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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第二章
42/84

晴朗なる朝に

「うーんっ……」


 背伸びをすると体の節々が音をたてる。本来ならばこの行為はなかなかに心地が良いのだが、全身傷だらけになってしまった今、体のあちこちが悲鳴を上げているのがわかった。


「うう……」


 ――痛い。


 染みるような痛みと打撲による鈍痛が走って、稜花は涙目になりながら腕を下ろした。腕だけでなくて脚もあちらこちらに傷を負っているらしく、動かす行為自体が億劫だ。ひょこひょこと、まるで千鳥足のように歩く羽目になってしまい、なんとも情けない。



 先日の雨が嘘のように、カラリと晴れた空が眩しい。

 目が覚めてから数日。昨日までは熱は中々下がらず体も動かなかった。天幕から出ることも叶わず眠り続けた日々はある種拷問だった。

 風の通りも悪く、雨の後の湿気混じりの熱が籠もった空間。自身の熱も引くことはなくて、劣悪な環境の中うなされ続けていた。たまに楊炎が空気を入れ換えてくれるものの、動けない事のもどかしさと、熱の両方が稜花を苦しめた。

 しかし、本日。晴れて本陣から去ることが出来そうだ。とはいっても、まだ熱は完全に下がっているわけではない。よって、稜明軍の陣に移動するだけなのだが。

 楊炎の話によると、稜花は回復次第、一足先に稜明に戻されることになるらしい。稜花だって、今度ばかりはその命に従うつもりだ。このまま戦場に居たところで、稜花に出来ることなどもうないのだから。



 眠っている間に、戦況は随分と変わったらしい。稜花が中央の軍を一掃している間、昭の陸由が敵の州軍を襲ったとか。あの雨の中、前日の夜から大迂回をしていたとのことだが、その詳細までは知らされていない。

 ただ分かっていることは、稜花を利用するに留まらず、別に罠を仕掛けていたと言うこと。孤林の道を稜明軍に死守させている間に、昭は攻勢に出ていた。

 州軍と瓦解してしまえば、杜軍とて侵攻が難しくなる。州軍が撤退を始めた今、連合軍側に追撃をかけている状況らしい。

 戦の終局が見えてきているのだろう。稜花が初めてこの陣を訪れた時とは違って、少しだけ、皆の表情が落ち着きを取り戻しているのがわかった。




「姫! 無理をなさいますな」


 天幕の外で伸びをしていると、慌てたような声で楊炎が駆けつけてきた。その手に馬を引いていることから、これで移動するつもりなのだろう。そのつややかな青毛を目にすると、ちくり、と心が痛む。


 小柄で真白い稜花の相棒、梓白の姿を思い出す。気を失っている間に、彼女を失うことになるとは思わなかった。


 ――亡骸はないけれど、きちんと弔ってあげなければ。


 常に稜花と共に、戦場を駆け抜けてきたかけがえのない愛馬だった。稜花の意図を真っ直ぐに汲み取り、行動してくれた。言葉は通じずとも、彼女と意思は通じていたと断言できる者だった。

 常に側に居て、まるで姉妹のように育ってきたのだ。そんな彼女を、こんな形で失うとは思わなかった。


 ふと、表情に憂いが出ていたらしい。視線を上げると、楊炎が戸惑うような眼差しでこちらを見ている。

 目を覚ましてから彼の左眼を覆う眼帯が無くなっていて、少し奇妙な心地がする。

 その瞼。眉から頬までざっくりと切り裂いたような古傷が痛々しい。おそらく、かつての戦場で彼も死線をくぐり抜けたのだろう。


 気がつくと、稜花の手が前に出ていて彼の顔へと近づいている。

 無意識にその傷に触れようとしたが、楊炎はその手をとらえ、触れさせなかった。


「あ」

「見苦しいものを、お見せ致しました」


 つかまれた手を放され、彼は僅かに稜花から離れる。

 何となく戸惑いと、物足りなさのようなものを感じて、稜花は視線を逸らした。


 ――あの傷。


 触れたことがあったのかもしれない。

 傷を這うように撫でて、それで……と考えて、止めた。


 きっと、夢なのだろう。妙に優しい瞳で見つめられた記憶がある気がしたが、間違いなく稜花の願望でしか無い。

 ここのところ朦朧とした意識の海に溺れていたためか、今ひとつ、夢と現実の境目が分からない。


 しかし……脳裏によぎった楊炎の優しい笑顔……あれが確実に夢であることくらい、稜花だって分かる。あまりに現実味が無さすぎる。どれだけ願望が膨らんでいるのだと苦笑交じりに、頭の片隅から追い払った。



「ごめんなさい、珍しくてつい。この馬で、稜明軍の元へ行くの?」

「――はい、駆けるのはまだお体に触りますでしょうから、私が引いて参りましょう」

「え? そんなの、悪いわよ」

「何を仰いますか」


 楊炎は相変わらず、ぶすりとした無表情を見せて、短く言葉を切った。こういったときの彼は、何を言っても譲らないことくらい稜花だって分かっている。急ぐ移動でも無いので、大人しく従うのが良いだろう。

 そもそも、今の稜花の状態では、正直、駆ける馬に騎乗したままで居られる自信などないのだから。


「……じゃあ、お願いするわね」

「畏まりまして」


 一礼をした楊炎は、手綱を引いたまま、稜花に手を差し出す。確かに今の状態の稜花一人で騎乗するのはなかなか骨が折れそうだ。素直に彼の好意にあやかろうと、稜花も楊炎の手を取った。




「稜花姫!」


 しかし、後ろから声をかけられて、その場に留まることを余儀なくされた。

 振り向かなくても、声の主が誰なのかくらい稜花には分かっている。もう少し早く出立しておくのだったと心から後悔する。

 仕方なく、楊炎から手を放し、稜花は後ろを向いた。


「楊基殿」

「目覚められたか」


 真っ直ぐに稜花に近づいてきたかと思うと、彼は目を細める。

 後ろには高濫を含め、数名の護衛兵がずらりと並んでいる。しかし楊基は彼らの存在を気にすることも無く、稜花に真っ直ぐ手を差し出した。

 立場上、邪険にするわけにもいかない。大人しくその手をとったが、彼に対しては言いたいことのひとつやふたつーーいや、山ほどある。後ろの高濫にも、だが。



「ずいぶんな作戦だったわね、楊基殿」


 こうまで直接的に毒を吐いたものだから、後ろの兵たちが少々驚いたような顔をしている。稜明の者が散々抗議したとは聞いていたが、流石に策を了承した稜花までが文句を言うとは思っていなかったのだろうか。


「それでも、姫は成された」

「……満身創痍だけれどね」


 酷い怪我だと、稜花自身も思っている。

 とてもではないが、この秋、他領へ嫁ぐ女性の肌では無くなっている。今は衣でびっちりと覆い隠しているが、全身傷と青あざだらけだ。一月や二月で、綺麗になるとも思えない。


「おかげさまで、とても、嫁入り前の娘の状態とは思えないわよ?」

「問題ない。私が責任をとろう」


 楊基はふと笑う。

 相変わらず、威風堂々と言った様子の、王者の笑み。しかし、僅かにそこに柔らかさを含んでいる気がして、稜花は首を傾げた。

 僅かに引っかかる程度の違和感だが、以前の彼とは、少し違う気がする。笑みの中にさえ覇気を含み、射竦めるような表情をしていたのに、今はその覇気をあえて出していないような。


 そうして楊基は稜花の頭を撫でる。

 何度か触れられた髪だが、今回ばかりは少し抵抗がある。泥だけは落としたものの、ここは戦場。しかも床に伏せったままの状態だった。艶を失った髪を触られて、嬉しいはずがない。


「楊基殿、今は、髪は――」

「どうした。まるでおなごのような事を言うのだな」

「……貴方の妻になる女だけど、何か」

「ははは、確かにそうだ」


 憮然とした稜花を見、楊基は闊達とした様子で笑った。それは実に真っ直ぐな笑みで、普段の本心を隠すためのものとは明らかに違う。一体どんな心境の変化かと頭を捻るが、彼に気を許してはならないことくらい稜花だって知っている。



「――王威は、確かに、討ち取ったわよ?」


 だからこそ、確認せねばならない。

 出陣する前に、彼と交わした約束を。


「案じられるな、私は約束は守る。姫には一軍と……戦に出られる環境を整える事を約束しよう」

「楊基殿っ!」


 楊基の言に、咎めるような声が飛んできたのは稜花の後方からだった。

 驚きで目を丸めながら、稜花はその声を主を目で追う。目を細め、咎めるような表情で楊基を見つめる者――それは楊炎だった。


「そう怒るな、楊炎」

「先日も申し上げたでしょう。このような傷を負わせてなお、姫を戦場に送り出すというか」

「案ずるな、姫の希望があれば、だ。無理に出陣させる気など毛頭無い」


 さらりと楊炎の言を言葉で制して、楊基は改めて稜花を見つめた。



「稜花姫。以前も申し上げたとおり、私は王になる。そして、私の隣には貴女が相応しいとも、思っている」

「……」


 彼の瞳からは、すっかりと笑みが消えている。

 普段の余裕ある様子は全く見られず、ごく真剣な眼差しが稜花をとらえていた。


「私は、常に自分の命を秤にかけている。おそらく、貴女を巻き込むこともあるだろう。それでも、私は貴女を欲している」

「……」

「王威を落としたその腕。そして豪運。見事だった。――昭で待つ。今更、逃げようなどとは思うまいな?」

「当然」

「――良い子だ」


 その答えに楊基は満足そうに頷き、稜花の手を引いた。

 稜花の体は、いつものようには動かない。楊基のなすがまま、彼の懐へ抱きすくめられてしまう。そしてそのまま、風のように唇を攫われた。


 ――え。


 何が起こったのか分からなくて、目を見開いた。

 ただ、つい今し方まで、楊基の顔が随分と近くにあった気がする。唇に触れた柔らかな感触。今のはまさか――


 ――真っ白になった頭で、呆然としながら楊基を見つめる。

 馬鹿みたいにぽかんと口を開けてしまい、楊基は吹き出すようにして笑みをこぼした。


「姫にはまだ早かったか?」

「……なっ……!」


 返す言葉が見当たらない。わなわなと肩が震えて、もどかしいような、怒りに似た感情が沸き起こる。

 そんな稜花の様子を気にすることも無く、くつくつ笑いを浮かべながら、楊基は稜花に背を向けた。実に楽しげな様子なのがまた憎らしい。

 しかし、立ち去ろうとした際、楊基は再びその表情を引き締めた。怖いくらいに細めた眼差しをちらりと寄越して、言葉を吐く。



「――昭に来る際、身辺には気をつけられよ。楊炎もいるだろうから、心配はしていないがな」

「え?」

「いいか、必ずだ」


 警告のような言葉を残し、楊基たちは颯爽と立ち去ってしまった。

 稜花は彼の意図するところを汲み取ろうとして口を閉ざす。しかし、後ろから肩を叩かれ、思考に耽る時間はそう長くはならなかった。



「姫」


 刺すような視線が、稜花に向けられる。何をそんなに責められることがあるのかと考えたが、答えは簡単だった。

 楊基に気を許してはならない。きっと、そう伝えたいのだろうと、稜花は結論づける。


「ーーごめんなさい。行きましょう?」


 今度こそ、楊炎の手を取る。そして余った方の手で、稜花は無意識に自分の唇を触った。

 楊基が触れた唇。一瞬であったが、おそらく、唇を奪われたのだろう。

 生まれて初めての接吻を、このような場で奪われ、落胆するような憤るような複雑な感情が浮き上がったのは事実。しかし、それと同時に、何か別の――まるで、覚えのある感触だったような――気がしたが、あくまでも思い違いだろう。


 曇った表情で、ちらりと楊炎の方を見る。稜花に背を向けてしまった彼が、どういう表情をしているのかはわからない。ただ、稜花を引く手に力がこもっている気がして――でもすぐに、まさかね、と脳内の願望を振り払う。


 確実に、楊炎を想う気持ちが増している気がする。恐ろしいことに。

 しかしこの想いをどうすることも出来なくて、稜花は目を伏せた。


 楊基の妻になれば、忘れることが、出来るのだろか。

 ――それとも、伝えることすら許されなくて、益々積み重なっていくものなのだろうか。


 考えるだけで億劫になるけれど、今更運命は変えられない。

 この秋には、昭へ向かうのだ。

 昭の領主――やがて王になるであろう男、楊基の妻になるために。

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