初陣(1)
「稜花、行けるか」
「もちろんよ」
李永に強い眼差しを送られて、稜花は頷いた。同じようにして、愛馬である梓白も嘶く。
「大丈夫、私に任せといて」
そう宣言して、両手に双剣を握りしめた。握る手が、少し、汗ばんでいる。父の前では、平静を装っているが、内心はどこかに行ってしまいそうなくらいに、心臓が音を立てている。空気が重くて、息が苦しい。
今日、この日は稜花にとっての初陣となる。
相手は北方騎馬民族の生き残り。どうやら先日の防衛の際、総大将の弟にあたる男が逃亡したらしい。そして同じ幾つかの北方民族同士で手を組み、再度南下してきた。いわば、今回は先日の防衛では果たし得なかった殲滅戦といったところか。
今回、敵兵はそう多くはない。前回も数ばかりで個の実力はたいしたことは無かったと李永は言っていた。だからこそ、自分を連れてきたのだろう。稜花はそんな事を思いながら、父の顔を見た。同時に、自分に言い聞かせる。
——父上が私を連れてきてくれたって事は、絶対、勝てるつもりでいるんだ。勝てる、戦なんだ。だから、大丈夫よ。きっと。大丈夫。
自分が震えていては、兵だって従わない。十分すぎるくらい余裕を持っていたらいい。それくらい、わかっているのに。身体の緊張はほぐれない。けれど、戦いの時は一刻一刻と迫ってきている。
「伝令! 敵の中隊が北西の方角に現れました!」
「そうか」
駆けつけて自分の足下に跪いた兵に、李永は目を向けた。それから、自分のそばに立つ二人の将に目を向ける。一人は古くから李永に仕える大槍を担いだ男、泊愉。そしてもう一人は稜花だった。
「泊愉軍はかの中隊の足止めをせよ。稜花隊は私と共には裏手へ迂回、砦を落とす」
「はっ!」
まずは泊愉が礼をし、即その場を駆け去っていった。そして、伝令に来た兵につき、長い坂を下ってゆく。 敵の総大将がいるのは、今、稜花達がいる丘の頂。彼と合流するためには、この坂を登って行かなければいけないのだ。
「姫、我々も参りましょう」
「ええ——」
後ろから声をかけられて、稜花は戸惑った。低い、声だった。
「では稜花、頼んだぞ」
「はい、父上」
「楊炎、稜花の補佐を頼む」
「御意」
楊炎。そう呼ばれた低い声の持ち主は、礼し、すぐに踵を返す。その後ろ姿を、しばらく眺めてみて。稜花は思う。
——違う。
年のほどは二十半ばの兄とたいして変わらないだろうに。——全身にまとわりつく気配、空気。何もかもが違った。
楊炎。しなやかな細身の体にはしっかりと筋肉が付いており、全身を鈍色の鎧で包み込む。さらに彼を覆っているのは暗い血色のマント。禍々しいとも言える異様な雰囲気に飲まれるようにして、稜花は息をのんだ。
いいや、異様なのはその服装のみではない。鎧から見える彼の肌には尋常でないほどの傷があったし。その中でも一際印象深いのは、眼帯で覆いきれないほど、左瞼の上から頬までざっくり裂けた——あまりにも痛々しい、古傷。整った、精悍とも言える顔には似つかわしくない大きな傷跡が、彼の武勇を物語っていた。
楊炎の隣に並んで、彼の顔を横目で見た。それに気がついたのか、楊炎は稜花に視線を向けたが、それはほんの僅かの間。その一瞬が、怖い。
胸の重みが苦しい。もちろん初陣だからと言うのもあるだろう。しかし、眼帯で覆われていない楊炎の片眸は。ひどく。おそろしい。横顔を覗くだけなのに、どうしてこんなにも、気になって仕方ないのか。
怖いもの見たさ。少し違うような気がするけれど、その表現が一番稜花の気持ちに近い。熱を帯びていない、深く、底が見えないくらい暗い、瞳。一体何が、彼にあんな瞳を持たせたのか。それは知らないけれど。
同時に、恐ろしいながらも、どこか安心はしていた。初陣だからといって、あまりにも心配性な兄、李公季が、彼を自分につけてくれたのだ。
元来楊炎は李公季の護衛将である。数多くいる私兵のうち、李公季が最も信頼している人物の内の一人というのは間違いないらしい。その腕のほどは、兄が保証してくれた。
もちろん、稜花自身の目でも確かめた。不意打ちを打ったのだ。彼がどの程度の腕なのか見極めたくて。その結果は、言うまでもないだろう。稜花がこうやって、文句ひとつ言わずに楊炎を傍にいさせているのだから。
「姫」
馬の準備を終えると、せかすように楊炎が呼びかけた。それに、頷き返す。
「ええ、行きましょう」
そう言って、稜花は愛馬の梓白にまたがった。楊炎も騎乗し、兵士たちは稜花の前に整列をする。向こうもさることながら、李永軍もそんなに兵を連れてきてはいない。稜花隊は特に人数が少ないが、その分指揮はとりやすい。
「我が隊はこのまま東へ進軍! 砦を制圧するわ!」
兵は静まりかえっていた。その様子を、後方で李永が眺めているのがわかった。
「進軍!」
震える気持ちを奮い立たせ、号令をかけた。それと同時に、兵は反転する。五人一組で小隊を作り、常に陣形を気にしつつ進軍する。砦制圧は時間との勝負だ。泊愉軍が敵将に押される前に、制圧を終えていなければならない。
「肩の力をお抜き下さい」
「……っ」
後ろから声をかけられて、稜花はそちらの方を見た。見た先に、楊炎の冷たい視線がある。そしてそのまま、楊炎は何も言わずに稜花の前方へ走っていった。稜花と対照的な——漆黒の馬に跨って。