帰るべき場所
船の揺れが、やけに気になる。
体を起こす気にもなれず、稜花は寝そべったまま、己の目を腕で覆い隠した。
昼も夜もない。虚ろな気分のまま、ただぼんやりと昭殷へ向かう船上の日々を過ごす。
「……」
じっとしていると、嫌な事ばかり頭に浮かぶから厄介だ。
自分が馬鹿すぎて、消えてしまいたい。何を今まで気を張っていたのかと、遣る瀬無い気持ちをどう消化して良いのかわからなくなった。
うつ伏せて、瞼の裏にうつる暗闇を見る。ぐるぐると渦巻く黒に吸い込まれると、僅かにほっとする自分が居る。
――楊炎。
彼の名前を呼んだ。
――貴方の話を聞かせて。貴方の話が、聞きたい。
ぐらぐらと心が揺れ続けるのは、自分に決断するだけの自信が足りないからだ。いや、この胸の中に沸き起こった疑惑を、信じたくないからかもしれない。
楊炎に会ったところで、何を言って欲しいのか。
肯定して欲しいのか、否定して欲しいのか。それすら定かではなくて、苦しい。
――私は、信じたいの? それとも……、
稜花を絡め取る腕を思い出す。我が物顔で腰を抱き、言葉一つで稜花を操る。同時に、稜花を導きさえした彼。
――楊基。
まるで、霧の中。
彼の、真意が見えなくて、こんなにも揺さぶられている。
ーー親身になってくれるふりをして、貴方は……。
言葉にすることすら、憚られる。
龐岸の一件で、彼は全力で稜花に手を貸してくれた。指揮官としての有様を見失わぬようにと気を回してくれた。
ずっと警戒してきたけれど、彼と、新たな関係を築けるかもしれないと思いはじめていた。
稜明と昭国の関係をより密なものにする。ようやく信頼関係を構築できるかもしれないと。
ーー少しは、良いところがあるって、思ったのに。
ーーでも、兄上が、嘘をつくはずが、ないもの。
くしゃりと顔が歪む。
あの日の別れ際。李公季が稜花に押し付けたのは一枚の手紙だった。誰の目にも触れぬよう、こっそりと引き渡されたもの。船上で目を通した時、あまりの内容に、こっそり河へと流してしまった。
簡素な手紙だった。李公季から見た事件の流れと考察、そして疑惑。それだけだ。しかし、稜花が感じていた小さな違和感の数々と組み合わさると、見えてくる。考えたくもなかった。事件の関係性が。
李公季たちを最初に襲撃したのは、暗部。そして彼は、杜兵とは思えないと書き足していた。
稜花が襲われた時も妙だったのだ。
暗部は稜花の命だけを狙っているようには見えなかった。楊陶を乗せた船をも沈め、派手に襲ってきた。
稜花一人の命が目的ならば、もっと他に方法があったはずなのに。
そして、その後の安穏とした旅。
楊基ならば、稜花の消息が絶たれたことくらい、遅からず分かっていただろうに。あれ程の規模の戦準備をしていた一方で、稜花が生きている可能性を考えなかった筈はない。
それなのに、調査団も、各地を警戒する軍も見かけなかった。平和で、安穏とした街の姿が見えていたこと自体、異常事態だ。
ーー私が、見つからない方が良かったんだ。
杜と稜明を揺さぶる時間が欲しかったのか。
もしかしたら稜花があの場で死んでも良かったのかもしれない。そうすれば、杜と稜明は最後まで潰し合いになっていた。
ーーつぶし合いになったら、援軍として、国境に軍を通すことができた。
稜花が居らずとも、難なくできたはずだ。
だからか、と納得する。
今回の抗争の規模からしても、準備していた兵の数が多すぎると思っていたのだ。
あの数を動かすとなると、昭国にかかる負担が大きすぎる。今年は豊作だったとは言え、難民が増えたことによる冬の食糧問題を抱えている時に、なんと無駄なことをするのだと。
狙いは、龐岸だけではなかったかもしれない。国境、だろうか。
龐岸で戦になれば、稜明国内にもまず間違いなく援軍の要請がかかる。その時、最も龐岸から近いまとまった軍と言えば、国境軍だ。
今までの楊基のやり方を見ていてもわかる。彼は稜明と戦をするつもりはなかった。味方のふりをして、いつの間にか昭国が実権を握っている。
ゆるゆると彼の腕の中に捕らわれる感覚に、ああそうか、と稜花は納得した。
李公季を探す前夜。稜花が主導を握っていなければ――龐岸も、本当に危なかったのかもしれない。
仮に、李公季の立てた仮説が正しいとすれば、昭国は龐岸を諦めても、あの夜のうちに李公季を探さなければいけなかった。
稜花が眠っていた間だって、楊基は、李公季と稜花を近づけようとはしなかった。
――楊基は、兄上を、確実に殺さなければいけなかったんだ。
李公季は聡い。そして、稜花が見てきたもの、李公季が見てきたものを合わせると、真実が見えてきてしまう。
二人が出会ってしまってはまずかった。だからこそ、稜花探索に出る前に李公季を殺すつもりだったのかと理解した。
城に入る前も、森へ行きたかった夜も、まるで宥めるようにして稜花を足止めしたのは……。
――将として、まるで、導いてくれたかのように思っていたのに。
何故だ。何故、気付かなかったのだろうと、稜花は思う。
そして同時に、稜花が見てきた楊基の姿が、嘘だとも思えなかった。
彼は心から稜花を導いてくれていたし、彼の言っていることは至極全うだった。そして、本気で心配してくれたようにも思えて。
ふと、己の腕を見た。
かすれただけの、薄い傷。毒矢を受けた場所は、ひどい変色をしていたものの、今はようやく赤みを取り戻している。
毒を受けたとき、稜花を死なせはしないと必死になって走ってくれた。吸い出す行為は、楊基にとっても危険があったはずだ。迷う事なく処置してくれたのが、偽りの行為だとも思えない。
なのに、どうしてだろうか。
稜花はぎゅっと、拳を握りしめる。命を助けてもらった身で、疑うことは忍びない。なのに、どうしても、どうしても気になって仕方が無いのだ。
あの時の違和感。早すぎた、彼の判断。
楊基があらかじめ、毒矢だと分かっていたのなら、納得できてしまう。
あの弓を受けた時、稜花が杜兵によるものと思うのは当たり前のことだ。ましてや毒の可能性など、思いつきすらしなかったのに。
彼は迷うことなく、真っ先に解毒の処置をした。いくら彼が聡いとは言っても、あの速さでの判断は出来ようはずがない。
同時に、あの出合頭が、李公季を討つ最後の機会だったことを考えても。
何度も、何度も稜花を止めた。飛び出さないように。一人で走らないように。慎重になれとーー。
楊基が、全ての糸を引いていたとするならば――説明がつく事柄が、あまりにも多すぎる。
逆に、どうしても惑ってしまう。彼が見せる、稜花への親身な態度。
それだけが、稜花の判断を鈍らせる。
――私、どうすればいいのだろう。
仮に、彼が仕掛け人だとすれば?
稜明と杜の同盟は既に瓦解しているも同然ではないか。味方と称する強い毒を懐に入れるだけだ。
稜花が昭国にいる事で、その牙を警戒し続ける役回りになるか。それとも、稜花自身がただの人質となるのか。
ーー私の判断ひとつで、稜明の在り方が……。
ぶるりと、震えた。
簡素な手紙だったが、最後の一文が忘れられない。
一体どんな気持ちで、李公季はあの手紙を書いたのだろう。彼もまた、稜明を背負う者でありながら、領地と家族、どちらを取るかで悩んだはず。
『国境に軍を配置する。危ないと思ったら、迷わず逃げてこい』
きっちりとした性格の表れた、形の整った字で綴られていた。明確に、兄が楊基、そして昭国を警戒していることを隠しもしない一言。
おそらく、稜花が昭国へ帰ることも予想していたのだろう。あれだけ足留めされておきながら、それでも跳ね返した自分が恨ましくも感じる。
今頃彼は、相変わらず稜花を心配しているだろう。尚稜へ早馬を飛ばして、稜花の決意を李家の皆に伝えただろう。まず間違いなく、稜明は動く。彼らは、そう言う人たちだ。
ーー兄上は、昭国と、全面抗争も覚悟してた。
無茶だ。駄目だと、頭をふる。
李公季のこと、浅慮な答えではないのだろう。逃げてこいと言うだけの、昭国との同盟を危惧するに足る確信があるはず。
しかし、逃げたら全てが終りだ。今まで、覚悟して、耐えて、稜明のために走ってきたこと全てが無駄になる。
目の前で失ってきたものも、すべて。
両の手で顔を覆った。
ぐらぐらしているのは、船が揺れているからではない。
この小さな手で故郷を背負う。でも、稜花の手には、有り余る。
ーー出来ないよ、こんなの。
一人じゃ、怖い。誰か、誰かと手を伸ばす。
助けを求めても、今は誰も側に居てくれない。それでいいよ、進んでいいよと後押ししてくれる人は。
ーー楊炎。楊炎、どうしよう。私。
彼と話がしたい。いや、隣に立っていてくれるだけで。それだけで、稜花は前に進めるのに。
黒の影に縋りたい。どんな時も、絶対、稜花のことを裏切らない。誰よりも信頼している影に。
早く会いたい。そればかり望んでしまう。焦ったところで、船の速度は変わらないのに。
がたりと、戸の開く音がする。びくりと稜花の心臓が跳ね上がり、目を閉じた。
ーー焦っていることを、悟られてはいけない。
微動だにせず、寝台に横たわったままでいる。いつかは彼とも向き合わなければいけない日が来る。でも、今は。この心を隠せる気がしない。
するすると、絹の揺れる音と、床の軋む音が聞こえる。音は稜花のすぐ側まで忍び寄り、そっと、彼女の額に触れた。
「……稜花」
聞き心地の良い声が聞こえる。強く、芯の通った声。この声が、稜花は嫌いではなかった。
じっと目を閉じたまま、彼の好きにさせる。そうすれば彼は、満足して立ち去っていくのを知っている。
熱の有無を確かめているのだろうか。ほぼほぼ平常時と変わらぬほどに戻っているはずだが、日がな眠ってばかりの稜花を心配してくれているのだろうか。
疑いを持って見てしまうのに、相変わらず彼の手は優しい。無条件で甘やかしてくれる様な、温かさすら感じる。
「……」
じいと、視線を感じる。眠る稜花に、彼は無理をしない。稜花を起こさぬ様にと、気遣いすら感じて。
しばらく、彼は稜花の隣に佇んでいて。やがて満足したのか、静かに足音が離れていく。
閉じられた扉の音。消えない彼の熱。ぎゅうと稜花の心臓を締め付ける。
ーーどうして。どうして、楊基。
見えない。
あなたの真意が。
白の霧に阻まれて。
***
「……すっかり体力を落としたな」
「汰尾の後から、落ちる一方よ」
稜花に手を差し出しながら、苦笑する彼の顔を真っ直ぐ見られない。彼はなんだかんだでとても丁寧に稜花を扱うので、余計にどうすれば良いか分からない。素直にその手を取るけれども、同時に、妙に心が冷えていくのがわかった。
ようやく昭殷の街にたどり着き、稜花たちは船を後にすることになった。数日間眠りこけていた稜花は、足を動かすがぎこちない。それを支える楊基も、何も言わずとも歩幅を狭めてくれるからやるせない。
もっと突き放してくれたら。
もっと道具みたいに扱ってくれたら話は早いのに。
相変わらず、不安だけが胸を渦巻く。
でも、それも今日で終りなことくらい、稜花は分かっていた。
船から降りれば、きっとーー。
澄み渡る空。王を迎える数多の兵。
その先頭を陣取るように、黒のーー。
「……っ!」
ぶるりと、体が震える。
それは稜花だけではなかったらしい。稜花の顔を見て、目があって、明らかに胸をなでおろす彼がいる。
ーー待ってて、くれたんだ。
昭殷で。何をしていたのかわからない。それでも、真っ先に稜花の帰りを待っててくれた。
本来ならば、すぐにでも彼の元へ駆け寄りたい。不安にもたげるこの身を抱きしめて欲しい。
目が合ってしばし、お互い見つめあう。随分と長い間、彼の顔を見ていなかったように思う。
だからだろうか。優しさも温もりも一切ない表情なのに、稜花にとっては一番安心する。いつまでも変わらぬ彼が、稜花を迎えてくれること。それだけで随分と心が軽くなった。
「……ふん」
稜花の表情が緩んだのを見ていたのだろうか。実に楽しくなさそうな声が、隣から漏れる。
はっとして見上げると、明らかに不機嫌そうな面持ちの楊基の顔があった。
「行くぞ。奴に構う前に、其方は養生しろ」
稜花の心などお見通しなのだろうか。のそのそとした稜花の歩みに合わせてられるかと言わんばかりに、楊基は稜花の体を抱き上げた。
船から降り、楊炎を無視するようにして、さっさと兵の間をすり抜けていく。
もちろん、楊炎は稜花たちと合流し、後ろを付き従うようについてくる。本来ならば、後ろを振り返って彼の存在を確かめたい。しかし、楊基の腕の中ではそれも叶わず、じっとしているしかない。
大丈夫、待てる、と、稜花は己に言い聞かせた。稜花も彼も昭殷にいる。これから先、話す機会などいくらでもあるだろう。
帰ってきたと、稜花は思った。
故郷でも何でもないのに、何故だろうか。
ちりちりと背中に熱を感じ、浮き立つ心を抑えきれなかった。




