龐岸制圧戦(3)
――兄上、と。
遠くで叫ぶ声が聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
全力で駆けなければ。そう思うが、足がなかなか言うことをきかない。
草木生い茂る、人が通る気配のない道無き道。東へと向かう足取りは重たい。
片方の肩を護衛兵に支えられ、どうにか一歩一歩前へと踏み出す。馬も何もない状態で、ここまで逃げ切ることができたのは、もはや奇跡としか言いようがない。
緩やかな上り坂がずっと続いている。その中で、身を隠しつつも少しずつ前に進み、まずは一晩やり過ごした。
自身の姿を露わにする朝日が恨めしくすら感じる。そして人間には限界があるようで、もう意識も虚ろになっている。
李公季を追う杜兵は、そう多くはなかったはずだ。しかし昨日は、夜になってから数が増えた気がした。
誰か指揮する者が現れたのだろうか。夜の闇の中で、ちらりと眼下に見えた松明の色はきっちりと統制がとれているように思えた。
長い上り坂はこの体には負担だ。護衛にずっと背負われるわけにもいかないため、己の足で進む。だからいつまで経っても峠を越えられない。怪我さえしていなければもっと思うように前に進めただろうに。
しかし、今。李公季の耳が確かならば、悠長に構えている暇はなさそうだ。
「李公季様、騎馬の駆け寄る音が……」
護衛の一人が声を漏らす。もちろん、その音を李公季が聞き逃すはずもなかった。数はそう多くないが、確かに騎馬。日が昇ってから、相手も本格的に行動を開始したと言うことか。
――途中に残った者たちは……無事だろうか。
すまない、と心の中で謝る。己に稜明を託し、数多くの兵が途中、立ち止まった。
今、李公季の周囲にいるのは、僅か十名ばかりである。隣には文官である宇文律。それなりに剣技を身につけている李公季本人が傷を負った今、まともに戦える者はそう多くない。発見され、戦闘になったら、まず間違いなく勝ち目はない。
「もう少し森の中に入って、身を隠しましょう」
そう言い、護衛の一人が李公季の腕を引いた。瞬間、脇腹の傷が開き、ぐ、と声が漏れる。
これしきの傷、何ともないと言うことが出来れば格好もつくのだが、痛いものは痛い。否定しようがない。
そもそも痛いのが好きではないので、弟たちのように戦場に出ることは、好まなかったのに。
「公季様……もう少し、奥に」
隣を歩く宇文律もまた、手負いだ。あの混乱しきった屋内戦をどうにか抜け出し、ここまでやって来た。思い出すだけで血の気が引くとはあのこと。李家の出故、己の剣術に救われたが――
――一体、何だったというのだ、あれは。
二領間の話し合いは完全に硬直状態だった。もともとは汰尾の戦いを終えて、お互いの今後の身の振り方について取り決めをするべき場だった。
朝廷の信が厚かった杜は、その立場が危うい。再び元の力を取り戻すため、しばらくは内々の対応に縛られる。昭が独立した影響で、杜は隣接している稜明よりも昭国の方を警戒しているようだった。
稜明を緩衝材にすることで、昭国からの介入を防ぎたかったらしい。
杜は先の戦のおり、昭の追撃にも随分と苦しめられたようだ。そのうえ昭国は、朝廷の直轄地へ根回しし、杜が身動きを取りにくい状態をつくりあげているとか。
結果的に、力をそがれた杜は、稜明ともこれ以上の争いをしたくないようだった。
稜明の南進を止め、自分たちの基盤を再び確かなものにする。そのためにはまず、内政に力を入れたい時期。
稜明としてもそれには同意で、今のところ杜の方面に進出する予定はない。お互いこの龐岸を境目にして踏みとどまる、という意味では、今回の会談は確認作業が主な仕事であるはずだったのに。
すべてのはじまりは、信じがたい報告が来たことだった。杜への早馬があちらの大使に何かを耳打ちしたかと思うと、彼らは驚いた顔をして慌てて退出していった。
何事かと思ったその夜には、稜明側にもすでに、ひとつの噂が出回っていた。
昭国へ嫁いだ李稜花の船が、突然襲われ稜河に沈んだ。同時に、花嫁はその場で殺された、と。
信じられない噂に、李公季も耳を疑った。
先の汰尾での戦も、九死に一生を得た割にけろりとして帰還してきた娘だった。
殺しても死なないような妹だからこそ、心配ながらも昭国へと送り出せたというのに。
しかもその噂、杜の者によって手にかけられたと言う内容。
汰尾にて、彼女の奪った命は杜兵の数は知れず。杜に恨みを買っているのは当然のこと故、一定の信憑性を持っていた。
もちろん、出所不明な噂のため、李公季本人は怪しんだわけだが――気がついたときにはもう遅かった。
会談の機会だというのに、気がつけば杜とは一触即発状態。ピリピリとした責任の押しつけあいと、稜花の死を確信できぬ不安による交渉の停滞。稜明も杜もそれぞれ本国に確認をとり、お互い少しでも時間を稼ごうと硬直状態が続いた。
できれば、このまま停戦することが、双方にとって理想である。
稜明側からは当然、杜を責める声も挙がっていたが、ギリギリのところで李公季が押さえ込んでいた。
稜花の死も確かなものではなかったため――いや、単なる誤報だとお互いが信じたかったため、上層部の意思が働き、なんとか踏みとどまっていたと言えよう。
――それなのに。
昨日のことだった。
会談の真っ最中。杜の早馬が再度到着したとのことで、睨み合いの続く部屋に通した。
その者が部屋へ入ってきた瞬間――飛んできたのは、鏢だった。しかもそれは、部屋の最奥――李公季の元へと真っ直ぐと。
咄嗟にそれを避けることに、半分は成功した。
もう半分――飛んできた鏢が、他にもあったようで――そちらは李公季の部下の一人の胸を刺した。瞬間、部屋に赤が散る。
ごく側にいた李公季も、飛び散った赤に染められ、咄嗟にそちらに反応してしまった。
はっとして、鏢の飛んできた方向を確認したときにはもう、その早馬は部屋の入り口に背を向けていた。
瞬間、一斉に殺し合いが始まった。最初は稜明の者の攻撃だったように思う。
部屋を出て行こうとする犯人に剣を振りかざしたが返り討ちにあう。
それとともに稜明の者は激昂し、杜の責任を問う。杜の者たちも、己の仕業ではないと主張しながらも、武器を手に取り抵抗をし始めた。
その混乱は部屋から外へと伝わり、一気に城全体へと広がった。
杜に貸し与えていたのは南の一画のみ。しかし、彼らは南門をこじ開け、外に控えていた杜兵を一気に引き入れたのだろう。部屋に近い南側から争いの音が響いてくるのを感じた。
一触即発で、戦になりかねないとは理解していた。当然、対策だって練っていた。
しかし、その前に、まずは戦を止めることが優先だ。
李公季は咄嗟に部屋を出ようとしたが、なかなか思うようにいかない。
杜にも、冷静に状況を判断し、同じことを考えていた者がいた。一言二言言葉を交わした後、お互い出口へ向かう。
しかし、簡単には出られようがなかった。先程攻撃を仕掛けてきた輩は、入り口前に待機する気だったらしい。突然天井から降ってきた鏢を弾き飛ばし、相手を確認する。
ーー暗部か!
杜の者でないかもしれない。咄嗟に、李公季は判断した。
奴が襲ったのは、李公季だけでなく、杜の者もだった。両領見境なく手をかけてる様子に違和感を覚える。
腕利きの暗殺者ーーかつて、李公季の側にも控えていた男を思い出す。楊炎のような影の存在は、やはり他領にもいるらしい。
そして李公季は理解した。恐らく、最も葬り去りたいのは李公季本人の命なのではないかと。
「ちっーー!」
李公季とて李家の男児。持久力こそ足りないが、武術の腕は軍部の者にも劣る気はしない。
回廊を走り、先程弾き飛ばした鏢を拾い上げる。そして、また新たに飛んでくる鏢の方向を狙い、まっすぐ投げ返す。
同時に自身は身を翻し、相手の攻撃を避けた。鏢にはまず間違いなく、毒が仕込んであるのだろう。軽く触れることすら許されない。
李公季の攻撃は無事命中した。向こうから的の悲鳴が聞こえる。
よし、と、李公季は気を緩めた。だが、敵はなにも暗部だけではなかったらしい。
「李公季だ! 李公季がいるぞ!」
「逃すな!」
暗部に手一杯で、迫り来る杜兵の攻撃まで捌けない。息つく間もなく、なだれ込んでくる一般兵卒の攻撃を脇腹に受け、李公季はよろめいた。
重たい剣撃。斬るというより、肉を抉られる感覚を覚えて悲鳴を上げる。
「くーーっ!」
咄嗟に身をひねり、相手の首をはねる。彼に続く兵卒をいなし、李公季はその場に膝をついた。
いつもより己の剣が重く感じる。脇腹は致命傷とまではいかないものの、じわりと滲み出した赤が李公季の衣を染めた。
「李公季様! お逃げください!」
先ほどの杜兵の叫びは、稜明の者にも聞こえていたらしい。
彼らは一斉に李公季を取り囲み、退路を確保する。目の前で殺された杜の重鎮の亡骸。それを発見した杜兵が、ますます声を荒げ、混乱は広がってゆく。
「ならぬ! 私はこの混乱を止めねばならぬ!」
「たったお一人様でですか? どうやって!」
先程の部屋からは数多くの断末魔が聞こえる。
逃げ惑い、外へ飛び出した者も、部屋へ押し寄せた兵に襲われる。たった一つの入り口の前を杜兵が押さえ込み、誰彼構わず攻撃を仕掛ける。
ーー何故だ。
ーーあの杜兵は、何故杜の者まで襲う!?
取り囲まれる前に部屋から出たのが功を奏した。
もう、あの場には戻りようがない。隣に立つ宇文律に引っ張る様に支えられ、李公季は足を進めた。
どうにかして戦を止めようとしたが、無駄だった。
稜明はまだしも、杜の交渉相手も連絡手段も指揮も完全に絶たれてしまい、いくら稜明が踏みとどまろうと相手が黙ってはいない。
ぽたぽたと、汗が流れる。致命傷ではないが、放っておけるような傷でもなかったらしい。ずるずると体を引きずるがままならない。
「李公季様、失礼致します!」
護衛の一人が、李公季の長身を担ぎ上げる。李公季の歩みでは逃亡も叶わないと判断したのだろう。しかし、李公季とて黙っていられるわけではない。
「城を巡れ! 稜明兵を集める!」
「いけません、貴方様は逃げなければならない」
気持ちはこの龐岸の城にあるというのに、周囲が許してくれない。李公季の気持ちをよそに、皆、東門へ向かって駆けていく。
誰も束ねる者が居なくなったからこそ、あの城に残らねばならない。幾人かの将が残っているのはもちろん知ってはいるが、彼らを統括するのは誰だ? 乱れた指揮系統を戻すのは?
胸の内がギリギリと音を立てて締め付けられる。今、現場にいるのに、何故残る事が許されないのか。
やめろ、と声を荒げるが、誰も聞き入れてくれる様子はない。
体の自由もきかない今、この混乱した場所で動き回るわけにもいかないのは百も承知。
単純に兵の数だけ正面からぶつかれば、稜明が落ちることはないだろう。しかし、この事件を引き起こした者が、何もせずつぶし合いを見ているはずがない。
――真意を見抜き、手段を講じねばいけないときに。
無念だ、と李公季は思う。ぐっと手を握りしめ、眉間に皺を寄せ、叫んだ。
「稜明へ早馬を! 事実を伝えて助力願え!」
間に合うとは思えない。しかし、この異変だけは伝えなければいけない。
――やられた、か……。
すまない。と心の中で皆に謝る。
自分が居ながら、何もすることが出来なかった。完全に不意をつかれたとはいえ、こんなにも短期間で、城中が乱れることになるとは。
護衛に抱えられ、問答無用で東へと連れて行かれる。混乱に乗じて李公季を襲う杜兵を、周囲の稜明兵が必死で護る。争いを止めよ、という声は届かない。
燻る胸の内をどうしようもなく、遠ざかっていく龐岸の城を見つめた。
――父上、申し訳ありません。
家族の顔を思い出し、謝罪する。己の不甲斐なさが歯がゆく、もどかしい。杜と協定を結ぶ貴重な機会を、何者かの思惑で潰されてしまった。そして自分には、対処しきれなかった。
――稜花、何があった……!
同時に、他国へ嫁いだはずの妹の事を想う。彼女にかけた負担と、おそらく、李公季と同じように誰かの思惑に巻き込まれた事実。
自分の手が及ばぬところで、彼女は誰かに殺されたのだとしたら。今、何も出来ずのうのうと逃げ惑っている自分がひどく情けない。
しかし、許せ、と続けた。
今は逃亡するものの、必ず立て直す。そうしなければ、稜花に顔向けが出来ようはずがない。
東の森へと連れて行かれる道中、脳内に謝罪の言葉のみが繰り返された。
***
「――そうか、見つからなかったか……」
目の前の楊基は、その報告を耳にしたとき、今まで見たこともないほど、長く、息を吐き出した。
肺の中の空気をすべて出し切ってしまうような、ふかい、深い呼吸。
稜花だって、そうだった。亡骸が見つからなかった事への安堵と、それでも消息不明な事実。ぎゅっと拳を握りしめ、東の森に視線を移す。
朝日が昇ると同時に、稜花は己も騎馬に跨がる。昭国軍の本体は、明日中には到着するであろう。それまでには一度、龐岸へ帰ってきておきたい気持ちはあるが――。
――公季兄上が、騎乗していなかったなら……追いつけるかしら。
途中どの道を進んだのかは全く分からない。しかし、負傷しているならば逃げるよりも隠れていると考えた方がよさそうだ。
そうであるならば、稜花の声に反応して出てきてくれる可能性がある。いや、むしろ稜花でなければ、彼は反応してくれない気がする。
李公季を思い、表情が強ばる稜花に対し、いいか、と、楊基は呼びかけた。
「この状況で、其方の存在は大きい」
再び轡を並べ、楊基も、真っ直ぐ目の前に広がる森を見据える。稜花も強く頷いた。
「……稜花。呼びかけるというのは味方だけでなく、敵にも己の場所を報せると言うことだ。安易に飛び出すな。ーー例え其方の兄を見つけてもだ」
まるで初陣に出向く前の親のようだ。あまりの過保護ぶりに、流石に苦笑を禁じえない。
稜花とて、ここ二年でかなりの戦に参加してきた。期間は短くとも、数と経験だけはそれなりに蓄積されている。
「ふふ、なんだか随分信用がないのね」
「ーー今回、肩を並べるまではもう少しあった」
「ん?」
「ここまで激情型だとは思わなかったものでな」
よく生き残ってこれたものだと、彼は独りごちている。
少なくとも汰尾にて、稜花に戦の命運を握らせた者の言葉とは思えない。まさかの評価の下りように、稜花は顔をしかめた。
「あのねえ……」
「本当に、楊炎の苦労が偲ばれる」
「……」
「飛び出す前にひと呼吸しろ。絶対だ。ーーいいか。こんなところで、命を落とすな」
結論的に言うと冷静になれと言いたいのだろうが、話が随分と大げさになっている気がする。
大きな戦でも最前線に身を置いてきた稜花だ。戦況が散り散りになり、統制のとれていない杜兵に遅れをとるはずもない。
しかし、楊基の真剣な表情は、過去に見た彼の顔と重なった。
まるで、汰尾での別れを思い起こさせるような様子に、稜花は眉をひそめる。あの時彼は、輿入れの際の身辺に気をつけろと言った。その結果が、あの事故だ。
まるで今回も、先を見通しているかのような物言いに心が揺らぐ。
彼には何が見えているのだろうか。稜花や李公季を取り巻く敵の姿を、やはり、とらえている気がしてならない。
「ーーええ」
ぎゅうと、手綱を握りしめる。表情を強張らせて、稜花は大きく頷いた。
 




