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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第四章
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帰るべき場所

 船の揺れが、やけに気になる。

 体を起こす気にもなれず、稜花は寝そべったまま、己の目を腕で覆い隠した。

 昼も夜もない。虚ろな気分のまま、ただぼんやりと昭殷へ向かう船上の日々を過ごす。



「……」


 じっとしていると、嫌な事ばかり頭に浮かぶから厄介だ。

 自分が馬鹿すぎて、消えてしまいたい。何を今まで気を張っていたのかと、遣る瀬無い気持ちをどう消化して良いのかわからなくなった。

 うつ伏せて、瞼の裏にうつる暗闇を見る。ぐるぐると渦巻く黒に吸い込まれると、僅かにほっとする自分が居る。


 ――楊炎。


 彼の名前を呼んだ。


 ――貴方の話を聞かせて。貴方の話が、聞きたい。


 ぐらぐらと心が揺れ続けるのは、自分に決断するだけの自信が足りないからだ。いや、この胸の中に沸き起こった疑惑を、信じたくないからかもしれない。

 楊炎に会ったところで、何を言って欲しいのか。

 肯定して欲しいのか、否定して欲しいのか。それすら定かではなくて、苦しい。


 ――私は、信じたいの? それとも……、



 稜花を絡め取る腕を思い出す。我が物顔で腰を抱き、言葉一つで稜花を操る。同時に、稜花を導きさえした彼。


 ――楊基。


 まるで、霧の中。

 彼の、真意が見えなくて、こんなにも揺さぶられている。



 ーー親身になってくれるふりをして、貴方は……。


 言葉にすることすら、憚られる。

 龐岸の一件で、彼は全力で稜花に手を貸してくれた。指揮官としての有様を見失わぬようにと気を回してくれた。

 ずっと警戒してきたけれど、彼と、新たな関係を築けるかもしれないと思いはじめていた。

 稜明と昭国の関係をより密なものにする。ようやく信頼関係を構築できるかもしれないと。



 ーー少しは、良いところがあるって、思ったのに。


 ーーでも、兄上が、嘘をつくはずが、ないもの。


 くしゃりと顔が歪む。

 あの日の別れ際。李公季が稜花に押し付けたのは一枚の手紙だった。誰の目にも触れぬよう、こっそりと引き渡されたもの。船上で目を通した時、あまりの内容に、こっそり河へと流してしまった。




 簡素な手紙だった。李公季から見た事件の流れと考察、そして疑惑。それだけだ。しかし、稜花が感じていた小さな違和感の数々と組み合わさると、見えてくる。考えたくもなかった。事件の関係性が。


 李公季たちを最初に襲撃したのは、暗部。そして彼は、杜兵とは思えないと書き足していた。

 稜花が襲われた時も妙だったのだ。

 暗部は稜花の命だけを狙っているようには見えなかった。楊陶を乗せた船をも沈め、派手に襲ってきた。

 稜花一人の命が目的ならば、もっと他に方法があったはずなのに。


 そして、その後の安穏とした旅。

 楊基ならば、稜花の消息が絶たれたことくらい、遅からず分かっていただろうに。あれ程の規模の戦準備をしていた一方で、稜花が生きている可能性を考えなかった筈はない。

 それなのに、調査団も、各地を警戒する軍も見かけなかった。平和で、安穏とした街の姿が見えていたこと自体、異常事態だ。



 ーー私が、見つからない方が良かったんだ。


 杜と稜明を揺さぶる時間が欲しかったのか。

 もしかしたら稜花があの場で死んでも良かったのかもしれない。そうすれば、杜と稜明は最後まで潰し合いになっていた。


 ーーつぶし合いになったら、援軍として、国境に軍を通すことができた。


 稜花が居らずとも、難なくできたはずだ。

 だからか、と納得する。

 今回の抗争の規模からしても、準備していた兵の数が多すぎると思っていたのだ。

 あの数を動かすとなると、昭国にかかる負担が大きすぎる。今年は豊作だったとは言え、難民が増えたことによる冬の食糧問題を抱えている時に、なんと無駄なことをするのだと。


 狙いは、龐岸だけではなかったかもしれない。国境、だろうか。

 龐岸で戦になれば、稜明国内にもまず間違いなく援軍の要請がかかる。その時、最も龐岸から近いまとまった軍と言えば、国境軍だ。


 今までの楊基のやり方を見ていてもわかる。彼は稜明と戦をするつもりはなかった。味方のふりをして、いつの間にか昭国が実権を握っている。

 ゆるゆると彼の腕の中に捕らわれる感覚に、ああそうか、と稜花は納得した。

 李公季を探す前夜。稜花が主導を握っていなければ――龐岸も、本当に危なかったのかもしれない。



 仮に、李公季の立てた仮説が正しいとすれば、昭国は龐岸を諦めても、あの夜のうちに李公季を探さなければいけなかった。

 稜花が眠っていた間だって、楊基は、李公季と稜花を近づけようとはしなかった。


 ――楊基は、兄上を、確実に殺さなければいけなかったんだ。


 李公季は聡い。そして、稜花が見てきたもの、李公季が見てきたものを合わせると、真実が見えてきてしまう。

 二人が出会ってしまってはまずかった。だからこそ、稜花探索に出る前に李公季を殺すつもりだったのかと理解した。

 城に入る前も、森へ行きたかった夜も、まるで宥めるようにして稜花を足止めしたのは……。


 ――将として、まるで、導いてくれたかのように思っていたのに。


 何故だ。何故、気付かなかったのだろうと、稜花は思う。

 そして同時に、稜花が見てきた楊基の姿が、嘘だとも思えなかった。

 彼は心から稜花を導いてくれていたし、彼の言っていることは至極全うだった。そして、本気で心配してくれたようにも思えて。



 ふと、己の腕を見た。

 かすれただけの、薄い傷。毒矢を受けた場所は、ひどい変色をしていたものの、今はようやく赤みを取り戻している。

 毒を受けたとき、稜花を死なせはしないと必死になって走ってくれた。吸い出す行為は、楊基にとっても危険があったはずだ。迷う事なく処置してくれたのが、偽りの行為だとも思えない。


 なのに、どうしてだろうか。

 稜花はぎゅっと、拳を握りしめる。命を助けてもらった身で、疑うことは忍びない。なのに、どうしても、どうしても気になって仕方が無いのだ。

 あの時の違和感。早すぎた、彼の判断。

 楊基があらかじめ、毒矢だと分かっていたのなら、納得できてしまう。


 あの弓を受けた時、稜花が杜兵によるものと思うのは当たり前のことだ。ましてや毒の可能性など、思いつきすらしなかったのに。

 彼は迷うことなく、真っ先に解毒の処置をした。いくら彼が聡いとは言っても、あの速さでの判断は出来ようはずがない。

 同時に、あの出合頭が、李公季を討つ最後の機会だったことを考えても。


 何度も、何度も稜花を止めた。飛び出さないように。一人で走らないように。慎重になれとーー。

 楊基が、全ての糸を引いていたとするならば――説明がつく事柄が、あまりにも多すぎる。



 逆に、どうしても惑ってしまう。彼が見せる、稜花への親身な態度。

 それだけが、稜花の判断を鈍らせる。


 ――私、どうすればいいのだろう。


 仮に、彼が仕掛け人だとすれば?

 稜明と杜の同盟は既に瓦解しているも同然ではないか。味方と称する強い毒を懐に入れるだけだ。

 稜花が昭国にいる事で、その牙を警戒し続ける役回りになるか。それとも、稜花自身がただの人質となるのか。


 ーー私の判断ひとつで、稜明の在り方が……。


 ぶるりと、震えた。

 簡素な手紙だったが、最後の一文が忘れられない。


 一体どんな気持ちで、李公季はあの手紙を書いたのだろう。彼もまた、稜明を背負う者でありながら、領地と家族、どちらを取るかで悩んだはず。



『国境に軍を配置する。危ないと思ったら、迷わず逃げてこい』



 きっちりとした性格の表れた、形の整った字で綴られていた。明確に、兄が楊基、そして昭国を警戒していることを隠しもしない一言。

 おそらく、稜花が昭国へ帰ることも予想していたのだろう。あれだけ足留めされておきながら、それでも跳ね返した自分が恨ましくも感じる。

 今頃彼は、相変わらず稜花を心配しているだろう。尚稜へ早馬を飛ばして、稜花の決意を李家の皆に伝えただろう。まず間違いなく、稜明は動く。彼らは、そう言う人たちだ。


 ーー兄上は、昭国と、全面抗争も覚悟してた。


 無茶だ。駄目だと、頭をふる。

 李公季のこと、浅慮な答えではないのだろう。逃げてこいと言うだけの、昭国との同盟を危惧するに足る確信があるはず。


 しかし、逃げたら全てが終りだ。今まで、覚悟して、耐えて、稜明のために走ってきたこと全てが無駄になる。

 目の前で失ってきたものも、すべて。


 両の手で顔を覆った。

 ぐらぐらしているのは、船が揺れているからではない。

 この小さな手で故郷を背負う。でも、稜花の手には、有り余る。


 ーー出来ないよ、こんなの。


 一人じゃ、怖い。誰か、誰かと手を伸ばす。

 助けを求めても、今は誰も側に居てくれない。それでいいよ、進んでいいよと後押ししてくれる人は。


 ーー楊炎。楊炎、どうしよう。私。


 彼と話がしたい。いや、隣に立っていてくれるだけで。それだけで、稜花は前に進めるのに。

 黒の影に縋りたい。どんな時も、絶対、稜花のことを裏切らない。誰よりも信頼している影に。


 早く会いたい。そればかり望んでしまう。焦ったところで、船の速度は変わらないのに。




 がたりと、戸の開く音がする。びくりと稜花の心臓が跳ね上がり、目を閉じた。


 ーー焦っていることを、悟られてはいけない。


 微動だにせず、寝台に横たわったままでいる。いつかは彼とも向き合わなければいけない日が来る。でも、今は。この心を隠せる気がしない。


 するすると、絹の揺れる音と、床の軋む音が聞こえる。音は稜花のすぐ側まで忍び寄り、そっと、彼女の額に触れた。



「……稜花」


 聞き心地の良い声が聞こえる。強く、芯の通った声。この声が、稜花は嫌いではなかった。

 じっと目を閉じたまま、彼の好きにさせる。そうすれば彼は、満足して立ち去っていくのを知っている。


 熱の有無を確かめているのだろうか。ほぼほぼ平常時と変わらぬほどに戻っているはずだが、日がな眠ってばかりの稜花を心配してくれているのだろうか。

 疑いを持って見てしまうのに、相変わらず彼の手は優しい。無条件で甘やかしてくれる様な、温かさすら感じる。


「……」


 じいと、視線を感じる。眠る稜花に、彼は無理をしない。稜花を起こさぬ様にと、気遣いすら感じて。

 しばらく、彼は稜花の隣に佇んでいて。やがて満足したのか、静かに足音が離れていく。


 閉じられた扉の音。消えない彼の熱。ぎゅうと稜花の心臓を締め付ける。



 ーーどうして。どうして、楊基。


 見えない。

 あなたの真意が。


 白の霧に阻まれて。




 ***




「……すっかり体力を落としたな」

「汰尾の後から、落ちる一方よ」


 稜花に手を差し出しながら、苦笑する彼の顔を真っ直ぐ見られない。彼はなんだかんだでとても丁寧に稜花を扱うので、余計にどうすれば良いか分からない。素直にその手を取るけれども、同時に、妙に心が冷えていくのがわかった。


 ようやく昭殷の街にたどり着き、稜花たちは船を後にすることになった。数日間眠りこけていた稜花は、足を動かすがぎこちない。それを支える楊基も、何も言わずとも歩幅を狭めてくれるからやるせない。

 もっと突き放してくれたら。

 もっと道具みたいに扱ってくれたら話は早いのに。


 相変わらず、不安だけが胸を渦巻く。

 でも、それも今日で終りなことくらい、稜花は分かっていた。

 船から降りれば、きっとーー。




 澄み渡る空。王を迎える数多の兵。

 その先頭を陣取るように、黒のーー。


「……っ!」


 ぶるりと、体が震える。

 それは稜花だけではなかったらしい。稜花の顔を見て、目があって、明らかに胸をなでおろす彼がいる。


 ーー待ってて、くれたんだ。


 昭殷で。何をしていたのかわからない。それでも、真っ先に稜花の帰りを待っててくれた。

 本来ならば、すぐにでも彼の元へ駆け寄りたい。不安にもたげるこの身を抱きしめて欲しい。


 目が合ってしばし、お互い見つめあう。随分と長い間、彼の顔を見ていなかったように思う。

 だからだろうか。優しさも温もりも一切ない表情なのに、稜花にとっては一番安心する。いつまでも変わらぬ彼が、稜花を迎えてくれること。それだけで随分と心が軽くなった。



「……ふん」


 稜花の表情が緩んだのを見ていたのだろうか。実に楽しくなさそうな声が、隣から漏れる。

 はっとして見上げると、明らかに不機嫌そうな面持ちの楊基の顔があった。


「行くぞ。奴に構う前に、其方は養生しろ」


 稜花の心などお見通しなのだろうか。のそのそとした稜花の歩みに合わせてられるかと言わんばかりに、楊基は稜花の体を抱き上げた。


 船から降り、楊炎を無視するようにして、さっさと兵の間をすり抜けていく。

 もちろん、楊炎は稜花たちと合流し、後ろを付き従うようについてくる。本来ならば、後ろを振り返って彼の存在を確かめたい。しかし、楊基の腕の中ではそれも叶わず、じっとしているしかない。


 大丈夫、待てる、と、稜花は己に言い聞かせた。稜花も彼も昭殷にいる。これから先、話す機会などいくらでもあるだろう。


 帰ってきたと、稜花は思った。

 故郷でも何でもないのに、何故だろうか。

 ちりちりと背中に熱を感じ、浮き立つ心を抑えきれなかった。

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