花嫁道中(3)
水の中に落ちる音を聞いた。同時に無数の泡に包まれて、前が見えなくなった。
稜花は藻掻いた。水がかき回され、身体が流される。激しい渦の中に呑み込まれまいとどうにか水を搔く。目も開けられないでただただ焦るが、そんな稜花をぎゅうと抱きしめる手があった。
落ちつきなさい、とその手は冷静に諭すように撫でてくる。はっとして目を開くと、真っ暗な水中の世界で、稜花のすぐ側に一層暗い影がいることを理解した。
その存在だけで幾分か焦る気持ちが落ちつく。彼の腕を掴み取ったまま身を委ね、上へ、上へと足を動かす。
それで良い、と言わんばかりに、彼の手も稜花の肩を叩いてから、水を掻き分けた。
こぽこぽと。稜花をとりまく水の音が穏やかになる。赤い光が反射する方向へと向かい、どうにか水上へ顔を出した。
口の中に入った水を吐き出し、浮き沈みする揺れに身を任せながら呼吸をする。けほけほ、と咳き込むと、背中をさするようにして包みこむ腕があった。
「姫」
低く、落ち着き払った声。
楊炎、と空気を漏らすように呟いて、稜花は彼を見つめる。宵闇の空の下、船の影で彼の表情はよくわからない。
遠くで、火が回る気配がある。炎は激しさを増し、稜花達を乗せていた船を包みこんでゆく。
水面に反射する赤の光。ぱちぱちという音の中に、船体がきしみ、悲鳴を上げている音が混じり、ああ、もう手遅れなのだと自覚した。
「大事はありませんか」
状況のめまぐるしい変化に呆けていると、横から声をかけられる。言葉に詰まったため、稜花は首を縦にふって返事をした。
稜花はただ、昭国へ向かっていただけなのだ。ひとりの娘として。楊基の妻になるために。
なのにこの状況は何だろうか。朱の衣を捨て、衵服一枚。寒空の下、河に身を投じる——。
皆は、無事だろうか。そうして案ずることすら、楊炎は許してくれなかった。ぐっと稜花の体を引き寄せ、行きます、と問答無用で声をかける。
「でも——」
そう言いかけたところで、空から光が降ってきた。とっさに楊炎が稜花の体を引き、再度水中へと沈みこむ。
——鏢が……!
刺客は、まだ追ってきている。稜花達を目にとらえようものなら、問答無用で攻撃してくるのだろう。自由に身動きが出来ない状態で命を狙われる。それがただただ恐ろしくて、稜花は楊炎に身を委ねた。
——いつもならば。万全の体制ならば彼らに遅れをとることなんてなかったはずなのに。
しかし後悔したとて、もう遅い。判断がまともに出来なくなっている。まずは奴らから身を隠し、己の安全を確保せねばなるまい。
船の影に隠れるようにして、体を浮かせる。揺れる水面、力を抜いてただ浮かぶことに専念する。
身に纏うのは衵服一枚だ。稜河の側で育った稜花にとって、着衣泳の心得もなくはない。これくらいの着衣なら、ある程度の時間泳ぐことは出来よう。
一方で楊炎はと言うと、あらかじめ幾つか斬り落としておいた木片をその手に掴みとっていた。その冷静さに舌を巻く。
体を寄せられ掴まされる。するとようやく体勢が安定し、はあ、と息を吐く。
「それでよろしい」
楊炎も幾ばくか安心したようだ。少しだけ頬を緩め、後に船上の方へと視線を向けた。
遠くで稜花を探す怒号が聞こえる。まだ戦闘は続いているらしく、意識を失った兵が落ち、其処此処に水しぶきが立ち上がる。そのたびに稜花の体はびくりとふるえ、落ちつかせようとする楊炎の腕に力がこもる。
「この闇だ。生き延びる手段は、いくらでもありましょう」
「皆は——」
稜花とて、今の自分の言が我が侭であることは理解している。皆の前を離れてしまった稜花。船上に上がることもままならない状態の彼女に出来ることなど、ない。
こうなる前に、対処をしなければいけなかったのだ。今更どうこう言ったところで、もう遅い。
「私は、貴女の護衛。命に代えてもお守りする」
そう冷たく言い放ち、楊炎は体を動かし始めた。船の横を通り抜け、河岸を目指すのだろう。船から離れがたい気持ちをどうにか抑え込み、稜花も彼に続いた。
船から遠ざかると水面は益々暗くなる。光が届かぬ闇の中、お互いを見失わぬようにと楊炎は稜花の肩を抱き続けた。
寒さのせいなのか、体が震える。初秋の夜。寒空の下。冷えた水の中で体温が奪われないはずがない。
かちかちと、歯がかみ合わない。為す術もなく戦場から逃げるような真似をするのも初めてで、心がゆらぎ、頭が働かない。
何度も何度も、赤く燃えさかる船の方を振り返り、皆は無事に逃げたのか。助かるのかと案じてしまう。楊炎だってそれを咎めはしない。ただ、稜花を離すまいと、腕に力がこもるのを感じて、彼を見つめ直した。
河岸は遠い。闇に紛れて、途方もない距離にすら感じる。凍える体、動かぬ足、そして沈む心を抱えていている。きっと楊炎にとって、今の自分はお荷物だろう。
いつの間にか船からも随分と離れていて、薄暗い闇の中に二人、ぽっかりと浮かび上がる。
その圧倒的な孤独。前にも後ろにも彼以外にはいなくて。突然戦場となったはずの場所に、なぜ共に戦う仲間がいないのかと不安に思う。
戦場で遅れをとるつもりはない。だからこそ、今の不甲斐ない自分が嫌になる。
堪らなくなって、ごめんなさい、と声が漏れた。
すると稜花を肩掴んでいた腕が離れ、かわりに稜花の頭に触れた。撫でるわけでもない。ただ、一度。手の平全体を押しつけるように触れ、力を込められる。ただ、それだけ。
しかし、稜花には伝わった。何度も後悔する素振りを見せる稜花を、彼なりに気遣ってくれたのだろう。
息を吸った。油断すると泣きそうになるから、困る。それだけはとぐっと堪え、稜花は前を見た。せめて彼にこれ以上心配をかけてはならぬ、と心に決める。そして稜花はしっかりと木片を掴んだ。
その様子を確認した楊炎も、安心したようにひとつ息を吐くと、先ほどまでと変わらぬ様子で前に進んだ。
そうして再び、進み出す。凍える体をどうにか支えて。前へ、前へと泳ぎ続けた。
***
薄れゆく意識の中、先ほどまでの感触と違う空気が、稜花を包み込んだ。
ざぁーっ、と、音は流れて。稜花は、瞳を開いた。
体が重い。凍り付いた指先や、足が、どうにも動かない。
「あ……」
目の前に広がる風景を見て、稜花は、声を漏らした。辺り一面はぼんやりとした月明かりがあるだけの暗闇。深い深い黒の世界にぽつりと自分だけが存在している感覚。光在る場所にたどり着きたくて、手を伸ばす。
水の中に沈みゆく心地がしたけれども、どうやら稜花の思い違いだったらしい。
確かに体は沈まなかった。
ゆらゆらと揺れる感覚が続いているような気がするが、おそらく、これは幻覚に近い。
「無事でいらっしゃるか」
低く落ちついた声が耳に届く。ああ、一人じゃない。そう感じ、稜花はどうにか体を仰向けにした。
河岸の砂利が肌に刺さって痛む。先の戦の傷が治り始めてきた矢先、体を引きずることでまた小さな傷が開いたことに苦笑した。
——本当に、生傷が絶えない。
ふ。と、声が溢れた。
「ふふふ……あはははは」
泣くのが駄目なら、嗤うしかないではないか。
砂利に体を預けたまま、稜花は乾いた嗤いを溢す。くやしくて、情けなくて、自分の運命を呪うかのように声をあげる。
皆に祝われ、心配もされ、心からの見送りを受けた結末が、これだ。稜花が汰尾へと飛び出して、不在の間に粛々と準備を進めてもらった結果も。
皆の気持ちも稜花の決意も、共についてきてくれた仲間の命でさえも粉々に砕かれた。両の手からすべてがこぼれ落ち、途方もない失意に溺れる。
——ふふ、ははははは。
ひとしきり息を吐き出すと妙に虚しくなって、仰向けのまま、腕で目を覆い隠した。こんな顔、楊炎に見られたくない。
たった一枚で身を包む衵服すら泥だらけの——まるで濡れ鼠。ひどい有様だ。まさかこんなのが、昭国王の妃になろうだなんて、誰が考えるだろうか。
再び惨めさが押し寄せてきて、嗤い声が溢れる。そうしてしばらく、動けないまま、考えることすら放棄した。
すると、側で砂利を踏む音が聞こえた。
歩みの主は稜花に近づき、しゃがみ込む。何ぞと思った時には、稜花の体は抱え上げられ、宙に浮いていた。
「……っ」
咄嗟に稜花は、状況が飲み込めず目を開ける。すると、楊炎の横顔がすぐ近くにあって、心臓が跳ねる心地がした。
一方彼はというと、開いた右目でちらと稜花を確認しただけで、すぐに視線を別の場所に移動する。
「この辺りにも、刺客がいるやもしれません故」
短くそれだけ言い捨てて、彼は黙々と歩き出した。
彼も入水する際、かなり身軽にしていた様だ。鎧の類は当然脱ぎ捨てていて、薄手の衣を纏うのみ。
抱き上げられた稜花の顔は、彼のはだけた胸元へと当たる。その肌は彼の顔と同じ古傷だらけ。彼らしい痛々しくもある肌に、稜花は瞬間、目を奪われていることに気がづいた。
咄嗟に恥ずかしくなって、目を逸らす。彼の方の視線を向けられないまま、稜花は体の力を抜き、大人しく彼に抱かれていた。
抱き上げられてしばらく歩く。
冷静な彼の判断は何も間違っていない。何もせず落ち込んでいる場合では無かったし、今は身を隠す時。戦へ赴く際、何度も繰り返し唱えてきたことと同じだ。
——後悔は、後でもできる。だからまず、目の前の為すべきことをしろと。
「……」
稜花は口を噤んだ。
こんなにも自分が何も出来ない女だとは思わなかった。かたかたと震える肩。鈍った判断。そんな中で、頼れる存在はただひとつだった。
稜花だって、分かっている。覚悟を持って故郷を出た。
これは花嫁道中。稜花は今から、別の男の妻になる。それは勿論、理解している。——それなのに。
不安に心が揺れる。
堪らなくなって手を伸ばす。濡れそぼった惨めな体を彼に押し付ける。
しっかりと彼の首に手を回し、その体に自らの身を委ねた。
びくり、と、彼の体がはねた気がした。しかし、それも僅かな間。稜花を落とさぬ様しっかりと抱きとめたまま、彼は、夜の林へと分け入った。




