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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第三章
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出立

 いつまでも、ここで一緒に居られたら良いのにね、と稜花は思う。じいと相手を見つめるが、物言わぬ石は何も返事をよこさない。かわりに頬をかすめる柔らかな風が、稜花の心を肯定してくれているように感じた。



 稜明の秋は短い。朝晩はしっかりと冷え込むようになり、木々も色づき始めようかという季節。まだ空は白み始めたばかりで、指先を揉みつつ稜花は目を細める。

 昭国への出立を目前に、稜花は先祖への墓参りに訪れていた。

 幼い時に別れてそれきりになってしまったけれども、母は、こうして墓の下でずっと稜花を見守っていてくれた。



「昨夜は大変だったのよ、母上。いよいよ父上が泣いちゃって」


 思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。兄たちには厳しい父が、唯一、娘にだけは感情を剥き出しにして転げ回っている。臣下の手前ではそれでも毅然としているが、皆にはすっかりとお見通しだ。

 昨夜の宴の後、いよいよ我慢が出来なくなったらしく、稜花を抱きしめては大泣きした。


「年々、娘に弱くなっているみたい。大丈夫かな?」


 ――放っておきなさい。


 毅然とした母の声が聞こえた気がして、稜花は益々笑った。


「でも、私が居なくても――あ、義姉上がね。ご懐妊なさったのよ。進兄上も、来年には奥さんを迎えるらしいし。家族がね、増えるの。だから大丈夫よね?」



 故郷の名を背負うようにはなるのだが、もう、稜花は稜明の人間ではなくなる。相手が他国の王となれば尚更、里帰りの希望が通ることも無いだろう。

 しかし何故だろうか。なんだか戦へ出向く気持ちになってしまうのは。


 ――貴女もまた、女としての戦場へ行くのですよ。


 幼い頃。母にそう教えられたことを思い出す。

 けれども、稜花のこの感情は、母が教えてくれたそれよりもずっと、本来の単語の意味に近いのだと自覚している。


「母上、私は本当に戦場に行く気持ちなのよ?」


 数々の戦を駆け抜けたからこそわかる、緊張感。なにせ相手はあの楊基だから。


「母上が築いてくれたような温かな家族を、私ももてるのかな……」


 いや、無理だと。脳内で即座に否定してしまって、苦笑した。

 女の誰もが夢見る甘い生活とは、ほど遠い気がする。世間一般的に見て、楊基はきっと素晴らしい男性なのだろう。頭も冴えているし度量もある。身分はあれ以上のものはないし、人望も厚い。

 それなのに、何故だろうか。

 まだ不安に思う。彼の元へと嫁ぐことに。


「……私は、昭国から稜明を護るね、母上」



 目を閉じ、手を合わせた。感謝の念と、私の分まで稜明を見守っててね、と心で唱える。


「――母上。後は、よろしくお願いします」





 ***





 空は晴れ渡り、素晴らしい日だった。旅立ちの朝、黙って外出したことを女官たちにぷりぷり諌められながら、慌てて支度を済ませた。

 丈の長い朱色の衣装には、大柄の鳳凰と牡丹が散りばめられている。整った顔立ちにぱっちりとした瞳の稜花にはよく似合い、華やいだ雰囲気が彼女を包み込んだ。これから数日、昭へ向かう航路において常に朱の衣を纏わねばならないのだ。


 昭国には稜河を利用し航路で向かう。荷の多さと速さの兼ね合いもあり、陸路よりも稜花自身にかかる負担が小さい。

 数多の兵や官吏たちに見送られながら、稜花は港の方へと向かっていく。

 昭国からの迎え一隻と稜明より二隻。何を大仰なと稜花は笑うが、相手が相手。それなりに稜明側も格式張る必要があるらしい。



 ずらりと並ぶは稜明の重臣たち。そして稜花軍の面々と、李家の家族たち。ただ、そこに長兄の姿だけが見えない。彼らの間をすり抜け、桟橋の手前まで足を進めた。

 そうして船に乗り込む前に、稜花は振り返る。笑顔で見送らんとしていた皆の表情が僅かに強張った。


 ーー父上ったら、またそんな顔して。


 稜花は笑った。ここ最近、ずっとこの調子だ。今夜、稜花が居なくなったなり一人で泣かないだろうかと思わず不安になってしまうくらい、普段の闊達とした彼には程遠い。


 ーー父上にも、こんな一面あったんだなあ。


 娘に甘い父であることは自覚していたが、それでもやはり、稜明の長だ。こんなに情けない姿を顕にしたりはしなかったし、そうあってはならない。少なくとも、稜花が戦に参加するようになるまでは常に毅然とした父だった。

 そこまで考えが至ると、父の調子を狂わせているのが自分であることを自覚する。苦笑しつつ、彼の元へと歩み寄った。



「父上、行って参りますーー」


 彼の手を取った。ごつごつとした、筋張った大きな手。タコが何度も潰れて、皮が分厚くなっており、どれだけ刀を振るってきたのだろうかと想いを馳せる。

 この手はまだ幾度も刀を振るうのだろう。守るべきもののために奮闘する父。少しでも力になりたいと、稜花は思う。


「稜花、私はーー」


 李永は遠い目をした。何かを言おうとして、言葉に詰まったようだ。しかし彼は不安を心の奥底に覆い隠し、代わりに笑みをこぼす。


「……綺麗だ。母親そっくりだな」

「母上と?」

「ああ、顔立ちも、その強気な性格もな」


 櫛で結い上げられた髪に触れることをためらったのか、李永の手は僅かに宙を彷徨い、稜花の肩に落とされる。


「だったら、私、大丈夫ね」

「もちろんだ。私の自慢の娘だからな」

「ええ。父上もーーこれからまた偉くなるんだから。娘が居ないからって泣いちゃダメよ?」

「馬鹿者! そのようなみっともない真似ができるか!」



 顔を真っ赤にして反論してくるが、全く説得力はない。稜花はくつくつと笑って頷いた。

 そして次は、隣に並ぶ李進と香祥嬉たちに視線を向ける。残念ながら、そこに長兄の姿はなかった。


「進兄上、義姉上。行って参ります。どうか公季兄上にもよろしくお伝え下さい」


 畏まって挨拶を述べる。背筋をぴんと張って、彼らと視線を合わせた。


「ああ、お前も、元気でな」

「我が君も案じておりましたよ、稜花様のことを。されど今は龐岸(ほうがん)へ向かうとき。稜明を背負うかの方だからこそ、見送りに出られないことを許せと仰っていました」

「わかってるわよ、義姉上」


 李公季は今、南との調整に走り回っている。正確には、汰尾の戦いを終えて変化した周辺領地との関係性を維持するために奔走している。

 龐岸といえば、杜との領境。今、力を伸ばしかねた杜としても、動き方に慎重になるべき時だ。稜明を牽制することで、昭国からのこれ以上の介入を防ぎたいのかもしれない。

 かなり危険な会談だが、なる程李公季がわざわざ出るのは頷ける。



「私も、昭国で出来ることをするわ」


 目の前の香祥嬉を見る。彼女の生き様を真似たかった。自分で生きる道筋を作り出したかった。

 結局その目標は叶わなかったけれど、稜明のために出来ることはまどまだある。


「進兄上とは戦場で会うかもね」

「お願いだから、大人しくしていてくれ」


 そう言い、李進は大きく息を吐いた。そして、稜花の肩をぽんと叩く。


「昭国は、任せたぞ」

「ええ、兄上こそ。稜明は任せたわよ?」

「言うようになったな」

「兄上こそ!」


 くすくすと笑いあい、お互い肩を叩きあう。しかし次の瞬間、李進はごく真剣な表情をみせた。



「稜花、住む場所は違えど俺たちは兄弟だ。これから先、どんな事があっても、俺は、お前の味方であり続ける」


 思いがけない言葉に、稜花は目を丸めた。

 この先、どんな事があっても。それを約束する重さを推し量り、息を呑んだ。


「兄上、それは」

「お前は、昭国へいっても、稜明の事を想ってくれるのだろう?」

「うん……」


 頬がゆるゆるになるのを感じた。

 万が一を想像しなかったわけではないのだ。もし、昭国と稜明が敵対したならば。もちろんそれを回避する為に振る舞うことこそ稜花の役目ではあるが、それでも。


「ありがとう」


 立場上敵対したとしても、この兄は、稜花の気持ちを汲んでくれるのだろう。



 目頭が熱くなるのを堪えながら、稜花は笑う。そして最後に、後方に位置する自らの軍の仲間たちを見る。毅然と稜花の方を向き、見納めになる彼女を見逃すまいとしているのがうかがえる。

 良くここまで頑張ってくれたものだと稜花は思った。

 稜花と戦場で供に駆けるのは大変な苦労だったろう。けれども、彼らは不満ひとつこぼさずここまで付いてきてくれた。出来うることならば、最期まで彼らと……と考えて、やめた。

 今後の彼らの生き方に、遠くからでも関わることができる。昭国で、稜花が出来ることはいくらでもある。


 ぎゅっと拳を握った。覚悟は出来ている。

 改めてぐるりと見回すと、心を砕いた兵たちの顔が見えた。

 先頭には悠舜。さらに後ろに、泊雷も控えている。にこりと笑いかけると、悠舜は大きく頷き、泊雷は表情を強張らせた。最後に彼らとも顔をあわせることができて、本当に良かった。




 もう、心残りなど、ない。


「ーー姫、参りましょう」

「ええ」


 後ろから、黒の影に声をかけられる。研ぎ澄まされた刃のような雰囲気は、こんな華やかな場でさえ変わることはない。

 急かすような楊炎の言葉に軽く頷き、稜花は改めて全員の顔を見た。


「それでは皆様、行って参ります」


 稜花の凜とした声は良く通った。

 父李永も、兄の李進も、香祥嬉も悠舜も泊雷も。誰もが稜花の一挙一動を見逃すまいと彼女を見る。

 その視線を断ち切る名残惜しさを感じつつ、稜花は彼らに背を向けた。


 どうか幸あれと、稜花は思う。

 この晴れ渡った秋の空のように、明るい未来が彼らの元に訪れますように、と。

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