あたらしい日常(2)
いち、に、さん。と、指折り数える。そのあと、きゅっと、手を胸の前で握りしめる。
彼に会えなくなってからの日にちが積み重なっていくのが怖い。朝、体を動かす僅かな時間を与えられたくらいで、稜花の毎日は予定がぎっしりと詰まっていた。
周囲は間もなく執り行われる祝言に向かって、衣装合わせや儀式の手順確認に余念がない。女官たちが入れ替わり立ち代りやって来ては、稜花に確認をして去っていく。
稜花のために誂えられた衣装は、どれも、非常に丁寧に作り込んであった。とてもではないが、龐岸へ向かっている間に用意されたものとは思えない。細やかな刺繍や染め。予め用意していた生地を、大方の体型に合わせて作り上げておいた様だった。
だからこそ、今、花嫁衣装も含めて、目の回る様な量の最終調整に入っている。目算で進めておいたが故の余分な行程だが、ここまで用意周到だと、正直戸惑ってしまう。
そしてその事実は、余計に疑惑を深くするに至らしめた。
ーーまるで、私が花嫁衣装を失うことを、わかっていたみたい。
胸の痛みが広がる。この手際の良さは、単に国力の差とは思えない。
苦々しい思いで顔をくしゃりと歪めるが、それは女官たちの不興を買うだけだった。
「稜明の姫君は大層武芸者であるとは聞き及んでおりました。しかし、稜花様? 今は、祝言の準備を進めることが最優先なのはお分かりですよね」
「まだ体調も万全ではないのでしょう? 殿も心配していらっしゃいます。先ずはお体のことを一番に大事になさいませ」
口々に苦言を呈され、しかも全て正論なため、反論しようがない。朝、自由な時間が与えられていることすら、恵まれていると考えるべきか。
しかし、あてがわれた宮を満足に出ることすら許されず、毎日同じ女官の顔を見るだけ。そして、外に出ることがなければ、必然的に、彼の顔を見ることが益々叶わなくなる。
——楊炎……。
折角昭殷に帰ってきたというのに、まったく顔を合わせられていない。
護衛の者が常に稜花の部屋の外には控えているわけだが、彼がそこに付くことはない。顔を見せに来ることもなくて、一体どうしたのだろうと不安になる。
以前、女官を通じて彼のことを聞いてみたが、ものの見事に咎められた。花嫁が、夫以外の男性の事を聞く。それが気にくわないらしい。
——輿入れ前の娘が、他の男の人のこと気にするのは、良くないとは分かってるけど……でも。
楊炎と、話がしたい。
今、稜花が疑問に思っていること。そして彼が過ごした昭殷でのこと——楊基との過去、すべて。
しかし、顔を合わせることがなければ話など出来ようはずもない。
何故彼が稜花の元へ来てくれないのか。陸由に聞いたところで、彼は例の噂を持ち出すだけだ。到底納得できるものではない。
となると、稜花に出来ることは、後は楊基に主張するしかなくなる。
楊炎との関係性はさておき、稜花が楊炎の事を頼りにしていることくらい、彼は承知している。さらに、楊炎は唯一の、稜明からの従者。彼の安否を心配することは、おかしいことではないはず。
それに、楊基が命令したらしい昭殷での仕事についても問い詰めなければいけない。彼が不本意なことをやらされていなかったのか。稜花は、主として、楊炎を護る義務がある。
「……ねえ、楊基は? ここ数日、顔を出さないけど」
そうしてようやく、稜花の口から楊基の名前が出ることになった。
昭殷へ戻ってきてから楊基とも顔を合わせることがなかった。
稜花が初めて昭殷へやって来たときも、かなりの夜更けまで働いていたようだし、普段から激務に付け加えて、ここ数日留守にしていたのだ。責務が相当に積み重なっているのだろう。
稜花から話題を出したことによって、周囲の女官たちはその目を丸くした。
まあまあ! と明るい声を出し合っては、頬を緩め始める。
「殿も久しぶりの帰還で政務があるのでしょう。またお顔を出された際に、上手におねだりなさいませ」
「そうそう。稜花様におねだりされては、殿も頻繁にお通いになるかもしれませんよ」
殊の外女官たちに喜ばれてしまった。
まったくもってそういうつもりはなかったのだが、年若い娘が未来の夫のことを話すのは微笑ましいことらしい。
咎められることも多いけれども、女官たちは基本的に好意的だ。
それは、楊基が長年妻を迎えなかったこと、そして女性の貴人の世話をすることが少なかったことに起因する。若い娘を着飾らせたり、世話をしたりすることが物珍しく、楽しいらしい。
特に稜花は、朝の調練以外のことはまったくもって注文が多くないことから、彼女たちにとってやりやすい相手であることも理由の一つなのだろう。
思いがけず花嫁の準備をすることになった事態も、忙しいながら腕が鳴るとか。稜花を取り巻く宮全体が活気づいているのは間違いが無い。
「殿は本当に、稜花様のことを気に入っていらっしゃいますから」
「……そうなのかな?」
「あら」
「まあ、稜花様ったら」
くすくすと、周囲が楽しそうに噂話をはじめる。
稜花の髪に添えられた簪に視線をうつし、納得するように皆、頷きあっていた。稜花を引き立てるその簪は美しく、皆が羨むようなものらしい。客観的に見ても、楊基は間違いなく、稜花の事を目にかけているようだ。
だからこそ、わからなくなるわけだが。彼の本心が。
「殿はたいへん稜花様のことを気にかけていらっしゃると思いますよ」
「本当に。素敵な姫君がお相手で良かったこと」
「お転婆だって噂は、本当でしたけどねえ」
一旦色恋の話に花が咲き始めると、際限がない。
女官たちはこぞって、たまに楊基が見せるらしい以前との違いのようなものを話し始めた。楊基つきの女官たちとも、頻繁に情報交換しているようだ。
彼女たちによると、彼は稜花が昭へやってくる前も、部屋を誂えたり贈り物を準備することに余念がなかったとか。
そして、あの噂。
稜花達が到着しなかった後の、彼の焦燥感についても。
「稜花様が行方不明になられたときの殿と言ったら、見てはいられませんでしたよ」
「本当に。普段は冷静な方が、いても立ってもいられないような雰囲気で」
「憂えたお顔も素敵でしたよね」
「こら、貴女! 笑い事じゃありませんよ!」
ますます楽しくなってきたらしく、率先して楊基の様子を教えてくれる。
恋愛という独特の先入観による観察になっているため、かなりの推測が入っていることは勿論分かるのだが。
——行方不明。
それが、彼女たちの認識か。と稜花は思う。もちろん、表現の揺れはあろうとも。
行方不明であるのが分かっておきながら、何も手を打たないのを疑問に持たなかったのだろうか。あるいは、彼女たちにそこまで軍部の情報が届かないのだろうか。
同時に、稜花が居なくなったことに対し、楊基が動揺も見せていたことも引っかかる。
消えて安心したのでは、ないのか。何故そうまで心配するのか、わからない。いや、わかりたくない。
「楊基様は雰囲気が柔らかくなられましたからね。楊基様付きの女官も申しておりますよ。以前は作られた笑いしか見せなかったのに、と」
「昭殷に戻ってきてからは益々。稜花様のことを想って憂うお顔も見せるとか」
「——そうなの?」
女官の情報網に改めて驚いた。楊基付きの女官の話となると、一気に信憑性が増す。
流石、普段から身の回りのことをこなしている者たちは、楊基の些細な変化にも気がつくらしい。
ひとしきり楊基の様子を語った女官たちは、テキパキと手も動かし続ける。まるで着せ替え人形の午前。彼女たちは満足そうに顔を綻ばせては、また各々の持ち場へ戻っていった。
***
午後からは稜花としてはまったく嬉しくない座学の時間にあてられることも多かった。
だが、今はそうも言っていられない。こうして妃となる前に、昭国で学ぶ時間が持てることは正直ありがたかったし、今は少しでも、この国のことが知りたい。
実際、婚儀を執り行うまでには、この国の要職の名前くらいはおさえておきたい。顔ばかりはまだ分からないが、せめて役職と名前は一致させておきたかった。
それに加えて、冬以降の儀礼・祭典の確認。稜花は内政よりも、そう言った行事に関わることの方が多いため、当然必要な知識となる。
もともと卓にかじりつく事が得意ではなかったため、苦痛ではあるがーー。
役職の名簿を確認したところ、女官長から見ても重要だと認識されている人物は朱書きをされている。おそらく、今後宴で顔をあわせる機会もあるのだろう。
その名をずらりと見たところで、この国の偏った構造が分かる。
ーー随分と、新興の家の者が多い。
年齢まで書かれていないのが残念だ。貰った一覧に高濫の名は無かったが、彼と同じように、昭がいち領地だった頃の名残か、他領ならではの名の者も多い。
かなり実力・実績がものを言う社会構造なようだ。一方で、楊の名を持つものは、地方の太守などに限られてくる。漠然とした記憶の地図と照らし合わせてみると、稜河にそった街でもなさそうだ。
ここで稜花は、かつて己を迎えに来た男、楊陶のことを思い出した。彼は昭国の文官と言うことだったが、地方の管理ではなく、中央勤めだったと言うことか。彼がいなくなった影響が大きいと、楊基は言っていた。中央でも、それなりの地位に就いていたのだろうが——。
ーー私の輿入れは、それほどの地位の者がわざわざ使者として遣わされるほどのものだった?
いや。と、稜花は否定する。
今ならわかる。楊陶と、楊基。両者の利害が一致しただけだ。楊陶は、そうしてでも稜花を味方に取り込みたかったのだろう。
楊炎が、言っていた。楊炎を、楊陶派に取り込むための勧誘があったと。
ーー楊基を見てたらわかる。楊家の力は、今、王への一極集中だわ。
楊陶が必死になるはずだ。彼は楊家の中でもかなり力を持った者なのだろうが——。逆に言うと、かなり力を持っていたとしても、いち文官止まりなのだ。
「ねえ、楊家の皆のことを聞いてもいいかしら? 随分と地方に散り散りになっているようだけれど」
「ええ、もちろんです。稜花様」
教師代わりの女官長は、役職の一覧表と名前を照らし合わせながら、楊家の分家についても教えてくれる。
話を聞く中で、聞き捨てならない言葉もいくつか聞こえてきて、顔をしかめることとなった。頭の中に楊家の家系図を描いていくが、どうしても辻褄が合わなかったり、欠落している部分がある。
楊基以外に直系の楊家の者はおらず、成る程後継者問題は相当に深刻なのだと理解した。この状態で、楊基に万が一が起こったら、この国は確実に内乱が起こる。
楊家の闇を垣間見て、彼がその闇の中を生き抜いてきたことに納得した。
だからこそ、ああも、本心を悟らせぬように振る舞っているのか、と。
「先代に妃はお二人いらっしゃいました。この部屋はもともと、殿の母君でいらっしゃる第一夫人がお住まいになっていたもので」
「へえ。第二夫人はどこに?」
「ここの宮を南側に抜けた部屋に——」
南側、と言われ、稜花ははっとした。しっかりと歩き回ったわけではないので定かではない。だが、ここの南に何があるかは、分かっている。何故なら、かつて二度歩いたからだ。
一度は龐岸から昭殷へ戻ってきたとき。
はじめてこの宮へと連れて来られた際の、通り道だった。
そして記憶にあるもう一回。稜花が楊炎とともに昭殷に侵入したあの日。地下の通路を辿ってたどり着いた部屋が——。
——まるで、時間が止まったかのような部屋だった。
全てのものが、少しずつ、少しずつ時代から取り残されていったような。綺麗に片付けてあるのに、人の生活している雰囲気の一切無い部屋。
家具は明らかに女性もので、かなり高貴な身分の者が使用していたのだろうとは思っていたが——。
——あれは、第二夫人の部屋だった?
——でも、どうして楊炎が、第二夫人の部屋を?
胸の内で燻りが大きくなる。ちりちりと膨れあがる不安を御しきれず、稜花は息を吐いた。
こんなところで、動揺を悟られてはいけないと自分に言い聞かせ、無理矢理口の端を上げた。小首を傾げながら、気になったところを女官長に訊ねてみる。
「先代は、第二夫人まで娶りながら、跡継は楊基一人だけだったのね」
「……いえ、弟君がいらっしゃったのです。今は行方知れずの」
「行方知れず?」
「幼い頃に、攫われたとか。私も、詳しくは」
淡々と、情報を並べて、女官長は首を横に振った。それ以上は、彼女にもわからないらしい。
そう、と、稜花も呟いた。彼に弟がいたとは。
兄弟、という言葉は稜花にとっては特別なものだ。彼にも、信頼できる弟がいたならば、色々と違っていたのかもしれない。
「ありがとう。楊基の妃になる前に、この国のことがわかって、とても良かった」
「はい。急な話ですし、新興の国ですから。来賓は多くはないですが、それでも、今のうちに皆さまのことは覚えておかれませ」
「ええ、そうね。来賓については、まとめてあるのかしら?」
「もちろんでございます。今のうちに、覚えられるのが良いでしょうと、ご用意しております」
用意周到なことだ。というより、近いうちに稜花に覚えさせるつもりだったのだろう。
稜花から話を切り出したから、丁度良いと思ったらしく、女官長はいそいそと資料を準備している。国と所属の綴られた一覧表にはかなりの数の来賓が綴られていて、どこが多くがないのだと心の中で否定する。
「西国の方もいるのね。今回の祝言は日程がなかなか定まらなかったでしょう? 連絡はどうしたの?」
「当初の予定通りの日程で、この城にすでに滞在していらっしゃいます。元々取引の話もございましたから。その件でも、殿はお忙しくていらっしゃるのでしょう」
「そう……当初の予定通りで……」
と、そこまで口にして、稜花ははたと気がつく。
当初の予定通り来賓が皆たどり着いているのだとしたら、明らかに、稜花の耳に入っていなければおかしい情報があるではないか。
「——待って。稜明の使者は——どうしたの?」
稜花が行方不明になった後、龐岸で李公季に会いはしたが——他の、李永や李進たち、尚稜の者たちはどう動いたのだろうか。
本来ならば、稜花に遅れて昭殷入りするはずだった大使もいる。彼らは一体、どのような動きを下のだろうか。
ざらり、とした感情に心をとらわれる。
目の前の女官長も、はっとするように目を見開き、息を呑み込んだ。




