来し方行く末
そうしてその日は丸々寝て過ごした。目が覚めたとはいえ、やはり体は本調子ではないらしい。
喉の渇きを何度も感じながら、浅い眠りに落ちていく。しかし、もう、あの悪い夢にうなされることはなかった。
次の日になって、ようやく体が動かせるようになっても、満足に筋肉が動かないことに愕然とする。
正直、汰尾の戦の後から、体が十分に動かせていない。一時期の自分と比べると途方もないほどの鈍りように、不安が押し寄せる。またまともに剣が振れるか心配になるが、ぼちぼち調練して慣らしていくしかない。
李公季にはまだ会えていない。
城の様子は落ち着いているとは聞いているから、無事、彼の指揮下で持ち直したのだろう。今は昭国兵も多いし、杜への対応にも追われているはず。きっと余裕が無いだろうから、仕方が無い。
しかし、と稜花は思う。
この城で何が起こったのか。未だに胸の中に燻りが残っている。稜花本人も輿入れを阻害され、李公季は確実に命を狙われた。
誰の手によるものか分からないまま、放置しておいていいはずがない。
「本当なら、其方が回復するまで寝かしてやりたいが、秋のうちに戻らねばならぬからな。大丈夫か?」
「うん。でも、楊基。今回の事件のこと……」
「わかっている。其方の船を襲った者のことも含めて、調べさせている」
そう告げ、楊基は問答無用で稜花を抱き上げた。
「ちょっと……楊基、大丈夫だからっ」
「いいから、じっとしていろ」
少し気恥ずかしい。
しかし彼は淀み無い足取りで、真っ直ぐと部屋を出て、北門へと向かう。周囲はがっちりと護衛に固められ、戦のときよりも物々しい様子に、やはり楊基の過保護さに苦笑した。
北門を出た先に、馬を用意してあるらしい。
そこに至るまでも、見張りの稜明兵がそこここに建ち並び、稜花を見つめては胸の前に腕を掲げる。彼らなりに、見送りのつもりなのだろう。
自分達に時間が無いのはわかっている。
龐岸を立ち去るのは仕方の無いことだが、稜明兵の顔を見ると、やはり寂しさが押し寄せてくる。
「兄上、忙しいのかな……」
「?」
「一目でいいから、会えたら良かったんだけど」
出来ることなら、言葉を交わしたかった。彼の無事を喜びたかったし、心配をかけたことも謝りたかった。今回のことも話を聞きたいけれど――なかなか難しいらしい。
今、稜花の立場から言っても、会うのが難しいのは理解できる。それに、現在の彼の状況が容易に想像つくため、我儘は言えない。
城がたしかに機能していることこそ、彼が無事な証拠だ。倒れる前、一目だけでも会えて良かった、と稜花は心から思った。
そうだな、と、楊基はどこか遠くを見ていた。そして、稜花を抱く腕に益々力を込める。
北門を潜り抜け、稜花もこれから向かう先――まずは北の空を見上げた。
「稜花!」
そのとき。稜花達の後方から声が聞こえてきた。ずっと聞きたくて堪らなかった優しい響きに、稜花の体は反応した。それは楊基も同じ様で、ぴくりと立ち止まる。
「兄上?」
当然、声の主くらい稜花にはわかる。李公季――彼の顔が脳裏に浮かび、歓喜が押し寄せる。
早く彼の顔が見たくて、振り返りたくて。でも、がっちりと楊基に抱えられた状態では儘ならぬ。
「楊基、兄上が――」
「……ああ、そうだな」
ねだる様に、彼の袖をくいと掴む。しかし、彼は稜花の気持ちをなかなか汲み取ってはくれない。
訴えるように彼の顔を見上げた時、戸惑うような表情をしていて、稜花は首を傾げた。
「……楊基?」
彼は難しい顔のまま、遠くを見つめていた。稜花の声かけに、返事をするものの、まるで心ここに在らずの様子だった。
再度袖を引っ張ってようやく、彼の瞳に生気が宿り、稜花と目を合わせてくれる。
「楊基、兄上が――」
「……わかっている」
彼は少しだけ笑って見せて、稜花を抱えたまま後ろを振り返る。護衛たちが道を切り開き、稜花の位置からも北門が見えた。
そこに立っていた顔を見て、稜花は安堵した。
助かったとは聞き及んでいたが、顔色の良い李公季の顔が目の前にあって改めて、その無事が実感できる。
手を伸ばすと、今度は楊基も稜花の想いを汲み取ってくれたらしい。護衛の間を抜けるように、北門へと戻ってくれる。
逢いたかった兄の姿に、稜花も頬を緩める。聞きたいことは山ほどあるが、まずは彼が無事であることを喜びたい。
しかし稜花の気持ちとは違って、目の前の李公季は難しい顔をしていた。そして、稜花を抱く楊基も。
李公季と目があった時、彼が見せる決意の滲んだ瞳に、稜花は息を呑む。
ああ、そうだと稜花は思った。
かつて、楊基と対峙した時、稜花もこうやって顔を強ばらせていた。
だからこそ、李公季の気持ちがわかった。何かを楊基に訴えようとしている。しかし、何を、と稜花は瞬いた。
「楊基殿――」
「長居、失礼した。稜花姫の具合も快方に向かっているため、暇を乞おう」
「稜花は無事だったか……一目だけでも会えたらと思っていたが。兄と会うのも許せぬほど、我が妹に執着するか」
李公季の言葉に稜花ははっとした。
一体どういうことだろう。李公季も稜花に会おうとしてくれていたらしい。
詳しく聞きたくて、楊基の顔を仰ぎ見る。しかし彼は、いつもの表情で首を横に振るだけだった。
「それは何度も申し上げましたでしょう。稜花姫の意識が安定せず、他者に会わせられるような状態ではなかったと」
「それほどの症状だったにも関わらず、目が覚めたらすぐ帰国させるか」
「この秋中には、我々は祝言を挙げなければならぬ。稜花姫もそれは理解している」
「その話だが――稜花を一度稜明に戻してはもらえないだろうか」
迷いなく告げる李公季の表情に揺らぎはない。
しかし彼の提案は、稜花にとっては驚くべきものだった。
「稜花は命を狙われただけではなく、護衛や女官、積荷も全て失ったと聞いた。そのような状態で、大事な妹を一人昭国に向かわせるわけにはいかない。何も持たぬ娘と侮られるだろうし、楊基殿も見くびられかねないだろう?」
「……李公季殿は私の心配までして下さるか。流石稜花姫の兄上でいらっしゃる。ですが――」
楊基の笑みが濃くなる。わざと自信に満ちた様子で、彼はその本心を塗り固めた。
「心配には及びますまい。私は姫のことを大切にするとお約束する。必要なものは全て、こちらで取り揃えさせて頂こう」
「花嫁が自身で用意することこそに意味を見いだす者もいるだろう」
「彼女が船を失ったのは我が国の不手際だ。損害を補償するのは当然のこと」
「……」
純粋に李公季を心配し、声をかけたかったのに、最早それどころではなくなっている。
目の前で、実の兄と未来の夫が口論を始めてしまう。しかも、稜花の今後の身の振り方のことで。
確かに李公季の言っていることも、楊基の言っていることも一理ある。どうにも口を挟めず、稜花は困惑した。
「今回の件を受けて、益々、我々の婚姻は急いだ方が良いでしょう? 杜は明らかに、我々と稜明が結びつくのを恐れている」
「……杜、か」
呟き、李公季は息を吐き出した。
明らかに警戒心を剥き出しにしている様子に、稜花の心もざわざわとし始める。
楊基も、表情こそ余裕があるが、稜花を抱きしめる腕に、確かに力がこもっているのを感じた。
この二人には何か、見えているのだろうか。
稜花の預かり知らぬところで、何を牽制しあっているのだろうか。
「あの……兄上? 楊基……?」
不安になって声をかけると、李公季は真剣な面持ちで一度うなづく。一方、楊基は軽く稜花の頭を撫でていた。
「……本当に、杜の者の仕業なのだろうか」
李公季はぼそりと漏らした。随分と悩んだのだろう。絞り出すような声で、余程言いにくかったであろうことが伺える。
しかしその李公季の疑問は、今まで稜花が抱き続けてきたものそのものだった。別の場所にいながら、彼もまた、稜花と同じ考えに至ったらしい。
「我々も未だ調査中だが――杜でないとすると、いずれの仕業だと? 李公季殿。この城にいらっしゃったのは貴方だ。貴方がその目で見てきたのだから、一番詳しかろう」
「……」
楊基の返答に、李公季は益々表情を険しくした。まるで楊基を責めるかの様子に、稜花は戸惑う。
しかしやがては李公季も、作り笑いを浮かべた。当然、瞳は全く笑っていない。
ざわり。ざわり。胸が騒ぐ。
李公季は、何を伝えようとしているのだろう。
二人の攻防に、当の本人がついていけなくてどうする。李公季が、稜花の事を心配しているのは理解できた。だが、今、彼が焦点にしているのは別のことだ。
事を起こした首謀者についてと――楊基への、牽制。しかし何故、今、彼を?
少なくとも、昭殷で再会してから――本当に不本意なことながら――楊基は稜花に良くしてくれた。相変わらず摑みどころはないし、すぐに稜花をからかったりもするが。それでも、李公季を救出するために全力で動いてくれたし、相当の数の軍も出してくれた。
稜花に将としてのあり方を見せてくれたし、毒で倒れた時には、側に居てくれた。
稜花自身が彼との接し方を改めなければならないと感じる程――以前、稜花に命懸けの策を命じた男とは思えない程に――彼は、稜花と真面目に向き合ってくれた。そして、今まで邪険にしていて認められなかったが、彼は確かに、悔しい程優秀な男だった。
ようやく見えてきた、彼の姿があった。
しかし同時に、稜花は以前の彼も知っている。
全てを見通し、稜花をまるで意のままに操った――。
『あまり、あの男に心を砕かれなさるな』
「……」
黒の影が、稜花の肩に触れる心地がする。朦朧とした意識の中、あのような夢を見たからだろうか。
遥か遠く。稜花が心を寄せる、黒の影。
彼と楊基。二人には面識があったのではと、稜花は悟っている。
楊炎が警戒してやまない男。それは、今、稜花を抱いている――
――ざわり。ざわり。
心がさらに揺らぐ。
稜花を抱える彼が浮かべるのは、以前と変わらぬ王者の笑み。李公季が何と言おうと、彼は稜花を離すつもりは無いらしい。それは何故だろうか。この婚姻が延期されて、彼が困る事というのは。
一方で、李公季も表情を険しくする。
楊炎と同じだ。兄は、明らかに楊基を警戒している。
「……安易に不確かなことを申し上げられるはずがないでしょう。だからこそ、我々も慎重になりたい。不安定な環境に、可愛い妹を一人向かわせるわけにはいかぬのです」
「それこそ、相手の思う壺だとは思われないのか。事はもう動いている。ここで稜花姫が故郷へ戻られたとすれば、どう思われるかわからぬ李公季殿では無かろう」
「延期をする余裕もないと仰るか?」
「いや、必要ないと申し上げたまで」
二人の意見は平行線のままだ。
こうまでお互いの主張を曲げる気がないのが非常に気になる。話をつけなければいけないが、稜花はどちらの味方をすれば良いだろうか。
楊基とともに昭殷へ向かい、彼の妻になるか。もしくはこのまま、稜明に一旦戻るか。
そこまで考えたところで、稜花の思考ははたと止まる。
――駄目だ。少なくとも、今すぐ稜明に帰るわけにはいかない。昭殷には、楊炎が……。
じわりと、汗が滲む。
冷静に判断すると、楊炎なら一人でも稜明に戻って来ることくらい出来るだろう。
しかし、どうしても気になるのだ。……楊基が、そう簡単に彼を手放すかどうか。
それに、稜花の勝手な想像だが、楊基は今回の事件について何か見えているのではないだろうか。
聡い彼が、何かをはぐらかす素振りをしたのは一度や二度ではない。
彼の話の流れに巻き込まれて、上手に引き出すことが出来なかったが――全てを見通していた彼が、稜花に何か隠してはいなかったか。
――見定めなければいけない。楊基の考えを。
そうでなければまた、自分だけでなく、兄も、稜明自身も、何かに巻き込まれる気がしてならない。
皆が与り知らぬところで、取り返しのつかない戦などに巻き込まれでもしたら――。
「――兄上、私」
稜花は、じいと李公季を見つめた。
瞬間、楊基の腕にも力がこもった。楊基は、稜花を離すまいという気持ちを隠すつもりは無いらしい。
「私、このまま昭国へ向かうわ」
そして、稜花の導き出した答えは、李公季にとっても、楊基にとっても意外なものだったらしい。
ビクリと、稜花を支える腕が震える。ふと上を向くと、楊基は僅かに目を瞠っていた。しかしすぐに表情を笑みに変える。良くやったと言わんばかりに稜花の頭を撫で、彼も続いた。
「稜花姫も、ご覚悟を決めていらっしゃいます故。李公季殿、どうか昭国への帰還を認めて下さいませんか」
「……」
李公季は真っ直ぐ稜花を見つめた。楊基を睨みつけていた、意志の強い瞳。それを稜花にも向け、目を細めた。
「言っても聞かぬか。このお転婆は」
そして、李公季は前に出た。
ゆっくりと稜花たちの近くへと足を進める。じいと稜花を見下ろしては、悲しそうに目を伏せた。
「兄上……?」
彼が何を伝えたいのか、見えてこないのはもどかしい。しかし李公季は、確かに稜花を心配していた。
彼は両手を差し出し、片手は稜花の頬、そしてもう片手で稜花を抱きしめるかのように背中をさする。
楊基と李公季に挟まれる形になって戸惑ったものの、それは一瞬だった。
稜花の背中を流れるように添う、彼の手にある違和感。
ほんの僅か、異物感が伝っていく。やがてその異物は稜花の腰、帯の中へとするりと入っていった。
驚いて、稜花の瞳が僅かに開く。その反応を見逃すまいとする李公季の表情は、冷静だった。
「稜花、どうか、無事で――」
稜花の上半身をぎゅっと抱きしめ、稜花が瞬いている間に、彼は離れてしまう。
一旦決まったことにとやかく言う李公季ではなかった。彼は李家の長兄らしく、凛とした態度で、楊基に向き直る。
「楊基殿、失礼した。――此度のご協力、誠に感謝する。後日、改めて感謝の品を、楊基殿と我が妹の為に贈らせて頂こう」
「……分かって頂けたようで何より。礼なら、稜花姫に。我々は、彼女に引っ張り出されただけのこと」
「稜花か――其方にはいつも、世話をかけるな」
李公季は寂しそうに笑った。其方を心配するのは、兄の役割ではなくなったか、と呟いていた。
一言二言言葉を交わし、楊基は彼に背を向ける。そして真っ直ぐに自らの軍の元へと歩き始めた。
段々と離れていく兄。たまらなくなって、稜花は声をかけた。
「兄上! 私は昭国に行っても、兄上の妹でいていいわよね!」
その言葉に、李公季は目を見開く。
遠くなっても、彼の表情は分かる。李公季が見せた兄の顔は、厳しく、決意に満ちたものだった。
「……ああ、其方は私の妹だ。稜花に困難がある時は、必ず我ら稜明が力になることを約束しよう――楊基殿」
稜花に答えたはずなのに、彼は最後は楊基に視線を移動していた。
その並々ならぬ様子に、稜花は息を呑む。
背中の帯の裏。
そこがちりちり熱を持った心地がして、ずっと落ち着かなかった。




