移ろいゆく季節
何も変わってはいない、と、楊炎は思った。
蝋燭の灯りが、向き合う相手の頬を照らす。暗闇の中ぼんやりと浮かび上がる朱の双眸は、かつて、楊炎を悩ませた夢の中の――同時に、彼自身が持っている最も古い記憶の少年と同じ。記憶を捨てた自身を、まるで飼い慣らすように側に置き続けた彼と。
昭国王、楊基。
昭殷にやって来て早々に、彼と二人向き合うとは思わなかった。
先程使用した城への侵入経路など、彼ならばもうわかっているはず。わざわざ人払いまでして問いたいというのは、もっと別の何かだろう。
「まずは、礼を言っておこう。良く護った、楊炎」
「先程も申し上げたが、姫は私の主。お護りするのは当然のこと」
「……見上げた忠誠心だ」
くつくつと笑う彼は上機嫌だ。照らされた口元がくいと上がり、その笑みが、楊炎の記憶を揺さぶる。
この歳まで引きずっている自分にも戸惑う。楊炎はすでに、あの頃の存在とも、身分とも、過去の全てを切り離した今を生きている……筈なのに、心の奥底に掘り刻まれたものは消せないものだと理解した。
「ご質問ならばどうぞ。慣れぬ地故、早く姫の元へ戻らなければなりません。手早くお願い致します」
「ふっ。本当に、あの姫君の事が大切らしい。未来の夫としては、複雑な気持ちだが――」
「お気になさらずとも。所詮、私は姫のいち護衛に……」
「誤魔化すな」
否定しようとしていたところ、楊基は言葉を被せる。そして笑みを益々濃くして、確信するように付け足した。
「あれ程私を睨みつけておいて。感情を隠すのが下手になったな、焔よ」
「……」
またか、と楊炎は思う。幾らはぐらかそうと、彼の中では既に確定された事実なのだろう。楊炎が、かつて焔と呼ばれた少年であったことは。
相見えるたびに、楊炎を挑発してきては様子を見ているようだった。
当然、その挑発に乗るわけにはいかなかった。ひとたび認めてしまえば、恐らく、稜明には居られなくなる。李公季にも、稜花にも仕えられなくなると、勝手に思い込んでいた。
しかし。と、楊炎は思う。
稜花と旅をし、想いを交わしてから――そして、先ほど楊基に彼女を奪われて尚、強くなったひとつの想いがある。
手に入れたいものがある。
彼女を護る為には、今迄の自分のままでは、力が足りない。
「散々人を焚きつけておきながら、何を仰るか。兄上」
だから、応えた。
よほど意外だったのだろうか。元々は自分で振った話題であるにも関わらず、楊基は軽く目を瞠り、破顔する。
「ふん、ようやく認める気になったか」
「……忌子に今更何の御用か」
誰にも自身の生を喜ばれたことなど無かった。焔、と、呪われた名で呼ばれ続けた事実。かつての名を呼ばれるだけで、心がざわりと反応する。記憶を投げ捨てたにもかかわらず、無意識に反応してしまうのだからたまらない。
「忌子、か。そう呼んだのはかつての其方の母だけであろう。当時の関係者が居なくなった今、其方は単に、姿を消した、私の腹違いの弟だ」
「それすら定かでないと言ったのも、貴方だったはずだ。先代の血すら、私は引いているとは限らない」
「ふん。事実は、どうとでも塗り替えられよう。其方の場合は、確かめようがない分、尚更な」
くくく、と笑ったのち、楊基は両手を卓の上で握りしめた。朱色の瞳が真っ直ぐ、静かに楊炎をとらえる。
「――単刀直入に言う。焔よ。其方、私の弟に戻らないか?」
***
彼女がこの地を離れてから一気に山々は色づいた。兵舎を囲む銀杏の木も、たわわに実る独特の実の香りをぷんと漂わせはじめている。
月夜に照らされた木々は美しく、ただこの景色も間もなく移ろいゆくのだろう。
北の秋は短い。
稜花がこの地を出てから半月以上が過ぎている。その間、おそらく稜花に与えられるであろう部屋を中心に、女官が走り回っていた。全てを失った彼女が輿入れするにはあまりに物が足りなさ過ぎる。
楊基が残した命に、目を白黒させる者、あらかじめ楊基と話が出来ていたらしく冷静に事に当たっている者といろいろ。
しかし、予めかなりの職人を確保し、同時に贈り物も用意されていたらしく、かねがね順調に準備が進められていた。
用意周到過ぎる、とも思われたが、楊基の性格を考えると不思議なことではない。
彼は一つのものに執着をしはじめると、とことんのめり込む傾向がある。
実に不愉快なことではあるが、元々、彼女が稜明の衣装をつけることすら認めず、昭国のものに変えさせるつもりだったはずだ。婚礼用の朱の衣装が間に合うという話を聞いて、確信した。彼の本質は、幼い頃のものとやはり変わってはいないらしい。
もしかしたら、彼女が荷を失ったことすら好機だと思っていそうで、虫酸が走る。結果的に彼の用意周到さに助けられた形になっているが、当然のことながら腑には落ちなかった。
――知らず知らずのうちに、人を取り込むのは相変わらずだ。
何故彼が、今更楊炎を弟として扱おうと言い出したのか。楊炎の選択は彼の思惑に乗ったことになってしまう。
しかしあの場では、そう選択するしかなかった。彼女の助けとなるためには、確実に、力が必要なのだ。そしてそれは、単純に刀を振るだけの意味ではない。
――しばらくは落ち着いたかと思っていたが、また騒がしくなっていたのか。
楊炎自身がこの国に身を置いた時期は短かったし、まだ幼かった。しかし、自身の出自した場所が気にならないと言えば嘘になる。だからこそ、定期的に昭のことは調べるようにしていた。
楊然――先代の弟を中心とした派閥が一気に消された時期がある。当然のことながら、楊家の跡取りは楊基のみ。まだ年若い彼が領主を継いでから、この地を取り巻く有力な反領主派閥は一気に力を失っていった。
しかし年月が経てば、新しい芽も育つ。表には出てきていないものの、裏では反楊基の勢力が力をつけてきているのは間違いないようだ。
当然、楊基がそれを許すはずがない。
――俺を、餌にするか。
楊炎を昭殷に置き、自らは離れる。そうすれば近寄ってくる者も居るだろう、と彼は言った。
今、楊家で生き残っている者は、燦夫人の事件を知りながら、生き延びられる立場にあった者たちだ。当然、楊炎の姿を見れば、何者かは推し量れよう。
燦夫人につけられた左頬の痕。瞼を裂き、ざっくりと走った傷を忘れた者などおらぬだろう。いくら楊炎が成長したとしても、彼の髪や瞳の色、そして、失われた瞳は変えようがないのだから。
そうしたら、案の定、だ。
楊炎を内密に、酒宴へと誘う者たちが現れたわけで。
結果。今、楊炎は、自分の頭が正しいのか正しくないのか、判断がつきにくくなっている現状に至っていた。
理由は、呑みすぎだ。辟易する程酒を注がれてしまい、だが立場上断るつもりもなかったため、自分の許容を超えたらしい。
早いところ何処かに寄りかかるか腰を下ろしたい気持ちになり、楊炎は頭を抱えた。
――稜明とは、随分と異なっている。
今日、楊炎を招待したのは楊家の分家のとある屋敷だった。しかも、これで三度目だ。家長自らが楊炎と顔を会わせることを望んだ為、間違いなく、彼もまた楊炎の過去を知っているのだろう。
稜花のことをやたら聞いてくるとは感じていた。
彼女が、王に対してどう思っているのか。稜明はどのような立ち位置をとるつもりか。
随分と早く危ない橋を渡るものだと、楊炎は戸惑いを隠せなかった。
国王への叛意ともとられない提案を、いとも簡単に出してきた。昭国へ向かう最中、楊陶の一派も同じ事を提案して来たことを思い出す。彼らは楊炎が乗ると信じて疑わないらしい。
まさか楊基を追い落とす、など。
直接は言葉にしなかったが、楊炎を後に据えるつもりだ、と言葉にしたかったのだろう。あまりに馬鹿馬鹿しくて笑えるが、彼らは本気らしい。正しくは、地盤のない楊炎を傀儡にして、自らが実権を握りたいのだろうが。
本気で楊炎が乗ると思っている。あまりに心外で、反吐が出る。そんな人間だと思われるのは非常に不本意だが――彼らは、楊炎の過去を知るからこそ、楊基を憎んでいると勘違いしているのだろう。それに――
――姫のことも。
稜花と二人で旅して来たことが、あらぬ誤解を招いている。……いや、実際には誤解でも何でもない訳だが。
楊炎と稜花が懇意であることから、稜花をも反楊基勢力に巻き込もうとしているらしい。確かに彼女を取り込めたら、王の側に大きな目と耳を持つことになる。たとえ王が替わったとて、彼女を手に入れさえすれば、稜明も。
ため息を吐いた。彼女をも餌にするとは、どれだけ下衆なのだと。
そもそも、実際の彼女は、その様な提案に乗る女性ではない。何処までも真っ直ぐで、心は楊基のもとにあらずとも、昭国と稜明、両国の為に尽力するだろう。彼女はそういう女性だ。
そして、国の足並みを乱そうとする者をけして許しはしないだろう。
じわり、と心が熱くなる。酒のせいではない。その原因を、楊炎はよく知っている。
「……」
無意識にため息が漏れていた。
だから、酒は嫌だ。ただでさえ、隠せなくなった感情が押し寄せてきて、処理しきれない。
今頃彼女は、楊基の腕の中なのだろうか。いくら陸由と揃って止めたとはいえ、楊基が体裁を気にする男だとも思ってはいない。
後悔で、胸が痛む。稜花を護るためとは言え、彼女の側を離れるのは愚策だったか。――いや、遠からず、彼女は楊基のものになる。それは理解しているのに。
――本当に、酒は厄介だ。いや……、
――厄介なのは、俺の心か。
楊炎と引き離すことで、楊基が稜花を取り込もうとしたことは明白だ。分かっていながら、彼女の元を離れた。納得していたはずなのに、どうしてこんなにも胸が苛まれるのか。
稜花と離れて半月以上。先日までは、手を伸ばせば届く位置にいた彼女が、もう側にいない。姿を見ることが叶わないだけで、この状態だ。
同時に、楊基の側に立つ彼女を見守り続けるのと、どちらが耐えられ得るか考えて、息を吐き出した。
――本当に、耐えられるのだろうか、俺は。
秋の、冷たい夜空に、彼のため息が消えてゆく。酒のせいか、今日はいつもより余計なことまで考えてしまう。早いところ眠りにつこう、そう考え、楊炎は兵舎に足を運ぶ。
「随分と遅かったな」
しかし、そう簡単にこの夜を明けさせてはくれないらしい。ここ最近、毎日の様に顔を合わせている男が、今日もまた、楊炎を呼び止める。
くい、と顎をふるだけで、その意を汲みとった。ついてこいと言うのだろう。
兵舎の一般練を抜け、向かったのは彼――陸由の私室だった。足早に入り、戸を閉める。そこにはすでに先客がいて、落ち着いた微笑みをこちらに向けていた。
「おやおや、楊炎さん。遅かったですね。お話が弾んだ様で何よりです」
「……無駄に酒を勧められただけだ」
「ふふ、とても付き合い良さそうには見えないのに……。相手も引っ張りましたね」
くつくつと笑いながらも、毒づく。高濫は陸由の私室にて、まるで我がもののように長椅子に寝そべり、寛いでいた。待ち惚けをくった当てつけのようだ。勝手に待っていただけだろうに、と楊炎は思う。
彼とは離れた椅子に腰を下ろし、楊炎は腕を組んだ。まだ体がだるい。額に手を当てひと息つくと、側に陸由がやってきた。水差しと杯を自ら準備したらしい。
溢れんばかりの水を注ぎ、楊炎に差し出した。
「言っておくが、毒など入ってないぞ」
「――承知している。兄上なら、もっと効果的に殺すだろう?」
それだけ告げ、楊炎はその杯の中身を一気に飲み干した。熱くなった喉の奥を一気に下りていくのがわかる。単純だが、それだけで幾ばくか体が楽になった気がした。
「おや、楊炎さん。殿に殺されるとでも思っているのですか?」
「当然だ。その気になれば容赦なく殺すだろう。反楊基派の連中とともにな」
「へえ」
「俺を殺す理由なんてもうあるのだろう? 今それをしないのは、俺に利用価値があるからだ」
王の花嫁を穢したとでも何とでも言えばいい。彼は王だ。楊炎を捕らえるなり殺すなりする理由など、幾らでも生み出せよう。
だが、彼は、楊炎に言ったのだ。
反楊基派の勢力を確認せよ、と。その末端まで余すことなく確認するための餌にしたかったらしい。
楊炎が寝返る危険性も踏まえた上で、彼はそう述べていた。
寝返りたければ、寝返ればいい。その連中の顔を見た上でな、と。
すぐに彼の言葉の意味がわかった。反楊基派をまとめたところで、まともに国を運営できるはずがない。
楊家の血の限界。身内がいかに厄介なのかを理解するに終わった。
この国の上層部は優秀な者が多い。その足を引っ張っているのが楊家。これを機に、彼は血の整理をするつもりなのだろうが。
――稜明とは、本当に何もかもが異なっている。
李家を中心に、希望が広がるかのように纏まりを持った稜明。まるで領地がひとつの家族のように温かい。
稜花にとっては最も大切とも言える血の繋がりが、楊基は邪魔だと言っているのだ。実に彼らしい判断である。
「で、どうでした? 今日のお話は」
「ふん、くだらない。奴ら俺を傀儡にする気だ」
「うわあ、大胆だなあ。やですね、自分で軍を動かしたりもしない、小さな街を囲って満足してる連中は」
「――平和呆けが過ぎるな」
あまりの内容に陸由、高濫ともに呆れとも嘆きともとれる声をあげる。陸由はともかく、高濫は実力で今の地位にのし上がってきた男だ。血で国が統治できるのがまやかしである事を承知しているからこそ、馬鹿にするように笑っている。
「近々、彼らの繋がりの者を紹介してもらう事になった。――嫌な役回りだ。俺には向いてないのは明らかなのに、滑稽なことだ」
楊炎が人付き合いが得意でないのは見れば誰もがわかることだ。愛想笑いすら出来ないため、周囲も気を使って酒で誤魔化そうとする。
こんな男をもてなさないといけない相手にもつい同情してしまうが、最近は向こうも楊炎の趣向がわかってきたのだろう。落ち着いた席を用意してくれるようになっていた。
「少なくとも奴らは、俺の認知、を目指すらしい」
「認知、ですか――」
対外的に楊炎の立場は、稜明の姫君の護衛に変わりない。だからこそ、いち兵舎に身を置くことになったし、今日の相手も極秘に楊炎を呼び出した。
まだ、知っている者はほんの一握りなのだ。楊炎が、楊家の直系にあたることなど。
その状態で、奴らを泳がせた。認知されない王の弟。理不尽に過ぎるその立場を利用して。
「火種は出来た。これで満足なのだろう? 姫が戻ってきたら奴らはまた動き始めるぞ」
「ああ、そうだな。――間も無くだ。連絡があった」
楊炎の言葉に、陸由も頷く。高濫が顔を上げたことから、本当に入ってきたばかりの情報なのだと理解する。
龐岸がすでに戦の渦中にあることは、先日、連絡があった。その後、帰還の知らせがこうも早いということは、戦は大きなものにはならなかったのだろうか。
気が軽くなり、楊炎は胸をなで下ろす。
「龐岸の城は無事に、稜花姫率いる稜明軍が制圧。稜明は数多くの文官、将兵を失ったらしいが、李公季は無事救出だそうだ」
報告の内容に改めてほっとする。稜花も、李公季も無事だった。戦になったと聞いた時は生きた心地がしなかったが――。
――良かった。
楊炎にとって大切な者たち。二人とも無事。それで十分ではないか。
稜花が稜明軍をまとめたなど、不穏な単語も混じっていたが、それは後から彼女に問い詰めればすむ話だ。無事に、自分の元へ帰ってきてくれるだけで、こんなにも胸が踊る。
「李公季――無事だったんですか?」
しかし、長椅子に寝そべっていた高濫は様子が違う。まるで耳を疑うように、起き上がっては目を細めている。
実に面白くないと顔に書いてあるようで、成る程あの楊基の臣下だと理解する。
「ああ、無事だそうだ。仲間の手引きで龐岸から逃亡していたらしい」
「……へぇ。なるほど、流石稜花姫の兄上だ」
「高濫」
まるで殺された方が良かったような言い方だ。空気をピリとさせて高濫を睨みつけるが、陸由が咎める方が早かった。陸由の威圧的な態度に、高濫も肩をすくめるしかない。
「続けるぞ。逃げていたところを発見。杜兵による攻撃があったそうだが、それを稜花姫が阻止。ただし、その時の負傷により、稜花姫は毒を受けたらしい――」
「……っ!?」
今度は楊炎がガタリと立ち上がることになった。
毒。その単語に全身が凍りつくような心地になる。
毒による攻撃――李公季を追っていたのは、一般兵卒では無かったのだろうか。少なくとも矢に塗る毒となると、即効性の強いもの――容赦なく相手を死に至らしめるようなものを使用する。
楊炎自身も毒には無知ではない。いくつか可能性のある毒を思い浮かべては、顔面蒼白になる。
「……っ、姫はっ!?」
「楊炎。顔に出過ぎだ」
声を荒げる楊炎に、陸由が呆れるように眉を寄せた。高濫もまるで珍しいものを見たと言わんばかりに目を丸めている。
「安心しろ。無事らしい。秋の間に戻って来たいと仰る程度にはな」
陸由の言葉に、楊炎は胸をなでおろす。と同時に、楊基に対する怒りが噴出してきた。
――一体、何をしているのだ、あの男は。
稜花を連れて行くにしても、必ずその身を護ると言っていた。自信ありげな様子だったのに、その程度かと罵りたい。
しかし同時に、稜花の無鉄砲さが現れたのだろうとも思う。
それでも。――そうだとしても、彼女の身に何かあったかと思うと、こんな所でのうのうとしている自分が嫌になる。
「つまり、李公季は無事。龐岸も稜明が立て直し。稜花姫が負傷した、という事ですか」
ふぅん、と高濫は顎に手を当てるようにして考え始めた。
「稜明も杜もかなりの将官と文官は失ったようだな。しばらくは稜明と杜は揉めそうだ」
「そんな中、殿と稜花姫は戻ってくるのですか? あれだけの軍勢、協力する為に置いてくる事も出来たでしょう?」
「……李公季が是としなかった様だな」
陸由の言葉に、高濫は眉を寄せた。
「稜明は馬鹿ですか」
「易々と他国に頼るわけにいかないのだろう。李公季が慎重だっただけだ」
「……」
今までの話の流れからすると、龐岸が防衛拠点として機能するかどうか怪しい状態なのだろう。確かに昭国の兵を借り出せれば、話は早そうだが、李公季はそれをしなかった。
稜花がいる昭国でありながら、信用に値しないと考えたのか。
長い間、仕え続けてきた李公季のこと。彼の思考回路はよくわかる。
同時に、そういうことか、と楊炎は理解した。
「李公季はどう動くかな。自領で相手の使者を失っているわけだから。知らぬ存ぜぬとするか、原因を提示し、謝罪するか、むしろ強硬手段に出るか――」
「謝罪? それはないでしょう」
「……どうかな」
討論する二人を楊炎は見つめる。二人とも楊基の忠臣だが、考え方にはかなり隔たりがあるらしい。
「ともあれ、稜明の動きに手を出さないとは。本当に、殿はお変わりになった」
「……確実に丸くなってますね。判断を誤らなければ良いですが」
「高濫」
「らしくないではないですか。まあ、それを支えるのが我々の役目ですけど」
ふんと吐き捨てる様に高濫は言った。
楊基の変化。側にいなかった楊炎には正確には分かりようもないが、彼が言うならそうなのだろうか。
幼い頃に見た、苛烈な男。普段は自信と笑みに隠れてしまっているが、彼の歪んだ精神は厄介だ。
「……俺は、悪くないと思っているよ」
一方、陸由は表情を緩めて、そう呟いた。
「あの方は、生き急ぎすぎだ」
幼い頃から寄り添い続けた陸由。彼が楊基を見る目は、楊炎が李公季を見守る目に近いのかもしれない。
稜花姫で良かったのだろう。そう続ける彼の言葉が、妙に心に残った。




