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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第三章
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花嫁道中(2)

 ピンと張り詰めた冷たい空気。それが微かに震えているような気がする。人の動きが激しく、何かが起こっているのかと頭をかすめる。

 稜花がむくりと体を起こすと、寝ずの番をしていた女官が、暗がりの中から声をかけてきた。


「稜花様?」

「……なにか、騒がしくない?」


 稜花の言葉に女官は首を傾げた。

 こういった僅かな環境の変化をとらえられるのは、稜花だからこそなのだろう。気配の揺れのようなものを一介の女官に悟ることができようはずがないと、考えが至った。


 しかし女官も稜花の言を信じてくれる気になったのだろう。

 確認して参りますね、と言葉を残したのち、部屋を立ち去っていく。扉の外で幾つか言葉を交わしているのが聞こえて、ああ、楊炎がいるのだなと理解する。

 しかし彼は扉を隔てて向こう側。船室の暗がりに一人残され、稜花はぎゅっと膝を抱いた。


 眠る間も羽織る朱。衵服の上に一枚羽織っただけだが、随分とあったかい。

 水上の夜は冷える。ほう、とかじかむ手に息を吹きかけ、こすり合わせる。

 胸の奥に不安がくすぶっていて、稜花は身を丸めた。手元にいつもの双剣が無いのが心許ない。護身用に用意していた懐刀を寄せて、その手に握った。



 何が起こっているのかはよく分からないし、稜花が出る場面でも無い。

 この船旅の進行も警備も、稜明の軍に任せてあるし、今の稜花には何を命じる権限も無い。現場の者にすべて判断をまかせる。じっとしていることこそが自分の役目なことくらい、理解している。


 随分と長い時の様に感じた。とうとう落ち着いていられなくなって、稜花は扉の方へと歩いて行く。

 ぎしぎしと床を踏む音が響いたからだろう。扉の外から「姫?」と、稜花を呼ぶ声が聞こえてきた。


「楊炎」


 扉一枚挟んで、稜花は彼に声をかける。


「姫、どうなされた」

「なんだか、不安で」


 夜。いくら気心の知れている楊炎とて、女官のいない状態では船室内に入れることは出来ない。だから稜花は扉にその身を寄せ、低く静かな彼の声を拾おうと耳を押し付ける。


「何か、起こっているのかな」

「上が騒がしいですね」


 楊炎も状況の変化に気が付いているのだろう。彼に様子を見に行ってもらいたいが、どうやらここを離れる気は無さそうだ。

 こんな時、軍を取りまとめる指揮官であるならば、真っ先に状況がわかるのに。あくまで稜花は護送される身。自由に身動き取られないのがもどかしい。


 扉ひとつはさんで中と外。それでも楊炎の存在を感じてほっとする。彼は変わらず冷静で、いつもと同じ環境であると認識させてくれる。

 そうしてじっとしていると、女官が戻ってきたらしい。聞こえる足音からして一人ではない。男性のものでもなさそうなので、おそらく何名かの女官も起きてきているのだろう。


 扉を開け、中に招き入れる。一人ではなくなったので、楊炎も後ろに控えるようにして中に入った。




「どうだったの?」

「それが、不審な舟が現れたらしくて」

「舟?」


 たしかにそれは、怪しいとしか言いようがない。

 こんな人里離れた場所で、しかもこんな時間に移動するなど、ありえない。ぴり、と稜花の表情が緊張し、話の続きを待つ。


「はい。人の姿は見えないらしいのですが、警告しても立ち去らないらしく」

「で、どうしたの?」


 女官たちも困惑した様子を露わにしている。彼女たちはこのような事態に慣れていないからだろう。どう報告したものか、と言葉にしかねているところがある。


「矢を射かけて牽制しております。しかし、不気味で……」


 女官たちがオロオロとした態度を見せたところで、外から飛び込んでくる声が悲鳴に変わったのを感じた。それと同時に、唸るような音と大きな揺れを感じ、稜花は目を見開く。



 皆で一斉に扉の方向を見る。バタバタと船室に向かって駆けてくる足音。楊炎の気が一気に張りつめ、稜花の側に駆け寄る。

 女官たちも強張った表情で、まるで壁になるかのように扉の前を塞ぐ。皆が稜花を護るために一斉に動き、稜花自身も懐刀に手を伸ばした。


「姫! お逃げください、姫!」


 扉の向こうからの緊急事態を告げる声に、皆の目が見開く。慌てて女官が扉を開けた瞬間、一人の兵が必死の形相で中に駆け込んできた。

 ぜえぜえと息を吐き出しながら、姫、お逃げくださいと、何度も繰り返す。


 詳しく聞き出そうとした瞬間、彼は叫び声をあげてその場に倒れた。

 何事、と思った時にはもう遅い。入り口から室内に飛び込んできた黒い者が、一気に稜花に詰め寄る。その進路上にいる、女官たちを斬り捨てながら。



「――っ!!」


 悲鳴にならない悲鳴を上げる。侵入者の動きは速く、稜花も咄嗟に身を翻す。

 当然、楊炎が黙って見ている訳がない。間に割って入り、侵入者に向かって刃を振った。


 船室の天井は低い。かなりの動きを制限されながらも、楊炎は冷静に事にあたる。全身を黒い布で覆った侵入者は、忌々しげに楊炎を睨みつけ懐から銀に光る何かを取り出そうとする。



 ――暗器っ!


 それが何かわからない稜花ではない。しかし今、彼女の手元にあるのは懐刀ひとつ。それで防ぐよりは、避けることを考えなければ――と相手の動きを読む。

 今稜花にできることは、楊炎の動きを邪魔せずに、自分の身を守ること。敵の一挙一動を見逃してたまるかと睨みつけたが、楊炎の対処の方が早かったらしい。


 銀の(ひょう)を構えた侵入者の腕丸ごと、容赦なく楊炎は斬り落とす。そうして狭い室内に女官三名、稜明兵一名、そして侵入者の男の赤が広がった。




 ひとときの間に、稜花の手の中からたくさんのものがこぼれ落ちていった。

 身にまとった朱色。魔除けとして、嫁入り先までまとい続けなければいけない衣。目の前に広がる赤が同じ色である事――そのお守りとしての無意味さに、感情が荒ぶってついていかない。


 楊炎が腕を斬り落とした男は、どうやらまだ生きているらしい。楊炎は彼に詰め寄り、二、三訊ねている。

 状況を知るために稜花も聞かねばならぬと思うのだが、頭がついていかない。


 それよりも今、稜花の視線は共に稜明からやってきた仲間たちに注がれた。

 貴女たち、と、ふらふら近寄る。この日まで稜花に仕え、笑っていた彼女たちはもう動かない。少しでも身を守れるよう、と護身の心得があったはずなのに、何の意味もなさなかった。


 故郷を離れ、稜花について来てくれた。それが嬉しくて、頼もしくて、信の置ける者の存在を心から喜ばしいと思ったばかりなのに。どうして彼女たちは動かないのか。


 目の前で人が亡くなるのは何度も見てきた。それでも、ここは戦場ではなかったはずだ。彼女たちが命を落とす必要なんて、何もないではないか。



「ああ……」


 言葉を失ってよろめく。

 大きな不安と、その中に微かな希望を持ってここまで来た。穏やかになりつつあった気持ちを粉々に崩され、稜花は手を伸ばした。


 花嫁の朱色に血の赤が混じる。彼女たちの頬に触れると、まだ温かい。別れを惜しむ暇がない事は分かっているのに、体がどうにも動かない。


「姫!」


 名を呼ばれてハッとした。腕を掴まれ見上げると、瞳に映るのは楊炎の眼光。右眼の闇色は益々深く、稜花を見据えていた。


「楊炎」


 名を呼ぶと、ぐいと彼に引かれた。ふと目を向けると、先程の侵入者は息絶えており、楊炎がとどめを刺した事を理解する。


「皆が……」


 言ったところでどうにもならない事は理解している。それでも、稜花は訴えずにはいられなかった。

 しかし楊炎は一度目を伏せるだけだ。稜花の主張を無視したまま船室を飛び出す。

 騒ぐ心を抑えられない。目の前で、三人の女官が亡くなった。ここまで共に来てくれた兵も一人。他の女官たちは無事だろうか。皆は? 何が起こっている――?


 駆けていると船体が大きく揺れた。一瞬体勢を崩すが、楊炎に手を引かれ事無きを得る。真っ直ぐに甲板に向かい、外の景色を見た瞬間、稜花は絶句した。





 宵闇の空に反射する赤。三隻連なった船団の先頭。昭国楊陶を乗せた使者の船から真っ黒な煙が立ち上る。

 それを照らす赤は容赦なく船体を包み込む炎の色。水面漂う焦げ臭さに思わず鼻を押さえる。

 同じように、稜花を乗せた船の先頭からも黒い煙が立ち上りはじめていた。風は穏やかなのだが、油を撒かれたのだろうか。火の回りがはやい。


 逃げようにもここは船上。しかも稜河だ。河幅は広く、船から河岸は遠い。

 振り返ると、後方のもう一隻も襲撃を受けているらしく、悲鳴が聞こえてきた。


 混乱した兵士たちが入り乱れ、船上を駆け回る。

 稜花を見つけるなり、お逃げくださいと叫ぶ声と、姫の退路を確保しろという声が飛び交う。何ぞ、と思えば、人垣の向こう。ゆれる黒い人影が見えた。


 その存在に気付いた時、相手も同じように稜花を見つけたようだった。障害物は全て排除するかのように、周囲の者を薙ぎ倒しながら、駆けてきた。

 倒れゆく悲鳴が線となり、稜花へ連なる。黒に包まれた全身。僅かに覗く眼光は真っ直ぐに稜花をとらえている。

 それを見て稜花は自覚した。いつもの戦とは状況が違う。彼らの狙いはただ一つ。


 おそらく、稜花自身――。



 敵の人数はさほど多くない。少なくともすぐに確認できたのは三つ。ただ、先程の侵入者を見てもわかる。皆相当の手練れだ。

 楊炎が身構えるのがわかった。暗部(あんぶ)か、と短く言葉を切る。独特な走法と間合いを確認し、彼は走った。

 正面から駆けてくる敵を一薙ぎ。しかし相手も手練れ。楊炎の一閃をするりと避け、反撃体勢に入る。


 その攻防に見惚れていると、背後から別の気配が忍び寄ってきた。とっさの判断で、稜花は朱の衣で宙を払う。いくつもの鏢を払うかのように第一撃を避けるが、所詮は布。初撃の軌道をそらすのに精一杯だ。

 真白い衵服一枚で寒空の下に立つ。とても衆目の目に晒すような状態ではないが、そうも言っていられない。

 僅か数名の暗部に混乱させられている現状を何とかせねばならぬ。しかし火の勢いが強く、その赤が差し迫ってくるのを理解していた。

 消火など、間に合うはずがない。ならば逃げるしかないのだ。


 ――しかし、何処へ。


 焦る気持ちが抑えられない。後ろから差し迫った刺客を目の端にとらえ、稜花ははっとする。相手は暗部。飛び道具の類いを駆使し、稜花に間合いに入らせるつもりもないらしい。


 ――三人、いたはずなのよ。


 目視できた範囲で。

 この状態で対処しきれるか、と冷たい汗が流れる。数をものともしない相手のしなやかな動きは、稜花の判断を更に鈍らせる。



「姫!」


 背後では楊炎がケリをつけたらしい。稜花の隣に駆け寄り、同じく相手を見据えた。鏢を一閃で振り払い、そのまま稜花の肩を強く掴んだ。

 抱き寄せられるように後ろに引かれ、稜花は目を丸めた。ちらと彼の方を見ると、必死の形相で周囲の状況を見つめている。


「楊炎っ?」

「逃げます」


 稜花にしか聞こえないような声で、楊炎は呟く。

 何処へ? と訊ねる。前方の船、後方の船、どちらも火の海へと沈んでゆく。おそらく稜花を乗せたこの船も、遠くないうちに。――となると、逃げる場所などひとつしかない。



「姫、お逃げ下さい!」

「ここは我々に任せてっ」


 刺客達の進路を塞ぐように、兵が集結する。先ほどまで惑っていた彼らも、稜花が姿を現したことにより目的意識を明確にしていた。稜花を護らねばならぬ。数ある刺客を押さえて――と。

 走りながら楊炎は己の鎧の紐を解く。乱暴な手つきでそれらを振り落とし、真っ直ぐ向かうは甲板の縁。



「待って、楊炎。みんなは――」

「誰よりも助からなければならないのは、貴女だ」


 そう冷たく言い放ち、稜花を片腕で抱え込む。楊炎の言葉を誰も否定しない。稜花が逃げ切るまで、刺客を押さえると口々に叫ぶ。

 いやだ、と声にしたが、楊炎は聞き入れてはくれなかった。

 手にした刀で積み荷の木箱をいくつか斬り割き、水面にたたき落とす。そのままの勢いで彼は、一切の躊躇を見せずに、その身を稜河へ投じた――。

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