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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第二章
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繋がる糸

 何も残ってはいない。切り開かれた山肌は、土と掘り起こされた岩、そして僅かな草木が混じり合った状態で、ただ土色の斜面が広がっている。

 勢いよく流れていった土砂は、むき出しになっていた山の中央部だけでなく、草木生い茂る東西部にまで流れ込んでいる。この大規模な災害に誰もが言葉を失っていた時、楊炎は、ただひたすら走っていた。


 中央部は泥でぬかるんでいて、とてもではないが立ち入れる状況では無かった。一旦西の山道へ回り込む。

 ただその山道も、とても馬で入っていける状況では無い。道とはいっても少し草木がよけられているだけだし、今はかなりの泥も流れ込んでいる。仕方が無いので馬を乗り捨て、楊炎は坂を下る。




 手を伸ばして、届かなかった。

 目の前で土砂に呑み込まれたのを見ていることしか出来なかった。

 王威と転がり合うようにして、土色に消えていった彼女。とても――とても助かったようには思えない。それでも。


 歯を食いしばる。

 ぬかるみに足をとられるが、それでも無我夢中で楊炎は山を下っていった。



「……ぐっ!」


 声が漏れた。

 後悔と、悔しさ。それからこれは――絶望。

 いつか感じたことのある、手に入れるどころか、奪い取られるだけの感覚。そうして全てを失ったからこそ、闇に生きてきた。


 そんな中で、唯一手に入れたものだった。

 いや、手に入れたのでなく――彼女から、側へ歩み寄ってきてくれたのだ。

 触れることを許し、望むことを許してくれたにも関わらず、それでも、自ら触れることは出来なくて。ただ、与えられることを傍受することしか出来なかった。

 彼女が自分のものにはならないことは決定している。だからこそ、側で見守り続ければ良いと、そう思っていたのに。


 それすら、自分には出来なかった。

 目の前に居たのに。彼女を失った。



 西に――落ちていった……!


 最後に目に捉えたのは、西側へ流されていく彼女たちだった。王威に抱え込まれるようにして、土にまみれて。


「王威……!」


 離すな。と、心の中で命じる。

 あんなにも危険な人物でありながら、この時ばかりは、祈るようにして奴の姿を思い浮かべる。

 どうか、彼女の手を離さないでくれ。この土砂の中、ただ一人で投げ出すようなことだけは、どうか。





 随分と走り回ったように思う。

 土砂の中から、壊れた馬避けの柵、すでに動かなくなった馬や人の影がのびている。それを横目に、更に奥に進む。

 もしかしたら再度、土石流が流れてくる可能性はある。それでも……いや、だからこそ、一刻も早く彼女を見つけなければいけない。


 力を込めれば折れそうな程に細いーー想像していたよりも、随分と華奢な体躯だった。

 抱きついてきた彼女に、抱きしめ返したいという欲望が生まれなかったかというと、嘘になる。胸に顔を埋めて、幸せそうに微笑む彼女から、目が離せなかった。

 あの小さな体を。美しい笑顔を。目の前で失うなんて事、考えたくも無い。



 ぱたぱたと、雨が降り注ぐ。西の森には差し込んでくる明かりもそう多くない。視界が塞がれて、実に厄介だ。

 せめて、両の目が開くならば。視野が少しでも広ければ。そう願ったところで、どうしようも無い事は分かっている。だが――。


 激情に駆られるようにして、楊炎は左眼の眼帯に手をかける。ばつりとそれを引きちぎった。

 光が届かぬこの左眼。それを晒したところで、どんなに無意味なことか分かっても、かまいはしない。ただその役には立たぬ左眼も、雨が降り落ち、瞼の感覚だけは残っているのかと実感した。



「姫!」


 名を呼ぶ。

 土色の大地に呼び声が吸い込まれていく。無駄なことを、と大地にすら言われている心地がして。

 しかし、それでも構わぬ。返事さえあればと、何度も何度も名を叫んだ。


「――稜花姫っ!!」


 ぬかるみに足をとられながらも、走った。急な斜面が続いているが、気にはしない。低い草木は土砂になぎ倒されており、それを足場にさらに下へと踏み行っていく。ばきばき、と枝が折れる音がする。



 心音が早くなる。

 何処まで分け入っても、土色と、湿った草木の世界。楊炎の求めているものなど見当たらなくて。動くものの気配すら無く、絶望する。

 ぎゅう、と両手を握りしめる。胸がかきむしられるような感覚すらして、その痛みに耐えきれなくなった。


 足を止めて、大地に膝をつく。自分の無力さを実感するなど――幼き日々から、思い出すか限りなかった。

 それもそうだろう。

 楊炎にとって、こんなにまで心砕く対象など無かったのだから。望むことを知らなければ、無力さなど知りうるはずが無かった。手を伸ばして、届かない。その絶望など、思い出したくも無かった。


「……」


 ぶるぶると、崩れ落ちる。

 前に進め、姫を探せ、と叫ぶ心と、絶望に疲れてもう諦めよという声。二つの心のせめぎ合いが、痛い。

 ぼんやりとした瞳で、白く霞んだ世界を見つめていた。




 その時だった。

 微かに――視線の向こうに――何か動くものが見える。

 何ぞ、と思った時には、もう体が動いている。地面につけた膝を立てて。再び楊炎は歩み始める。


 雨粒の白の中に、黒い影のようなものがゆらりと、起き上がったかのようで。しかしすぐに崩れ去る。

 ただの希望的観測に過ぎないのは、楊炎だって分かっている。だが、今の影、随分と華奢で、小柄では無かったか。



「姫っ……!」


 楊炎は叫んだ。手を伸ばす。

 あのとき、掴めなかったその小さな手を捕らえたくて。宙を掻くようにして、前に出す。



「……っ!?」


 雨の白をかき分けて進んだその場所。動いたものを確認するため駆けつけた時、楊炎は言葉を失った。

 ぱたぱたと。雨が降り落ちる。土色の水が周囲に小さな川を成している。その流れをせき止める形で折り重なるように倒れている人影が、二つ。


 一つは王威。

 天を仰ぐようにして目を見開いたまま、ぴくりとも動かぬその腹には剣が一本生えている。

 当然、奴にこの剣を突き刺したのは――奴の上に覆い被さるようにしてうつぶせに倒れている少女であろうが――。



「……姫っ」


 ばしゃばしゃと。流れる土色の水を掻き分け、ぬかるみに足をとられながらも、楊炎は彼女の元へと急いだ。

 王威の胸に顔を預けるような形で、ぴくりとも動かない。艶を無くした青銀色の髪が、無残にこびり付いている。

 慌てて彼女に触れようとして前に出た手は、その直前にぴたりと止まる。


 ――もし。……万が一。彼女に何かあったとして。冷静に居られるだろうか。


 無事を確かめることすらこんなにも恐ろしい。臆病心に溺れる心があったなど、初めて知った。うっと息を呑み込み、目を閉じる。しかし、楊炎はすぐに首を振った。

 一刻も早く、無事を確かめねばならぬ。



 彼女の肩に触れた。力を入れて、体を起こす。

 泥や血にまみれた顔。青白い唇。体中に残った打撲や傷。

 そして――大きな手の痕がくっきりと浮かび上がった首筋。


「……っ!」


 息を呑み込んだ。信じられなくて、信じたくなくて、言葉を失う。

 ぐいと体を引き上げて、肩を抱いた。昨夜と変わらぬ華奢な体は、力を失って随分と重たく感じる。くてりと楊炎のなすがままに引きずられるその体に恐怖し、ただただ、狼狽した。



「……姫っ」


 彼女がこんなにも冷たいのは、雨に打たれ続けたからかそれとも――。確かめるのすら億劫になるが、彼女を抱え込む。


「姫……!」


 どっと後悔が押し寄せて、瞼を落とした。ぱたぱたと降りしきる雨が、彼女の頬にこびりついた泥や血を洗い流す。

 堪らなくなって、楊炎はその肌を拭き取った。真っ白な頬が痛々しい。目を細めて、彼女をきつく抱きしめる。



 けふっ。


 細い。声が聞こえた。

 楊炎は咄嗟に顔を上げ、稜花の顔を覗き込む。


「ん……」


 ぴくりと、瞼が動いた気がする。彼女を抱きしめる手が、震える。そして楊炎は更に呼びかけた。


「姫!」


 ゆっくりと。呼びかけに応えるように、うっと彼女は声を漏らす。動いた瞼は、僅かに開いて、ぼんやりと楊炎をとらえたようだった。


 じわりと心に熱を帯びる。

 安堵と、喜びと。大切な者がこの手に戻ってきたことが、こんなにも……。



「よう……え……」


 掠れた声で呼ばれて、堪えきれなくなった。返事の代わりに、ぎゅうと彼女を抱きしめる手に力を込めた。

 冷え切った肌をいたわるように撫でると、稜花は目を細めて微笑む。戦場とは思えないほど、柔らかな表情。潤んだ瞳に目を奪われて、楊炎は押し黙った。


 稜花にただただ見惚れていると、彼女は僅かに手を上げ、眼帯の無い左目の傷痕をそっとなぞる。


「笑っ…てる……」


 そう告げられて、目を丸める。

 笑っている?

 誰が?

 問いかける前に、彼女はますます目を細めた。

 真っ白な肌で。呼吸すらままならないのに。それでも、蕩けるような極上の笑顔を浮かべて、まるでうわ言の様に呟いた。



「だい……す…き……」


 すう、と。静かに息を吐き。彼女は再び目を閉じた。

 かくりと、身にかかる彼女の力が重くなり、再度気を失ったことがわかる。弱々しくも、胸が上下しているから、最悪の事態は免れたのだろうがーー。



 ーー今、何と言った?


 確かに聞こえた。か細い声だったが、間違いなく聞こえた。


 ーー薄々、勘付いてはいたのだ。

 目の前の、華奢な少女が己に対して純粋に向けてくれる好意は。


 頬を撫でる。

 いつもこの顔は、泣いたり、笑ったり、怒ったりで忙しい。楊炎の知りえぬ感情をころころと見せてくれる。正面から自分と向き合い、手を伸ばしてくれる少女。


 堪え切れなくなる。そんな彼女の、真っ直ぐな気持ちを知って。

 彼女とて、楊炎に伝えるつもりがあったとは思えない。本意ではないだろう。あの言葉は。

 夢うつつ。おぼろげな意識の中で言葉として溢れ落ちただけなのだろう。



 たとえ、そうだとしても。


 震える手で、彼女を抱く。

 許されることでは無いのだろう。

 立場も、身分も。何もかもが、彼女の想いに応えるには、相応しくない。

 それでもーー


「私もーーお慕い申し上げております」


 ーー今なら。


 彼女が気を失っている今しか。その想いに応えることは許されない。

 目が醒めれば、全てがなかったことになる。彼女は他領へと嫁ぐのだ。そして、自分は一生、彼女の影として生きるのだろう。


 ーーだから。せめて、今だけは。


 彼女の唇に指を這わせる。寒さで色を失っているが、形の良いそれ。そうして頬に手を添えた。


「……」


 お許し下さいと、心で念じる。

 どうか、貴女の想いに応えることを、許して下さいと。



 目を細めて、顔を近づける。

 冷え切った肌。

 凍える彼女の唇に、楊炎は自身の唇を重ねた。

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