゃない」
呆気にとられたらしく、楊基が間抜けにも口を開けている。
しかし、これは正当な主張だ。稜花には、彼しかいないのだ。本当に信頼できて、何事も相談できる者は。
特に、花嫁が狙われているという特殊な状況下に見舞われた身としては、当然主張していいはず。
表情を曇らせて、稜花は楊基から目を逸らした。
本当は、楊炎に会いたくてたまらない。一体いつからまともに話が出来ていないのだろう。
会えないならば会えないほど、この本当の気持ちをどこに吐き出して良いのか分からなくて、苦しい。
「そんな顔をするな、稜花」
「させてるのは貴方じゃない」
「あのな――」
楊基は眉間に皺を寄せたまま、大きなため息をついた。
稜花の言っていることはもっともな部分もあるが、不本意かつ不満なのだろう。
やけになるかのように、楊基は酒を煽った。
稜花の手にも杯が握られており、それを持つ両の手に力が入る。
ゆらゆらと波打つ水面に己の顔が映り、不安に瞳が揺れていることがよく分かる。口に含んで全てを勢いに任せてしまいたい。だが、少しでも頭をすっきりとさせておきたい今、彼に付き合う事は出来ない。
とん、と卓に杯を置き、真っ直ぐ楊基を見つめて口を開いた。
「でも、一度で良いの。兄上のことも、この口で伝えたい。この国にやって来てから、突然引き裂かれる形になってしまって……私が不安に思うことくらい、貴方にもわかるでしょう?」
「もう少し待て」
「どうして」
「奴には別の責務がある」
「ーーあなたの部下でも何でもないじゃない!」
楊基が溢した一言は、驚くべきものだった。悪びれもない様子に、目を剥く。
楊炎は、稜花のためにこの地へ来た。けして楊基が自由に命令していいものではない。そこの区分ははっきりさせなければいけない。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
楊炎も楊炎だ。なぜ、大人しく彼に付き従っているのか。
もちろん彼が稜花に対して不利益になることをするはずが無い。この状況で、彼も身動きできないことも承知している。別に彼に落ち度がないのは知っているが、自分ばかりが不安になっているようで、当たらずにはいられなかった。
現に今、楊基は、来てくれるのに。無理して、顔を出してきたのに。
もちろん、楊炎はまったく立場は違うし、きっと、稜花に連絡を取るには難しい状況なのかもしれないが。それでも思ってしまう。
――楊炎の馬鹿。
どうにかして、顔を出すなり連絡を寄越すなりしてくれても良いのではないだろうか、と。
少なくとも、そう言った隠密行為は得意分野だろうに。稜花ばかりが一人でやきもきして、一人で不安を抱えて、馬鹿みたいではないか。
「稜花、そう怒るな」
「だって」
「なんだ、私が楊炎を使うのがそんなに気にくわないか」
「当たり前でしょう」
半分くらいは楊炎本人に対する怒りではあったが、真っ向から楊基に言い返した。
「……」
いつも余裕のある楊基のこと。てっきり笑って流されるかと思ったが、そうではなかった。
彼は両の目を細めて、稜花を睨みつける。
瞬間、ぴくりと稜花は震えた。しかし彼はそんな事は御構い無しに、稜花に手を伸ばしてきたと思えば、その頭を押さえつける。
先ほどまでの和やかな雰囲気とは打って変わって、彼は射竦めるような鋭さを放っていた。
視線を反らせぬよう、彼はその手に力を込める。首の後ろあたりを掴まれて、ひりひりと痛み出した。
「楊基っ」
無理やり椅子から立ち上らされ、押さえ込まれる。そのまま寝台に縺れ込むように押し倒されて、恐怖する。
彼から離れようと力を入れるが、今度は強く腕を掴まれ、ままならない。
上から彼に覆いかぶさるように組み敷かれ、そのまま唇を強く吸われた。
プン、と強い酒気を感じる。その匂いだけで酔ってしまいそうなほどに、彼の雰囲気にのまれ、稜花は息を呑んだ。
「違うだろう。私が奴を使っているのが気にくわないだけではない。其方が奴に会いたいだけなのではないか?」
「……っ! だったら何だって言うのよ。彼は私の大切な従者よ!」
「では、奴が其方の従者でなくなればどうする? もう、奴を欲しないのか?」
「そんなこと、ある訳ーー」
「ーーあるから、言っている」
え。と、声が漏れる。
言葉を失う稜花に、追い打ちをかけるように、楊基は続けた。
「奴は別の役職につける」
彼の、芯のある声が稜花の耳に届く。その響きは稜花の中で反芻し、驚きで言葉を失った。
「私が、其方とあの男が会うことを望まないと言うと、満足できるのか?」
何を言っているのだろうか。この男は。
頭が真っ白になって、稜花は目を見開いた。
しかし、楊基は至極真面目な顔で稜花を見つめ続けている。まさか、そんな。と思うが、冗談でも何でもないらしい。
「楊基……自分が何を言っているのか分かってるの?」
横暴ともとれる命令に、どう言葉を返せば良いのかわからない。
じんじんと、彼に押さえつけられた腕が痛む。かたかたと、稜花の体の芯から震えが押し寄せてきて、呼吸が浅くなる。
彼は、一方的に稜花のものを取り上げていく。
荷も、稜明からの従者たちも。身の回りのものは全て昭国のもので固められ、楊炎にすら会えない。きっと彼の思い描く未来ではーー稜花の故郷さえもーー。
彼の腕の中に抱え込んだまま、稜花には、本当に身ひとつしか残さぬ気らしい。
かくかくと、膝が震えだす。
まただ。気がつけば彼の糸に絡め取られて、身動きがとれない。
「彼は――兄上が、私を心配してつけてくれたのよ。そんな不当な行為、皆が知ったら……」
「どうやって知らせる?」
「え?」
抱え込まれた手に力を込められる。首元へ唇を埋められ、必死で抗うがままならない。
「そんな――何それ……そんなの。監禁されているのと同じじゃないの!」
「何を言っている。時が経てば、また外にも出してやれる。其方は自由に過ごせば良い」
「そう言う意味じゃない! 私を稜明と切り離すつもり!?」
「……」
「私だけじゃないわ。楊炎だってそうよ。すべて、すべて貴方の言うとおりに動くしかない。貴方は一見自由を選ばせてくれそうだけれど、違う。貴方の望む未来に、誘導しているだけでしょう?」
楊基の腕が強く震える。朱の瞳が強く燃え、憎悪に似た感情をぶつけられた。
それでも、伝えなくてはいけないことがある。震えながらも、どうにか言葉にしなければいけない。
「私から全てを取り上げて、貴方は何をしようとしているの!? 稜明との同盟はーー」
「変わらぬ。そなた達の領地が国家となることを望むならなお、我々はーー」
「独立したのを待って、取り込もうとしているのね」
「何を言っている」
「だったらなぜ!」
そんなことはない。そう言おうとした彼の言葉を、稜花は大声で塞ぐ。
「だったらなぜ、稜明からの使者が、この地に来ないのよ!」
「……っ」
楊基が、明らかに言葉に詰まったことがわかった。彼の胸に手を当て、力を入れる。どうにか体を引き剥がし、稜花は後ろに下がった。
壁際に身を寄せ、己の体をかき抱く。自分の意思ではどうしようも出来ないほど細く震え、足に力が入らない。
「いくら時間が無いとは言っても……稜明は、隣でしょう? 私が行方知れずだったことも、伝わっているはずなのに……なのにどうしてっ。こんなにも状況がめまぐるしく変わっている中で、どうして、連絡一つないのよっ……」
ゆるゆると、稜花を絡め取るかのような檻。祝言への準備が多忙極まる中で、うやむやにされようとした事実。
「貴方は、私を娶って、一体どうしようというの?」
稜明との同盟は、思いの外早く瓦解するだろう。そうなれば、今の稜花に残された使い道など、一つではないか。
「――私を人質として、稜明を……」
「違う!」
びくりと。
彼の大声に体が跳ねた。稜花の言葉を全て否定するかのように、激しく睨まれ、息が詰まる。
彼の長身に見下ろされる形になり、稜花は後ろへ這おうとしたが、もう壁にあたるのみだ。
逃げ場を絶たれ、いざとなったら噛みつきそうな勢いで相手を睨み付ける。
――怖い。
――怖い……!
こんな感情、忘れてしまいたかった。
体の芯から襲ってくる震え。この寒さ。
かちかちとかみ合わない歯。呼吸が浅くなり、まともに頭も働かない。
「違う……稜花、違うのだ」
「……っ」
釈明するかのような彼の言葉に、稜花は何も返すことが出来ない。
ふるふると首を振り、寝具にしがみつくことしか出来ない。
「くそっ」
そんな稜花を逃がすまいと、楊基は再び稜花の腕を掴んだ。まるで骨が折れそうな程に力を込められ、大きな悲鳴をあげた。
嫌だ、と、言葉にならない声が漏れるが、彼は聞き入れてくれる様子もなかった。
ガッチリと体を組み敷かれ、稜花はそれでも必死で抵抗した。押さえ込まれた腕をどうにか動かそうと力を入れ、脚をばたつかせる。しかし彼はそれをも押さえ込み、額と額を重ね合わせては、ごく近くで稜花を睨み付けた。
その朱色の瞳に吸い込まれるように視線を奪われ、稜花は目を細めた。
恐怖で目が潤む。
嫌なくらい、自分が女だと自覚する。
自分よりも明らかに強い者に射竦められ、体が思うように動かなくなるなんて。
このまま、彼の腕の中で、彼の思うがままに――そう思うだけで稜花の心はざわめいて、どうしようもなくなった。




