花嫁道中(1)
晴れがましい舞台に相応しい気候が続いた。元々初秋のこの時期は晴れ間が多い。
実際、民の間でも、少し離れた村同士の婚姻もある。
男が女を迎えに行き連れ帰るまで結構な日数を要するという。その間、雨に降られないに越したことはない。だからこそ、一年で最も穏やかなこの時期に家々は縁を結ぶのだという。
穏やかな道中だった。
海から内陸に向けての風も安定しており、確実に河を上っている。
航程は十日あまりを予定しているが、この調子なら予定より早く到着するかもしれない。
軍事行動とは違い、稜花から何かを指示することもない。完全にお姫様扱いされており、今更ながら奇妙な心地がする。
船の中に居る時にこんなにのんびりしていたことなどありはしなかった。どうやら動いてないと落ち着かないらしい。
しかし今回ばかりは稜花が動き回るわけにはいかない。警備の邪魔をするわけにもいかないし、周囲をやきもきさせてはならぬと一定の理解を示しつつ、船室で大人しくするに徹した。
よって、昭国の地理や産業について確認をする日々だった。同行してくれた女官たちに呆れられたが、こればかりは性なのだから仕方ない。
着飾って美しくなるため奮闘することになど興味は持てない。稜花の体は先日の戦の傷も数多く残っているし、楊基もそのあたりは諦めてくれているはずだ。よって、同じ引きこもるなら彼の地のことを把握して、どう動くのか考える方が余程有意義だ。
三日、四日と時が経ち、やがて稜明領の外に出る。丁度今通っているのは、北側から稜河に流れ込む散雪川という細い川が合流する地点。近くに稜明も大きな砦を築いている。
ここのところ南方向へばかり出兵していたので、通りがかるのも埜比へ出向いた時以来だ。
領境で警備にも力を入れている地であるが、稜花自体はこの地にあまり馴染みがない。
ここから更に南へ下っていけば、李公季の訪れている龐岸がある。会えなかった長兄の顔を思い出しながら、稜花は頬を緩めた。
「改めて昭国って近く感じるわね」
歩兵の歩みでもないので、なおさらだ。大陸の北、かなりの範囲を占めていた昭は、国となってもその領土の広さは変わらない。
西国へ繋がる唯一の道を押さえ、異国との取引も盛んだという。
「姫さまが大人しくなさっていることが奇跡ですわ」
稜花とともに昭へと向かう女官たちは、くすくすと笑いあっている。流石に花嫁が女官の一人すら連れて行かぬわけにはいかない。護身術の心得がある者で、気心のしれた女官は多くないが、皆、稜花とともに昭へと赴くことを了承してくれた。
年若い女官が多かった。中に年配の、幼い頃からずっと共に居てくれた者もいるわけだが、皆、故郷を離れて稜花についてきてくれた。その気持ちが嬉しく、同時に心苦しい。
こうやってからかわれても、稜花は弱々しく笑みを返すしか出来ない。稜明を離れることを、稜花自身胸が引き裂かれるような思いもした。それと同じ気持ちを、彼女たちには味わわせている。
「みんな、本当によく付いてきてくれたわね」
だから、この旅路では大人しくすることくらい出来る。
彼女たちの言うことを聞いて、花嫁らしくある。彼女たちが誇って仕えたくなる主になることが、今、稜花に求められていることだった。
「あら、寧ろなぜついて行かないと思ったのです?」
「姫様はいつもお一人で前に出てしまわれますもの。こんな機会くらい、ご一緒しませんと」
しかし彼女たちは何処吹く風。稜花の心配など吹き飛ばすかのようにカラリと笑い、口々に好き勝手なもの申しをする。ひとしきり笑ったところで、一人の女官が声をあげた。
「でも姫様、良かったですね。楊基様はきちんと遣いを出してくださって」
「楊陶様、楊基様の親族でいらっしゃるんですよね? 一国の主になられた楊基様がお出迎えになるのは難しくとも、近しい方を遣わせて下さったのですね」
女官たちの言葉に、稜花は頷いた。
楊陶。稜花たちよりも随分と年上の文官だ。どうやら楊基の親戚筋に当たるらしく、今回の輿入れのためにわざわざ稜明まで使者としてやってきた。
元来ならば婿自ら訪れるのが礼儀だが、相手が一国の王となるとそうもいかない。自身の扱いはある意味供物に近いと稜花は理解している。楊基に捧げられる形になるわけだ。
帝に嫁ぐのと同義だと考えるならば、稜花にだって普通の婚姻と違うことくらいわかる。ただ、なまじ相手のことをよく知っているだけに、実感しにくいだけ。しかし、稜花が知っている以前の楊基とは、立場が全く変わってしまった。かつてのように明らさまに邪険になどできようもない。
ーー彼は砕けた物言いくらいあまり気にはしなさそうだけれど。
しかし、臣下の目の前ではそうもいくまい。楊基は曲がりなりにも一国の主。稜花も最大の敬意を示さねばならぬ相手だ。
楊基の顔を思い出しては、心が揺らぐ。最後に会ったのは汰尾の戦でのことだった。重い策を授け、その命を秤にかけることを躊躇すらしなかった。
極限状態に身を置き、その身を燃やす様を楽しんでいるようにも思えた。あろうことか、己の婚約者に対して。
そうして苛烈とも言えるその判断をみせた一方で、もう一つの顔が思い出される。
それは別れ際。昭へ向かう道程を、確かに心配していた。稜花の手を引き、唇までーー。
「ーーっ!」
と、そこまで思い出したところでぶんぶんと首をふる。
あの出来事は不本意なことだった。稜花は同意した記憶などなかったし、それにーーそりゃあーーいつか、遠くない未来にはーー夫婦になるのだけれど。と、頬が熱を持ったりそのまま気持ちが尻すぼみになって頭が冷えたり落ち込んだりと忙しい。
「稜花様? どうされたのです?」
女官の一人が、稜花の百面相を訝しげに見つめている。稜明であの出来事を知っている者は、彼女の他には楊炎のみ。彼が口外することなど考えられないから、彼女たちにも当然伝わってはいないのだろう。
しかし明らかに動揺したような顔を見せてしまっては、言い逃れできない。無意識に赤く染めた頬を押さえた稜花に対して、ああ、と勝手に解釈してしまい、女官たちはくすくす笑う。
「楊基様は素敵なお方ですからね。良かったですね、姫様」
「たいそうお強い方なのですってね。稜花様のお望み通りの方ではないですか」
きっと未来の夫のことを想って真っ赤になっていると勘違いされたのだろう。
頬が火照るような、体温が上がってしまうような気持ちはあるが、彼女たちが思っているような甘いものではない。
あれは事故。強制的に事故に巻き込まれたことに立腹しているだけなのだが、それが言えるわけも無い。そもそも、この婚姻に対し、稜花は世の乙女のような希望を持ってなど、いない。
だが、一時期のすっかり落ち込んでいた稜花のことを知っている女官からしたら、今、心穏やかに昭国へ向かっている様子に安心しているのだろう。だから、調子の良い言葉だって出てくる。
たしかに楊基は、稜花の夫としては申し分ない才を持っているのだろう。ずっと前の稜花だったら――彼と出会う時期がもう少し早ければ――また違った感情を持ったのかもしれない。けれども。
ちら、と入り口の方へ目を向けた。扉の向こうに、黒の影が居るであろう事は分かっている。
彼のことをが心の隅に引っかかってしまって、どうも素直に、この婚姻に挑めない。不毛な想いとは分かってはいるのだけれども。
「……貴女たち、昭国に行って油断しちゃ駄目だからね。彼は、まるで嵐のような人だから」
平穏無事でいられるわけがないと思う。
きり、と表情を引き締めたのが彼女たちにもわかったのだろう。みな息を呑むようにして、大きく頷いた。
***
本当に穏やかな旅だった。まさに順風満帆。昭国自体が稜花の存在を受け入れてくれるような気がする。
楊基が手を広げ、稜花の存在を絡め取ろうとする感覚。その張り巡らされた糸の中にまさに飛び込まんとする心地だったのに、穏やかな天候が続いたせいで稜花の心も凪いでゆく。
期待に胸を膨らませるわけでもないが、ああ、遂に来たんだなあと、昭国へ入国した実感を噛みしめることになった。
途中、昭国の重要拠点とも言える――石洛の街に停泊したりもした。稜花は外に出ることは叶わなかったが、女官たちがいくつか話を聞かせてくれる。市の有り様からして、稜明とは随分と違うようだ。
異国の布地や装飾も多いらしく、昭殷で稜花の衣装を誂えるのが楽しみだと心弾ませている。
連れて来た女官たちが悲観的な様子を見せないことも稜花にとってはありがたかった。気がつけば昭の都、昭殷は目と鼻の先。いよいよ腹をくくるしかない。
「――姫」
変わらず船室にて寛いでいると、扉の外から声が掛かった。女官の一人が取り次ぎにと外へ出向き、その人物とともに室内へ入ってくる。
「楊炎、どうしたの?」
「先ほど石洛で楊陶様の部下と情報を交換致しました。このままの調子でいけば、あと四日もあれば昭殷に到着すると」
「――そう」
稜花は瞳を伏せた。楊炎の様子はいつもと変わらない淡々としたものだった。その様子に心がちくりとする。けれどもいつまでもひきずってなどいられないことくらい、稜花にもわかっていた。
「楊陶様は……穏やかな方ね」
「……楊基殿とはまた、様子が違いますな」
楊基の親族ともなれば彼と似たような印象の者を想像していたが、全く違っていた。
体つきは細く、武の心得などありそうもない。穏やかな笑みが優しげに見えたが、どことなく心内の読みにくい、作ったような笑顔なのが印象的だった。
初めて会った時、品定めするような視線を投げつけてきたのが忘れられない。何が、というわけではないが、何となく嫌な感じがした、と言うのが稜花の正直な感想だ。
楊基は考えていることこそ読めないものの、どこか爽やかというか、潔い心地よさがある。一方で楊陶は、粘り気のある視線が見た目の穏やかさに隠しきれずに残ったような印象だった。
髪の色が鋼であることから、彼らに血族らしさはあったが、楊炎と楊基が血族ですよと言われた方がよほど納得できる。
――まあ、そんなことはあり得ないんだけど。
髪の色も姓も同じだからつい想像してしまったが、あくまでも仮定だ。別に楊姓は珍しいわけでもない。彼が幼い頃から李公季に仕えていた話は聞いているし、まるで繋がりは無いのだろう。
ちらと楊炎の顔を見ると、何かを考えているように視線が遠くを見ている。石洛で何かあったのだろうかと稜花は小首を傾げた。
「楊炎? どうかした?」
「……いえ」
稜花の問いかけに僅かな動揺を見せる。しかし、この場では聞いてくれるなと言わんばかりに視線を逸らし、言葉を切る。そうして周囲に視線を走らせた後、再び彼女を見たところで、稜花は彼の意図を読み取った。
最もつきあいの長い一人の女官を残し、人払いを行う。流石に嫁入りの身で男性と二人きりになるわけにも行かず、これが最大限の人払いだ。
「……で、どうしたの?」
「打診がありました。姫が昭国入りを果たした際の」
「打診? 何の?」
稜花が昭国でそれなりの地位を得るのは間違いがない。王である楊基に限りなく近しい存在になるわけだし、件の約束のせいで、一軍を獲るつもりだ。それなりに影響力も持つのだろう。稜花との関係を取り持っておきたいと考えるのは当然であるわけだが。
楊炎をじいと見つめると、彼は静かに頷いた。そしてようやく口を開く。
「まず私ですが、遠回しに楊陶派への勧誘をされました。私を取り込んで、そこから姫との繋がりを得ようとしていますね」
「……わざわざ楊陶自ら迎えに出向いたのも、私たちを取り込むため?」
「何度か面会依頼があったのでしょう?」
楊炎の言葉に、稜花は首を縦に振った。稜明で船に乗り込んだのち、稜花は直接楊陶と話してはいないが、街に停泊するたびに誘いがあると女官には聞いている。
いくら楊基の遣いでも、花嫁道中に他の男性と会うわけにもいくまいと最もな理由をつけて断っていた。
正直なところ、あの睨めつけるような視線に晒されたくない。花嫁は清らであるべきという大義名分が役に立った。船室に引きこもっていた効果もあって、男性の前には姿を現さない姿勢は十分に断る理由となり得たらしい。
「楊陶の配下ですが、しきりに稜明の話を聞いてきました。雑談を装ってですが」
他領の者と会話するならば、情報交換するのは当然のことだ。しかし、問題はその内容だ。
「内容は?」
「散雪川付近の街と、砦の様子」
「……」
なるほど、と稜花は相槌を打つ。その情報を知りたいのが楊陶か、それとも楊基自身なのかはわからない。
うーん、と考え込んでいると、楊炎ほ更に言葉を付け足す。
「……というのを建前に、南が気になる様子」
「南ーー?」
楊炎の言葉に、稜花は首を傾げる。
稜明と他領の関係性が知りたいのだろうか。確かに稜花たちはずっと南側へと遠征に出ていたから気になるのだろうが、汰尾の戦いの時にかなり情報交換はしているはずだ。今更南に対する情報で、知りたいことといえば自ずと絞られてくる。
汰尾の後の動き、もしくは稜明の建国のことだろう。
稜明の南側は騒がしい。干州はもはや稜明のものと言って差し支えないが、それに伴い周囲の領が黙ってなどいない。
匡は静観を決め込んでいるが、杜は相変わらず口を挟んで来るし、朝廷からの使いもある。
稜明としては、李公季が杜との間の調整をつけ次第、独立したいはず。そしてそれは、周辺の領、更には昭国にとっても大きな影響があるだろう。
稜花が昭国入りした際も、稜明との繋がりを求め、周囲の者たちが放ってはおかないだろう。誰にどのように情報を与えるか、考えて話さなければならない。
そう思うだけで頭痛がし、交渉ごとの得意な長兄の正気を疑う。
よくもまあ、李家でああも異分子が育ったものだ。李公季の才のほんの欠片でも貰っていればと思うわけだが、ないものを悔やんだところで仕方ない。
しばらくはうっかり情報を漏らさないように行動しないといけないだろう。
そして、派閥。問題はこっちだ。
打診があったということは、昭国は幾つかの派閥に分かれて争っているのだろう。これこそ、厄介だ。稜花に皆の本心を見抜く芸当など出来ない。
かと言って、何も考えず楊基の言に頷き続けるつもりもない。彼の思惑に、考え無しに乗ることは危険だ。気がつけば引き返せない道に立たされる可能性だってある。
となると、結局のところ信用できるのは、自分と目の前に立っている彼だけなのだ。
「楊炎……」
戦の外になると途端に心細くなる。自分の判断に自信が持てない。
胸の前でぎゅっと手を握りしめると、楊炎は彼女の不安など見通したように、こくりと首を縦に振った。
ーー本当に、彼がいてくれてよかった。でもーー
こうして、楊炎の生き方を縛り付けていく自分がいることを自覚する。自由にいて欲しいと思い、共にいる息苦しさも感じながら、それでも尚。隣にいて欲しいと。
考えるたび、胸が苦しくなる。
ーー今日は、なかなか寝付けなさそう。
そうして稜花は、諦めたようにして微かに笑う。
案の定、その日の夜はなかなか寝付けず、稜花は暗闇の中、天井の位置をじっと見つめ続けた。
静かな船の夜ーーのはずなのに、空気の変化を感じずにはいられなかった。
 




