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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第三章
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花嫁道中(4)

 どれ程の時を、そうして歩いていただろう。冷え込んだ空気は肌を刺し、濡れそぼった稜花の体温を奪う筈なのに。


 ーーあったかい。


 触れ合う肌から、熱が伝わる。冷たい彼の瞳とは裏腹に、肌は心地よい温もりを持っていて、稜花はただ身を委ねた。


 いつの間にか水面が見えなくなっており、木々の間から差し込む僅かな月明かりを頼りに歩き続けていた。彷徨うように薄暗い林に分け入っていく。周囲は恐ろしいほどに静かだ。


 ーー人の気配は、ない。


 それが良いのか、悪いのか。

 稜花たちを狙う者の気配もなければ、一緒に逃げ延びて来た者もいない。

 皆は無事だろうか。散り散りになっても良い。己の命を守り、逃げてくれただろうか。そうして不安になるたびに、楊炎に回した腕に力がこもる。

 楊炎も稜花の好きな様にさせてくれた。稜花の手を振り払うこともなく、ただ、大切に抱えてくれる。




 そうしてしばらく。

 生い茂る草の背が低く、柔らかな葉が集まっている場所を見つけ、彼は稜花の体を地面に下ろした。

 木の幹を背もたれにし、その場に座り込む。体を離されたのが妙に寂しい。

 無意識の内に、名残惜しげに手を伸ばしていたらしい。しかし楊炎はそれを一瞥しただけだった。四方を目視し、状況を確認し始める。彼は明らかに気が張り詰めており、その意識の下に稜花はいない。


 危険がないことを確認すると、彼は鋼の髪の水気を払い、上衣を脱ぐ。彼の上半身が露わになり、稜花は思わず視線を逸らした。

 余分な肉をそぎ落とされた、抜き身の刀のような肉体。先ほどちらりとのぞいた古傷は、彼の背にまでいくつも見受けられた。

 その無駄のない体つきは、華奢な稜花には絶対に手に入れられないものだった。あの長身から繰り出される剣技もまた、無駄のない型であることは身を持って知っている。



 稜花に目を向けることも無く、彼は上衣の水気も払う。そうして適度な枝に己の衣をかけた。

 そのまま稜花から少し離れた位置に腰を下ろし、今度は刀を鞘から引き抜いた。僅かに差し込む月明かりが、その刃を照らす。薄暗い林の中で、彼とその刃が鈍色に照らされ、稜花は目を奪われた。


 そして彼は、今度は腰元から小さな皮袋を取り出したかと思うと、中から幾つかの道具を地面へ並べていく。

 濡れた刀をそのままにしておくにはいかない。刀身を乾いた布で拭い取り、静かに、そして丁寧に手入れをし始めた。


 稜花は膝を抱えたまま、ぼんやりとその作業を見つめていた。骨ばった、細くて長い指。彼の刀と同じ鋭さ、無骨さを感じる。

 しかし彼の指の動きは非常に繊細だった。器用に自らの獲物を整えていく。傷だらけの体と、抜き身の刀。静けさの世界に重なって、妙に絵になる気がする。



 一方の稜花は今や、濡れ鼠。たちまち己の格好が恥ずかしく思えて、益々体を縮こめた。

 ぷるりと体が震える。寒さで身がどうにかなりそうだ。凍える体を抱きしめる。己の温もりで凌ごうと体を丸めた。

 衣が肌に張り付き、気持ちが悪い。ただ、これ一枚しか持ち合わせがないため、脱いで乾かすわけにもいかなかった。

 袖を絞り、水気を払うが上手くいかない。かたかたと震える手には力が入らず、途方にくれた。


 こんな姿を見られたくない。情けなくて、弱い自分。

 きっと楊炎は刀の手入れに夢中で、稜花なんて気にもとめていないだろうがーーと、乾いた笑いをひとつこぼして顔を上げる。




 ——目が合った。

 瞬間、闇色に沈んだ瞳が僅かに揺れる。その片眸はずっと、稜花を見つめていたらしい。

 動揺して息を呑む。しかし絡め取られた視線をなぜか外せない。同じように彼も視線を逸らさず、稜花をその目にとらえたままだった。

 濡れそぼった稜花の格好を見苦しいと思うのだろうか。そう考えるだけで、恥ずかしくて、胸が苦しい。


 楊炎はと言うと、じっと稜花を見つめた後、片目を閉じた。眉間にしわを寄せ、考えこむようにしてしばらく。おもむろにその場から立ち上がる。

 何、と思っていると、彼は真っ直ぐ稜花に向かって歩いてきた。

 彼の足取りは静かだ。僅かな月明かりに照らされた彼の肌は艶っぽく、何故だか胸がどきどきする。

 先程まで寒さで震えていたというのに、妙に頬が熱く感じる。この胸の高鳴りを悟られたくなくて俯くが、彼が歩みを止めることは無かった。



 手を伸ばせば触れられる距離に来た彼は、稜花の手前で膝を折った。

 声が響かぬ様にという配慮なのだろうか。顔を近づけ、耳元で囁くようにして彼は告げる。


「震えていらっしゃるのか」


 耳に彼の吐息を感じて、両の目を見開く。

 ぞくぞくと体の芯から震えがやってくる。恥ずかしくて目も合わせられない。心臓が悲鳴をあげ、頬が火照る。

 先ほどまで寒さと失意に震えていたのに、まるで麻痺してしまったようだ。彼の声に心がとらわれ、頭の中を占拠される。


 そんな稜花の震えを、寒さから来るものだと勘違いしたのだろうか。楊炎は再度戸惑う様に眉を寄せる。

 そうして長い沈黙の後、彼は決意した様に稜花を見つめた。



「無作法を……お許し下さい」


 彼は低い声をひとつ落とすと、その手を伸ばす。そしてそのまま稜花の体を引いた。


 何が起こったのか考える間も無かった。

 え、と僅かに声が漏れる。

 気がついた時には、稜花の体は彼の腕の中にすっぽりとおさまっていた。露わになっている彼の肌に顔を押し付ける形になり、赤面する。

 先ほどまで抱き上げられた時と異なり、真正面から彼と向かい合う形になっている。混乱で頭が回らなくて、呼吸が苦しい。彼の体が動き、擦れるたび、変な声が出てしまいそうになる。


 楊炎は何も語らない。ただ、稜花の体が風に当たらぬよう、覆い隠す。

 冷たい空気から護ってくれている事は理解したが、彼は上裸で自分は衵服一枚だ。しかも濡れそぼった白の衣は、稜花の体の線をくっきりと浮かびあがらせている。泥だってあちこちについているし、整えられていた髪だって、見るも無惨に形を崩している。



 今更ながら、惨めで、恥ずかしくて堪らない。

 息苦しくて、せめて表情だけは見られない様にと、稜花は彼の胸に顔を埋めた。


「み……ないで……」


 羞恥で心がどうにかなりそうだ。蚊の鳴くような声でそう告げるのが、稜花の精一杯だった。

 きっと頬は真っ赤に染まっている。ゆるゆるになった口元も、混乱で潤んだ瞳も、何もかもが見られたくない。

 こんな時に、何を考えているのだと自分でも思う。しかし、楊炎の一挙一動に頭の中が支配されて、苦しい。心臓が破裂しそうで、呼吸がままならない。

 彼にとらえられたこの身では、逃げることも隠れることも出来なくて。最終的に彼の胸板に顔を埋め、無意識に全身に力がこもる。


「……姫がそう仰るなら」


 頭上から彼の返事が落とされて、稜花はぴくりと体をはねた。肯定の言葉なのに、低い響きが酷く甘く感じられる。



 彼なりに葛藤もあったのだと思う。

 これまでともに戦場で過ごしてきたが、彼は稜花に対して一定の距離を保ち続けてきた。同じ馬に騎乗していても、戦の最中、庇い、庇われても。


 それなのに今。稜花の輿入れを目の前にして、何故こんな事になっているのだろう。

 いや、頭で理解はしている。彼は単に、稜花の心配をしてくれているだけだ。

 寒空の下、水に濡れたこの体を、これ以上冷えぬ様にと護ってくれているだけ。

 しかし、あまりに不義理で不謹慎。稜花は今から王の妻になるのに。その女性を、衵服一枚の彼女を抱くだなんて事、許されるはずがない。



 ーーこわい。


 ーー怖い、でも。


 じんわりと体温が伝わって、心地よい。その熱をこぼすまいと、肌を擦り寄せる。稜花の意識が求めるままに、彼の背中に手を回した。

 稜花のそれよりずっとずっと広い背中。自分を護ってくれる存在の強さを感じ、心が熱くなる。


 抱きしめてくれるこの腕は、稜花と同じ気持ちを抱いているわけではないのだろう。それでも、少しばかりは大切に思っていてくれているのだろうか。

 だからこそ、ごめんねと心の中で謝る。


 ーーやっぱり、貴方の手を離す事なんて、出来そうにない。


 これからも共にいてほしい。側に寄り添っていて欲しい。だからきっと、こんな出来事は、あってはならないのだ。


「明日になったらーー」

「……お忘れします」


 抑揚のない低い声。稜花の想いを代弁するかの様に、彼は言葉を重ねた。

 うん、と力なく答えて。体の温もりと引き換えに、心が冷たく色を失っていく。ぎゅうと彼にすがりつき。どうか、今日は。今夜だけはと祈る様に唱えた。


 少しでもお休み下さい、と彼は言う。

 明日になったらまた、過酷な刻が始まるのだろう。だから今は。と。

 彼もまた祈る様に声を絞り出し、稜花の体を抱きしめた。

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