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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第三章
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黒の影と白の霧

 凍える体はピクリとも動かず、霞んだ瞳が、敵をとらえる。

 目の前の彼は動かない。その大きな体躯に、剣を一本生やしたまま、目の前でこと切れていた。


 ぱたぱたと、頬を濡らすは、冷たい――冷たい――冷たい……





 この恐怖を稜花は知っている。

 自ら進んで向かって行ったのに、いざ目の前にすると、その圧倒的な力に呼吸するのを忘れる。

 ぱたぱたと頬を濡らす雨。火照った稜花の体を冷まそうと、肌を打つが、熱が途切れることはない。


 どくどくと、血が沸騰する。戦に身を置く稜花は、戦場を一気に駆け抜ける。

 後ろに迫る大きな体。焦りで振り返ればその手が伸びてくる。そして稜花の首を掴んでは、宙へとその体を振り上げた。

 引き剥がそうと思っても、引き剥がせない。だんだんと呼吸することが難しくなり、コホコホ、と稜花は咳き込んだ。

 足をばたつかせ、抵抗する。しかし、稜花程度の力ではどうしようもなくて、ただただ死への恐怖を自覚する。


「お……う……」


 声は掠れるだけだった。

 熱くて。冷たくて。


 交錯する彼との遭逢の記憶。何度も何度も、命を剥き出しにして向かい合った。混じり合った数々の戦闘の記憶に、当時の体温が蘇る。

 太刀打ちできず、助力を得てようやく一矢報いた包囲網。

 黒の影が一騎残った防衛戦。

 そして――山の斜面を登り、ただ一心に逃げたあの戦。彼に捕らえられ、身動きできなかった泥の中。体が震え、呼吸がままならない状況での、命の奪い合い。



 相手を掴み、掴まれ、削りあう。瀬戸際とも言える争いに、呼吸は乱れ、心臓は激しく暴れる。刈られる心地を受け入れられず、必死で抵抗していると、後ろから、そっと、稜花を支える手があった。


 体の熱。空気の冷たさ。騎馬で駆けるのと同時に高鳴る心臓。暴れまわる稜花の心を、そっと包み込むのは黒の影。

 稜花の腰に手を回し、後押しする様に側に立つ。



 落ち着きなさい、と彼は告げた。

 その静かな声。波打だった湖面に、ぽたん、と一滴雫が落ち、揺らいだ表面を鎮めていく。

 暗い、暗い闇の中で、確かな道標が稜花を支える。


 行きなさい。

 思う様に進みなさい。そう告げ、稜花の正面に指をさす。


 稜花を塞ぐ大きな体。手に握る、双剣の片方。


 今度は迷いなく――




 ――稜花を塞ぐ大きな力は、しかし、姿を変える。確かに対峙した、あの男とは違う。

 まるで白の霧。そして、揺らぎそのもの。

 霧は稜花の視界を全て奪い、前に進むこともままならなくなる。


 立ち向かうべき相手が見えなくなって、稜花は再び立ち止まる。

 しかし、黒の影は静かに告げる。

 そっと稜花を後押しするように。

 ただ、真っ直ぐに進みなさいと。


 そうすれば――





 ――





 ――





「……」


 ぽたりと。汗がこぼれた。熱くて、冷たかったそれは、稜花の全身をぐっしょりと濡らしているらしい。


「……」


 重たい体。ああ、これ、生身の自分だと、稜花は理解する。

 ぷつぷつと、まだ汗があふれては溢れ落ち、自らが未だかなりの熱を持っていることを自覚した。


 ――彼が、側にいてくれたかと思ったのに。


 黒の影が、いようはずがない。

 現実に戻ってきては、その事実に落胆する。それでも、熱に浮かされた夢の中でだけでも、稜花を支えてくれた。

 ずっと側に居ることが当たり前だったから、こんなときに顔が見えないのがとても――すごく、寂しい。


 自らの手で落とした巨星を思う。未だに、あの時の恐怖が刻み込まれているらしい。

 最後に対峙した汰尾の戦から、随分と長い時が流れたような気がしていた。しかし、実際にはまだ半年も過ぎていないかった。あまりにたくさんのことが稜花の身に降りかかりすぎて、ずっと、昔のことにすら思えていたのに。


 息が、苦しい。

 未だに首を絞められているような感覚が残っている。

 まだ熱があるからか、当時の呼吸が蘇ってきて、呼吸が浅くなる。背筋がゾクゾクと震えるようで、心細い。

 目は覚めたものの、稜花の体はとてもではないが正常とは言えない。それを自覚した後、自分を取り巻く環境がようやく頭に入ってきた。



 ――また、やってしまったのね……。


 汰尾の時と同じだ。

 戦地で最後まで立っていられず、どうやら誰かに助けられたらしい。もちろん、誰が助けてくれたかなど、稜花にはもうわかっているが。

 情けない、と独りごちる。無我夢中で、前に飛び出した結果がこれ。


 しかし今回ばかりは自分を褒めてあげたい。あの時、飛び出さなかったら今頃は――。


 己が守りきったものを思い浮かべ、安堵する。きっと、近いうちにその顔が見られるだろう。

 ほう、と息を吐き出すと、口の中がすごい味になっていることがわかる。よほど色々なものを飲まされたのだろう。



 頭を動かすことすら億劫になりながらも、ちら、と視線を動かした。

 先程から、稜花の右手が温かい。しっかりと彼女の手を握り込んでいる存在。それが、彼女の隣で寝息を立てている。

 稜花が横たわる寝台に、頭と上半身だけを寄りかからせ、うつ伏せになったまま動かない。その落ち着いた鋼色の髪は、まるで稜花を支える黒の影を思わせて、心にちくりと痛みを伴う。



 ――心配、してくれたんだ。


 目の前の昭国王、楊基は。

 ずっと稜花の手を握り、側にいてくれた。

 稜花の事など単なる取引道具。もしくは、手頃な玩具と考えていたであろう彼が。まさかこんなにも親身な一面を持ち合わせていたなんて。


 ちらりと覗くその顔は、普段の余裕ある笑みとは違うものだった。無防備で、少し幼くも見えてしまい、不思議な心地がする。

 少し、握られた手に力を込めてみた。すると、無意識の中でも彼はぎゅっと、その手を握り返してくる。



 ――私は、なれるだろうか。


 ――この人のことを、好きに……。



 そこまで考えて、稜花は目を閉じる。

 脳裏に思い描くのは、一人の男。

 その髪の色、鋼。傷まみれの肌に、左眼の眼帯。鈍色の鎧に血色のマントが翻る。


 稜花は笑う。口の端を僅かにあげ、じわりと心に温もりが広がるけれど――


 ――私には……。


 そこまで考えて、やめた。

 あまりにも、楊基に失礼だし、彼もそこまでは求めていないだろう。結論を出すのもまだ早くて、自覚している稜花の望みも、本来ならば許されないことだと知っている。



「ありがとう」


 素直に、気持ちを伝えた。これが、今の稜花の精一杯だ。

 見透かされ、まるで操られるかのようで。どうしても身構えてしまう存在だったけれど、ようやく、彼と向き合える心地がしてくる。


 以前の彼なら、きっと稜花が倒れても、医官に預けて終わりだったろう。彼は王だ。こんな所で、油を売っていて良いはずがない。

 なのに、彼も少し変わったらしい。きちんと、稜花という人間を受け入れてくれている。他者とは確実に線を引き、己の心内など吐き出さない彼が、稜花のことは身の内に入れてくれようとしている。


 妻、と彼は称するが、その言葉が単なる記号ではなくなっている。いや、でもまさか、と否定した所で、がさりと音がした。



 ぼんやりとした視線を、音がした先に向ける。握られた手に一度力が込められ、それからゆるゆると解放される。

 ん、と細い声が聞こえたかと思うと、視線の定まらない朱の瞳が見えた。


「おはよ、楊基」

「……ああ……」


 朝にぼんやりしてるのは、まるであの人みたいだ。同じ鋼の髪が何やら愛しく、そして悲しくもある。


「……」


 目があってしばし。楊基はぼんやりと稜花の赤い瞳を見つめたまま、目が覚めたのか、と呟いた。

 ええ、と目を細めると、そうか、と言葉が返ってくる。そして彼は、自らの片腕にその顔を押し付け、そうか、と。再度、安堵するように声を吐き出した。


 ほう、と、息を吐き出す音が聞こえる。そして彼はおもむろに立ち上がり、稜花に背を向けた。

 ここは龐岸の一室なのだろうか。楊基は外に控えているであろう従者に、一言二言声をかけると、再び稜花の元へ戻ってくる。




 寝台の近くに置いてあった椅子を寄せ、稜花の枕元にどっしりと腰を下ろした。先ほどまでぼんやりしていた彼とは違う。ごく真剣な瞳で稜花を見下ろし、彼女の頬を撫でる。

 彼に触れられることもすっかり慣れてしまったが、改まった真剣な眼差しはなんだかくすぐったい。みっともない姿を見せているのもあり、稜花は布団でその顔を隠そうとした。

 ぐいと腕を動かすと、体が軋む。ああ、かなりの負担がかかっていたのだなと、改めて理解する。それを悟られることも今更ながら嫌になり、彼に背を向けようとした。


「馬鹿者、無理に動くな」

「……だって」

「大人しくしていろ。これ以上、心配させるな」


 しかしその行為すら咎められてしまい、どうしようもなくなる。どれだけ過保護なんだとため息が溢れるが、彼は意見を変えるつもりはないらしい。



「だから、あれ程、私が――」

「うん、ごめん。……兄上は?」

「……其方は本当に」


 彼がどれほど心配しようとも、稜花は反省していない。もう一度同じ状況になったとしても、やはり飛び出してしまうだろう。

 変わらぬ稜花の返答と早すぎる切り替えに、楊基は頬を引きつらせる。だが、やがて諦めるように頭を振った。


「――無事に決まっているだろう。稜花に身を張らせておきながら、護りきれぬほど無能ではないぞ、私は」

「あなたが有能な事は知ってるわよ。……ありがとう」

「どうだか」


 楊基は苦々しそうに、言葉を吐き出した。

 いつも自信に満ちた彼が珍しく弱気な態度を見せる。熱でもあるのではないかと瞬いていると、彼は視線を柔らかく緩めた。

 そして再び稜花の頬に手を当てる。まだ熱いな、と呟いていた頃、外から声が聞こえる。どうやら医官が到着したらしく、入室を求めていた。



「……行っていいのよ、楊基」


 入ってきた医官が、早速稜花の元へとやってくる。額や喉に手を当てているのを、じっと見下ろす楊基に向かって、稜花はそう告げた。


「いつまでも、ここに居られるわけじゃないでしょう? 心配してくれるのは嬉しいけれど、貴方は、貴方の役目を果たさないと」


 稜花が倒れてから、かなりの時間を拘束してしまったのではと稜花は理解した。しかしここは龐岸。稜明に対する引き渡しや礼儀もあるだろうし、指揮官がのうのうと時間を潰していていいはずがない。

 私はもう、大丈夫だからと声をかけるが、彼は何やら表情を曇らせたままだった。


「しかしだな」

「ふふ、昨日とは立場が逆ね。ちゃんと落ち着いて、やらなきゃいけないことやってきなさいよ」


 くすくすと笑っていると、ますますもって楊基は難しい顔になる。馬鹿者、と稜花の頭にぐりぐり圧をかけては、踵を返した。


「三日前だ」


 そう言い残し、立ち去っていく。

 ほへ、と目を丸めていると、残された医官が、稜花がずっと朦朧としていたこと、楊基が随分と心配していたことを教えてくれる。

 うなされながら自分の体を蝕むものと戦い続けた記憶はあるものの、そんなにも長い時間が経過しているとは稜花も思わなかった。


 あのお方がなぁ、と、医官がしみじみ呟いている様子から、長い付き合いの者にも決して見せない一面だったことを理解した。

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