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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第三章
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花嫁道中(9)

 信じられないと言うかのような顔つきで、彼は真っ直ぐ稜花を見つめた。その深い闇色を、稜花自身もじっと見つめ返す。


「貴方のことが好きなの、楊炎――」


 懇願するように伝えると、楊炎はその薄い唇をぎゅっと噛んだ。目を細め、その戸惑いを顕わにする。

 稜花だって分かっていた。こんな事を言っても、彼を困らせるだけだと言うことを。


「姫……」


 楊炎が口を開こうとする。きっと、彼は否定するだろう。稜花の想いを受け入れてくれるはずがないし、稜花も期待などしていない。

 だからこそ、彼が離れていってしまわぬよう、稜花は抱きしめる腕に力を込めた。


「私は、楊基の妻になる。これから先、こんな風に、貴方と話す機会なんてないもの」


 聞くだけでいいなんて、単なる我が侭でしかないけれど。どうか心にとめておいて欲しいと言葉を紡ぐ。

 自分の胸の内を素直に言葉にするとすれば、本当は彼と一緒に生きたかったらしい。

 今まで、彼との具体的な未来なんて想像すらしなかった。けれども、最近覚えた嫉妬という感情を思い出し、胸が苦しくなる。

 それでも稜花は、己の希望を叶える気など、おきない。自身の存在意義にかけて、一刻も早く描かなければいけない未来がある。


「私は昭国の妃になる。――それで、稜明に手を差し伸べられるなら」


 だから、どうかお願い。と言葉を続けた。


「今、貴方に伝えることだけは、許して。気持ちを受け止めてなんて、言わないから……」


 こぼれ落ちる想いを処理しきれない。でなければ、不安と後悔を抱えたまま楊基の妻になってしまう。

 楊基は聡い男だ。稜花の胸の内などすぐに気がつくだろう。だからこそ、この場で想いを断ち切ってしまいたい。


 今から全力で向かえば、夜が深まる前には昭殷だ。朝を待って、開門と同時に街へ入る。

 稜花は己の無事を示し、楊基の妻となるのだ。そして戦を止めるために駆けなければいけない。これから先、楊炎と二人きりで過ごす機会など、もう与えられないだろう。




「貴女は本当にむごいことをなさる……」


 稜花が押し黙ると、頭上から言葉がこぼれ落ちてきた。眉を寄せたまま、楊炎は僅かに首を振る。額に片手を置いて、再び口を閉じてしまった。

 きっと、迷惑だったのだろう。当然の反応に、稜花は息を吐いた。

 むごいとまで言われてしまっては、仕方がない。誤魔化すように口角を上げる。いつもと同じとはいかないまでも、きっと笑っているように見えるだろう。


「……うん。困らせてしまって、ごめんなさい。……行きましょう。今のうちに移動して……」


 楊炎から離れようと、彼の胸に手をつく。しかし、彼がそれを許さなかった。

 楊炎? と声をかけるが、まるで反応がない。彼の表情を伺おうと、顔を覗き込んだ時だった。彼は両腕に力を込め、稜花を強く抱きしめた。


 再びぎゅうぎゅうに力を込められ、稜花は目を瞠る。

 突き放されるものだと思っていたのに、彼はそんなことはしなかった。まるで正面から気持ちを受け止められ、言葉に詰まる。


「ーー私が平気だとお思いか」

「!」


 闇色の瞳は稜花をとらえて放さない。焼き付けるように稜花の姿を目に映し、彼は益々腕に力をこめた。

 もともと饒舌ではない彼のこと。なかなか言葉は続かないが、彼なりに稜花の言葉を受け止めようとしてくれているらしい。



 ――うれしい……嬉しい。


 じわじわと胸の内に温かい感情が押し寄せ、稜花も回した腕に力を込めた。

 そして、稜花も理解した。これが、彼なりの気持ちの表現なのだと。――少なからず、稜花に向き合ってくれていると。

 もちろん、稜花が彼に向けている感情と異なっていることくらい理解できる。それでも、彼の姿勢は稜花の心を慰めた。



 本当に、十分だった。

 気持ちを受け止めてくれるだけで、稜花の心は満たされる。それなのに、彼はもっと多くの言葉を稜花のために紡いでくれた。


「……お慕い、申し上げております」


 低くて、心地良い声が耳をくすぐる。囁くように告げられた彼の想い。

 まさかの言葉に、稜花は息を呑んだ。信じられなくて、感情をどう処理して良いのか分からなくなる。胸が激しく高鳴って、心の底から歓喜と後悔が押し寄せる。


 楊炎。と、彼の名を呼んだ。彼の存在を確かめるように、何度も、何度も。

 昭殷に着いたらもう、この繋がりは途切れることになる。稜花は彼への想いを捨てなければいけない。そして楊炎もまた、己の気持ちを隠すだろう。まるで闇に似た深い心の中に、稜花への想いをそっとしまい込んでしまう。そして、何事もなかったかのように隣に立つのだろう。ただの護衛として。



「――姫」


 楊炎も、稜花自身を受け止めるように、名を呼んでくれる。背を這う彼の両腕は、やがて稜花の頭をかき抱き、持ち上げるようにして支えられる。

 目と目が合い、押し黙る。彼の頬に手を触れると、少しくすぐったそうに、彼は目を細めた。

 やがてその手を掴まれる。力を込める彼の手が、確かに震えているのがわかる。

 楊炎、と再度名前を呼んだ。楊炎も、稜花を求めるように、言葉を絞り出す。



「どうか、ご無礼を、お許し下さい」


 言葉とともに、彼の唇が降ってくる。

 髪に、額に、頬に。そして細い指を稜花の唇に這わせた後、躊躇うように、求めるように――彼はその唇を稜花のそれに重ねた。



「……っ」


 彼の口づけは優しかった。じっと唇を重ねてしばらく、やがてそれは啄むように、何度も、何度も稜花の唇を食んだ。稜花も同じように彼を求めて、その唇を動かす。

 心音が煩い。けれど、彼の口づけは穏やかで、不安に駆られた稜花の心を包みこんでいった。



 ひとしきり唇を重ねたところで、稜花はゆっくりとその目を開いた。

 普段の彼からは想像できない、柔らかな表情がそこにある。少し困ったような顔をして、目に確かな温かみが宿って。


 ――なんて、愛しい。


 その顔を見るだけで、胸の内に温かな気持ちがあふれていく。

 いつも、何の感情も映さなかった無の表情。すべてを見つめるのは冷たく暗い瞳だったのに。彼がこんなにも素直に、稜花への想いを表現してくれる。それが嬉しくて、くすぐったくて、たまらない。

 いつか、楊基から奪われた口づけとは全く違う。稜花を慈しむ気持ちがそこにはあった。



「――初めてが貴方だったら良かったのに」


 思わず、心の内が言葉に出る。稜花だって女の子だ。初めてへの憧れくらい、抱いていた。まるで嵐のような楊基の口づけを思い出し、苦笑いを浮かべる。

 しかし楊炎は何やら物言いたげな様子で、すっと視線を逸らした。思っていたものとは違う反応に、おや、と瞬く。

 楊炎、と名を呼ぶと、長い沈黙だけが返ってきた。


「申し訳ありません――」


 楊炎は言葉を切る。どうして謝るのかは分からない。しかし、彼は眩しそうに微笑みを浮かべ、再度稜花に口づけを落とした。




 ***




 何度も何度も口づけをしあった。

 もう、行かなければという想いと、ここにずっと居たいという気持ちがせめぎ合う。しかしこうしている間にも、一刻一刻と時間は過ぎ去ってしまう。閉門までには街を出ないといけないのに。

 嬉しくて堪らないのに、同時に不安が押し寄せる。折角想いが通じたのに、まるで夢か幻のように消え去ってしまう。稜花とて、忘れるために言葉を紡いだのに。ますます離れがたくなって、胸が痛む。


 ――こんなつもりはなかった。


 けれど、後悔はしていない。

 くすりと微笑し、観念するように稜花は首を振った。


「……もう、行かなくちゃね」

「……」


 稜花の言葉に、楊炎は瞳を閉じた。彼は、はい、と短く言葉を切り、どうか最後にと唇を重ねる。

 名残惜しそうに、その唇が離れていくのを感じ、稜花は目を細めた。回された腕も解かれ、温かかった彼の体温も感じ取れなくなる。ああ、これで最後なんだな、と実感して、息が苦しくなった。


「……ありがとう」

「いえ」


 首を横に振り、彼はその場に傅いた。そして、稜花を懇願するかのように見上げ、はっきりと想いを口にする。


「どうか――この想いを胸に秘め、貴女の側に在り続けることをお許し下さい」

「……っ」

「貴女が他者の妻になろうとも、どうか――」


 茨の道を、彼は選んだ。

 心を通じ、それでもなお、他人の妻になる女を見守り続けなければいけない。

 そして、稜花もまた。


「……楊基の妻になる私を許して」


 茨の道を歩くのだ。

 それが、稜花の生き様。稜明の為に、運命に身を投じる。これだけは、揺るぎない決意。



「行きましょう」


 目指すは、昭国の都、昭殷――。

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