花嫁道中(9)
信じられないと言うかのような顔つきで、彼は真っ直ぐ稜花を見つめた。その深い闇色を、稜花自身もじっと見つめ返す。
「貴方のことが好きなの、楊炎――」
懇願するように伝えると、楊炎はその薄い唇をぎゅっと噛んだ。目を細め、その戸惑いを顕わにする。
稜花だって分かっていた。こんな事を言っても、彼を困らせるだけだと言うことを。
「姫……」
楊炎が口を開こうとする。きっと、彼は否定するだろう。稜花の想いを受け入れてくれるはずがないし、稜花も期待などしていない。
だからこそ、彼が離れていってしまわぬよう、稜花は抱きしめる腕に力を込めた。
「私は、楊基の妻になる。これから先、こんな風に、貴方と話す機会なんてないもの」
聞くだけでいいなんて、単なる我が侭でしかないけれど。どうか心にとめておいて欲しいと言葉を紡ぐ。
自分の胸の内を素直に言葉にするとすれば、本当は彼と一緒に生きたかったらしい。
今まで、彼との具体的な未来なんて想像すらしなかった。けれども、最近覚えた嫉妬という感情を思い出し、胸が苦しくなる。
それでも稜花は、己の希望を叶える気など、おきない。自身の存在意義にかけて、一刻も早く描かなければいけない未来がある。
「私は昭国の妃になる。――それで、稜明に手を差し伸べられるなら」
だから、どうかお願い。と言葉を続けた。
「今、貴方に伝えることだけは、許して。気持ちを受け止めてなんて、言わないから……」
こぼれ落ちる想いを処理しきれない。でなければ、不安と後悔を抱えたまま楊基の妻になってしまう。
楊基は聡い男だ。稜花の胸の内などすぐに気がつくだろう。だからこそ、この場で想いを断ち切ってしまいたい。
今から全力で向かえば、夜が深まる前には昭殷だ。朝を待って、開門と同時に街へ入る。
稜花は己の無事を示し、楊基の妻となるのだ。そして戦を止めるために駆けなければいけない。これから先、楊炎と二人きりで過ごす機会など、もう与えられないだろう。
「貴女は本当にむごいことをなさる……」
稜花が押し黙ると、頭上から言葉がこぼれ落ちてきた。眉を寄せたまま、楊炎は僅かに首を振る。額に片手を置いて、再び口を閉じてしまった。
きっと、迷惑だったのだろう。当然の反応に、稜花は息を吐いた。
むごいとまで言われてしまっては、仕方がない。誤魔化すように口角を上げる。いつもと同じとはいかないまでも、きっと笑っているように見えるだろう。
「……うん。困らせてしまって、ごめんなさい。……行きましょう。今のうちに移動して……」
楊炎から離れようと、彼の胸に手をつく。しかし、彼がそれを許さなかった。
楊炎? と声をかけるが、まるで反応がない。彼の表情を伺おうと、顔を覗き込んだ時だった。彼は両腕に力を込め、稜花を強く抱きしめた。
再びぎゅうぎゅうに力を込められ、稜花は目を瞠る。
突き放されるものだと思っていたのに、彼はそんなことはしなかった。まるで正面から気持ちを受け止められ、言葉に詰まる。
「ーー私が平気だとお思いか」
「!」
闇色の瞳は稜花をとらえて放さない。焼き付けるように稜花の姿を目に映し、彼は益々腕に力をこめた。
もともと饒舌ではない彼のこと。なかなか言葉は続かないが、彼なりに稜花の言葉を受け止めようとしてくれているらしい。
――うれしい……嬉しい。
じわじわと胸の内に温かい感情が押し寄せ、稜花も回した腕に力を込めた。
そして、稜花も理解した。これが、彼なりの気持ちの表現なのだと。――少なからず、稜花に向き合ってくれていると。
もちろん、稜花が彼に向けている感情と異なっていることくらい理解できる。それでも、彼の姿勢は稜花の心を慰めた。
本当に、十分だった。
気持ちを受け止めてくれるだけで、稜花の心は満たされる。それなのに、彼はもっと多くの言葉を稜花のために紡いでくれた。
「……お慕い、申し上げております」
低くて、心地良い声が耳をくすぐる。囁くように告げられた彼の想い。
まさかの言葉に、稜花は息を呑んだ。信じられなくて、感情をどう処理して良いのか分からなくなる。胸が激しく高鳴って、心の底から歓喜と後悔が押し寄せる。
楊炎。と、彼の名を呼んだ。彼の存在を確かめるように、何度も、何度も。
昭殷に着いたらもう、この繋がりは途切れることになる。稜花は彼への想いを捨てなければいけない。そして楊炎もまた、己の気持ちを隠すだろう。まるで闇に似た深い心の中に、稜花への想いをそっとしまい込んでしまう。そして、何事もなかったかのように隣に立つのだろう。ただの護衛として。
「――姫」
楊炎も、稜花自身を受け止めるように、名を呼んでくれる。背を這う彼の両腕は、やがて稜花の頭をかき抱き、持ち上げるようにして支えられる。
目と目が合い、押し黙る。彼の頬に手を触れると、少しくすぐったそうに、彼は目を細めた。
やがてその手を掴まれる。力を込める彼の手が、確かに震えているのがわかる。
楊炎、と再度名前を呼んだ。楊炎も、稜花を求めるように、言葉を絞り出す。
「どうか、ご無礼を、お許し下さい」
言葉とともに、彼の唇が降ってくる。
髪に、額に、頬に。そして細い指を稜花の唇に這わせた後、躊躇うように、求めるように――彼はその唇を稜花のそれに重ねた。
「……っ」
彼の口づけは優しかった。じっと唇を重ねてしばらく、やがてそれは啄むように、何度も、何度も稜花の唇を食んだ。稜花も同じように彼を求めて、その唇を動かす。
心音が煩い。けれど、彼の口づけは穏やかで、不安に駆られた稜花の心を包みこんでいった。
ひとしきり唇を重ねたところで、稜花はゆっくりとその目を開いた。
普段の彼からは想像できない、柔らかな表情がそこにある。少し困ったような顔をして、目に確かな温かみが宿って。
――なんて、愛しい。
その顔を見るだけで、胸の内に温かな気持ちがあふれていく。
いつも、何の感情も映さなかった無の表情。すべてを見つめるのは冷たく暗い瞳だったのに。彼がこんなにも素直に、稜花への想いを表現してくれる。それが嬉しくて、くすぐったくて、たまらない。
いつか、楊基から奪われた口づけとは全く違う。稜花を慈しむ気持ちがそこにはあった。
「――初めてが貴方だったら良かったのに」
思わず、心の内が言葉に出る。稜花だって女の子だ。初めてへの憧れくらい、抱いていた。まるで嵐のような楊基の口づけを思い出し、苦笑いを浮かべる。
しかし楊炎は何やら物言いたげな様子で、すっと視線を逸らした。思っていたものとは違う反応に、おや、と瞬く。
楊炎、と名を呼ぶと、長い沈黙だけが返ってきた。
「申し訳ありません――」
楊炎は言葉を切る。どうして謝るのかは分からない。しかし、彼は眩しそうに微笑みを浮かべ、再度稜花に口づけを落とした。
***
何度も何度も口づけをしあった。
もう、行かなければという想いと、ここにずっと居たいという気持ちがせめぎ合う。しかしこうしている間にも、一刻一刻と時間は過ぎ去ってしまう。閉門までには街を出ないといけないのに。
嬉しくて堪らないのに、同時に不安が押し寄せる。折角想いが通じたのに、まるで夢か幻のように消え去ってしまう。稜花とて、忘れるために言葉を紡いだのに。ますます離れがたくなって、胸が痛む。
――こんなつもりはなかった。
けれど、後悔はしていない。
くすりと微笑し、観念するように稜花は首を振った。
「……もう、行かなくちゃね」
「……」
稜花の言葉に、楊炎は瞳を閉じた。彼は、はい、と短く言葉を切り、どうか最後にと唇を重ねる。
名残惜しそうに、その唇が離れていくのを感じ、稜花は目を細めた。回された腕も解かれ、温かかった彼の体温も感じ取れなくなる。ああ、これで最後なんだな、と実感して、息が苦しくなった。
「……ありがとう」
「いえ」
首を横に振り、彼はその場に傅いた。そして、稜花を懇願するかのように見上げ、はっきりと想いを口にする。
「どうか――この想いを胸に秘め、貴女の側に在り続けることをお許し下さい」
「……っ」
「貴女が他者の妻になろうとも、どうか――」
茨の道を、彼は選んだ。
心を通じ、それでもなお、他人の妻になる女を見守り続けなければいけない。
そして、稜花もまた。
「……楊基の妻になる私を許して」
茨の道を歩くのだ。
それが、稜花の生き様。稜明の為に、運命に身を投じる。これだけは、揺るぎない決意。
「行きましょう」
目指すは、昭国の都、昭殷――。




