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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第三章
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花嫁道中(5)

 チチ、と微かに小鳥が鳴く声を聞いた。肩に日光の温もりを感じ、ああ、ようやく夜が明けたかと理解する。

 ふわりと漂う緑の匂い。柔らかい地面で稜花は寝返りを打とうとするが、身動きがとれない。

 ううん、と声を漏らす。重たい瞼を持ち上げると、いつの間にやら楊炎の上衣が掛けられていることに気がついた。


 だんだんと意識がはっきりしてくる。随分と周囲は明るくなっていて、どうやらたっぷり眠っていたようだ。

 昨夜は明け方まで気が張って、寒さと緊張に震え、夢と現を行き来していた。それでもいつの間にやら安心して眠りに落ちていたらしい。

 やはり自分は自分。どんな時でも眠れる図太い心を持っているのだなと苦笑したとき、はたと気がつく。



 今。体が温かいのは、陽の光と衣のせいだけではないらしい。

 地面に横たわったまま、動けないのは何故か。稜花を包み込む衵服一枚を隔てて、がっしりとした腕が絡みつく。体を動かそうとするが、二本の腕がそれを逃がさんと益々強く抱きしめる。背中に回された腕にぎゅうと力を入れられ、稜花は相手の懐にすっぽりとおさまった。

 一枚の衣をかぶり、抱きしめあったまま眠りに落ちていたらしい。それは稜花ばかりではない。きっと、稜花が眠りにつくまで、いや、眠った後も気を回していてくれていたであろう彼――楊炎もだ。


 ちら、と視線を上に逸らすと、静かに目を閉じた彼の表情が見えた。規則的な呼吸に、胸が上下する。鋼色の髪が朝日に艶めき、同じ色の睫毛が頬に影を落としていた。

 普段、神経を尖らせ、一切の隙を見せない彼が、目の前で寝息を立てている。



 ――ずっと、ピリピリしてたから。


 責任感の強い彼のこと、夜が明けるまでは一睡もしてなかったはずだ。どんな時でも、稜花に眠るそぶりすら見せたことがなかった。普段ならば、眠っている間さえ緊張しているのだろう。物音ひとつ立てようものなら目を覚ましそうな気さえするのに。

 こんな時に、この腕の中で休んでくれてる。それが、とても嬉しい。


 頬が緩み、同時に悲しくなる。

 最初で最後。これから先、こうやって彼に触れることはないだろう。

 もともと一夜の約束だったのだ。朝になったら忘れる。それはわかっている。


 だから稜花は動くのをやめ、じっと彼の寝顔を見つめていた。普段あれ程休めと言っても聞いてくれない彼のこと。少しの合間でも、きちんと眠って欲しい。

 彼の代わりに稜花が神経を研ぎ澄ませば良い話。じいと音に集中し、周囲に異変がないか警戒する。そうして彼の側でじっとしていると、たまに抱きしめる手に力がこもる。それが実に人間らしくて、稜花は笑みをこぼした。




 そうしてしばし。彼の様子を見守っていると、ん、と微かに低い声が漏れる。ぴくりと瞼が動き、その片眸、闇色の瞳が姿を現した。

 深い黒にくっきりと稜花の顔が映り込む。

 未だぼやんとしたままの虚ろな瞳は、稜花の顔をとらえてしばし――カッと目を見開いた。


 瞬間、まるで突き飛ばす様にして、楊炎が稜花から離れる。

 衣は稜花にかけたまま、彼はその体を起こして、背中を向けてしまう。左手で額を押さえていることから、かなりの動揺ぶりだとは理解するが、顔を見せてくれる様子はない。



「あ―……おはよ、楊炎」

「……っ」


 稜花の挨拶に返事をすることすらままならないらしい。右目の視線をちらりと投げかけてくるが、それきりだ。

 いつの間にか頭を抱える手が二本に増えていて、身動き出来ない様子。流石の稜花もどう声をかけて良いものか戸惑う。



「楊炎……?」


 顔色を伺う様に、稜花もまた立ち上がる。そうして彼の側へ歩み寄ると、彼は慌ててその身を翻し、その場に傅いた。


「……っ、姫っ」


 晒された片眸を伏せ、稜花の顔を見るまいと視線を逸らす。そうして眉間にしわを寄せ、絞り出す様に声を出した。


「大変な、御無礼を」


 そう言い、地面に擦り付けんばかりの勢いで首を垂れた。


「姫をご無事にお届けしたら、如何様にも御処分を」


 その言葉に眉をぴくりと動かす。

 実際、彼の言は何ひとつ間違っていない。嫁入り前の――しかも花嫁道中の娘を衵服一枚でかき抱き、一夜を過ごした。本来ならば、稜花ともども処罰されてもおかしくない。

 しかし稜花はくすりと笑みを落とし、彼の衣を拾い上げた。

 改めて触ってみると思いの外厚みのあるその衣に袖を通す。借りるわね、と一言告げ、ちらと楊炎の方を見る。


 相変わらず彼は頭を上げる様子はない。古傷だらけの背中を晒したまま、微動だにしなかった。稜花の言葉を待っているのだろう。

 如何に不道徳とは言え、昨夜のことは仕方ないと思う。寒さに凍える人間を助けただけのこと。そこに問題はない。それに――と、稜花は思う。ため息とともに、言葉を吐き出した。


「何のこと?」


 瞬間、楊炎の体がぴくりと動いた。


「ずっとここに留まってもいられないわ。行きましょう、楊炎」


 ――それに。忘れると言ったはずだ。彼自身が。

 昨夜は何もなかった。ただ稜花が襲われて、逃げ惑って、それを楊炎が助けてくれただけ。その行動に何の問題もなかった。


 にっこりと笑いかけると、彼は途方に暮れたような表情を向けた。彼との心の距離を感じて、寂しくなる。しかしその気持ちを顕わにするつもりはない。楊炎の衣を勝手に体に巻き付けながら、稜花は彼の元へと歩いた。

 そして手を差し出す。傅く彼に、立ちなさいと告げた。


 楊炎は戸惑うように差し出された手を一瞥し、ふいと目を逸らした。結局その手を握りかえす事はなく、立ち上がり、再び稜花に背を向ける。

 彼が何を思っているのかは分からない。ただ、しばらく考え込むようにして立ち尽くした後、参ります、と返事をしてきた。

 彼は上裸のままだが、稜花に何を言うわけでもない。気持ちを切り替えるようにして、息を吐き出す。そして僅かな荷をその手にかき集め、何事もなかったかのように歩み始めた。



 参りましょう、と楊炎は告げる。村か、街を探しましょうと。船での航程からもだいたいの位置は分かるからと淡々と続け、そして最後に稜花に訊ねた。


「――どうなさいますか、これから」

「そうね……」


 人も、荷も、すべて沈んでしまった。とてもではないが、嫁入りとして成立しなくなっている。

 しかし稜明からしても、一日も早く昭国との繋がりを確かなものにしたかったはずだ。このままぐずぐず仕切り直しをしている時間などない。


 稜花は考え込むようにしてその目を閉じた。

 かなり大陸の奥地までやってきた。昭殷までははるか道のりだと思っていたけれども、自分と楊炎の足ならばたどり着けないわけではない。

 助けを要請しようにも、稜花の身分を示すものどころか、手元に役に立ちそうなものが何もない。せめて襲われたのが夜でなければ、と後悔が押し寄せるがもう遅い。

 しかし、今の稜花は一人で悩む必要がない。なぜなら、側には楊炎がいてくれるのだから。



「――私は、昭殷を目指すわ」

「御意」


 楊炎は短く言葉を切ると、よどみない足で前へと進んでゆく。その一切の迷いのなさを不思議に思いつつ、彼の冷静さに感謝した。

 そうして稜花と楊炎は歩き始める。

 一路西、昭殷へ――。




 ***




 途中、事件の現場にごく近い場所に村を見つけた。ざっと様子を窺ったが、稜花達以外に河からやって来たものは居なかったらしい。

 その事実が分かった時、稜花は明らかに肩を落とした。しかし、楊炎が立ち止まる素振りすら見せなかったのが救いだ。

 落ち込んでいる暇などないとでも言うのだろうか。彼の歩みは速く、わざと稜花に負荷をかけているようだった。落ち込む暇すら与えないように。それと同時に、事件のことが気になってもいるのだろう。

 昨日の夜以来、未だ襲撃はない。それでも楊炎は緊張を解こうとせず、何かを考え込むように眉を寄せている。



「ねえ、楊炎……」


 必然的に、道中をただ二人で過ごす。その歩みが緩むことはないが、朝から歩き倒しで流石の稜花も疲れが出てきていた。

 とんだ花嫁道中だ。嫁入り道具の類いは全滅で、朱の衣すら纏っていない。身内とも言える仲間たちは消息不明。稜花自身、体は泥にまみれ、髪は艶を失っている。

 服だけは近くの村で調達できたが、稜花はあまりなじみのないごわごわとした着心地。別にそれに対して何ら文句があるわけではない。しかし、繰り返すがこれは花嫁道中なのだ。


 長い長い歩みの中。思考は同じ所に何度も行き着く。

 気にかかるのは襲撃してきた連中のこと。当然、稜花の命が狙いなのはわかったが、一体誰の命を受けてのことだろうか。稜明と昭国の同盟を煩わしく思う者か。それとも、昭国内で稜花の存在を邪魔に思う者がいるのだろうか。

 しかしあの場には楊陶もいた。そして楊陶の船が沈められる様を確かに目にした。

 楊炎の話からすると、楊陶と楊基は別の派閥にあったはず。もし黒幕が昭国の者であるとしたら、楊陶でも楊基でもない第三の勢力の者となるのだろうか……。


 ――よく、わからない。


 稜花は頭を振って、前を歩く楊炎に問いかけた。


「貴方はどう思うの? あの時……私を襲ったのって……」

「まだ情報を確認しきれておりませんが――」


 楊炎はあまり、憶測でものを言わない。というより、今回の件に関してはいつも以上に慎重になっているようだった。

 ただ、と、彼なりに気になることを漏らしはじめる。


「随分と大規模な襲撃でした――暗部にしては」


 暗部。稜花自身、はじめて目にした。

 楊炎が以前似たようなことをしていたことくらい知っている。しかしその仕事ぶりを見たことはなかったし――まさか自分が襲われる側になろうとは考えてもみなかった。


「隠れて姫お一人を狙ったわけではない。大人数で船を沈めることを優先しているようにも見えました」


 つまり稜花の命以外にも、目的があったと言うことだろうか。

 自ずと犯人は絞り込めようものだが――如何せん、稜花は稜明以外の権力者の情報に疎い。うんと考え込んでも、手の中の情報が少なすぎて、まったく答えに行き着ける気がしなかった。

 そうして黙ったまま二人並ぶ。昼間はまだ温かいようで、荷の少ない稜花達にとっては非常にありがたいことだった。



 ――一刻も早く街へ出て。昭殷へ。急がないと。


 長い旅路になるだろう。船と比べて、陸路だと峠もあるし、回り道も多い。その間、彼と二人きりになるのかと思うと、なんだか不思議な心地がした。


「姫、まだ歩けますか?」

「あのねえ、私を誰だと思ってるの?」


 たまにこうして、体力を心配してくるから笑える。確かに戦での遠征時、稜花はずっと馬に跨がっていたため、長距離を徒歩で移動することは珍しい。

 しかし、普通の娘よりははるかに体力があることくらい自覚している。それに、楊炎が頼りになることも、稜花はよく知っている。

 これからも身を削って、眠る時すら側で見張っていてくれるのだろう。だからこそこの旅路においては、彼の体力の方がずっと心配なくらいだ。


 ――また、そばで眠ってくれたら良いのに。


 なんて考えて苦笑する。あり得ない話だとはもちろん思う。

 今までも、いったいいつ眠っているのだろうと思ってはいた。きっと短い睡眠を挟み込んでいるのだろうが、充分でないはず。

 だからこそ稜花は心配そうに彼を見つめる。しかし彼は普段と変わらぬ表情で、真っ直ぐに進行方向を確認していた。



「街に着いたら、馬を探しましょう。それで幾分かは楽になる」

「え? でも路銀は……」

「いくらかは持っています」


 それを聞いて、流石、と心内で褒めておく。楊炎は稜花が想像していた以上にずっと冷静で、用意周到だった。もとより一人旅にも慣れているようで、身につけていたあの小さな革袋の中身に必要最低限の品が詰まっていた。


「ただ、昭国の者には、まだ存在を知らせるのは良くないかと思います故。どうか、お許しを」


 助けを求めることをやめよう、と言っているらしい。

 彼の危惧しているところは、わかる。今回の襲撃は完全に計画を練られたものだ。稜花の所在地が知れれば、また何らかの接触があるかもしれない。

 あいにく楊炎にはこの旅を続ける知識と技術がある。馬を獲ることで幾ばくか楽にもなるし、二人で昭殷を目指す方が安全だろうと言っているのだ。



 確かに、今この国で楊炎以外に頼りになるとすれば、真っ先に楊基の顔が思い浮かぶ。必然的に、彼以外の者を信用しにくい状態に陥っている。

 少なくとも楊基ならば、稜花が暗殺されることなど望んでいないだろう。


 それに――と、楊基の言葉が思い出される。

 昭に来る際、身辺に気をつけろと彼は言った。念を押すように、真剣な眼差しで。

 もしかしたら、こうなることを見越して言っていたのではないだろうか。


 ――想像していた以上に、昭国は、怖いところみたい。


 これから先、やっていけるのだろうかと不安にかられる。

 楊基に話を聞かなければいけない。生きる術を、身につけなければいけない。今までの稜花のやり方では、通用しないかもしれない。

 それでも、稜花は理解した。

 楊基が何故、自分に固執したのかを。

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