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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第二章
39/84

汰尾の戦い(7)

 ……。


 ……。


 ……冷たい。


 空から降り注ぐ大量の雨が、こびりついた泥を流し落とす。しかし、体はピクリとも動かない。濁流のような土砂に巻き込まれ、体温を奪われ、鈍い痛みが冷たさで感覚として消えていく心地すらする。


 ……こふっ。


 喉の奥に、何かがつっかえている。

 ざりざりとした感触が口内いっぱいに広がっている。


 けふっ……けふ、けふ。


 気管からどうにか息を吐き出して、口の中の泥を吐き出す。そこまでしてようやく、ぼんやりとした意識が確認できた。



 ――生きてる……。


 恐らくだが。

 胸が苦しくて、呼吸がままならぬ。体を動かそうとすると、感覚が無くなっていたはずの痛みが蘇ってくる。鈍く、重い、体の芯に響くような痛みに、表情を歪める。


 空気が薄い。顔の周りが何かに塞がれているかのように、十分に空気が入ってこない。

 しゅ―しゅ―と、か細く息を吐き出し、新しいものを口内に取り込む。

 苦しい。

 周囲の状況を確認したい。

 しかし、泥がびっしりとこびりついている瞼を開けるのが億劫だ。

 細く。限りなく細く目を開く。しかし、目が全く役割を果たさない。そもそも稜花は、今どの方向を向いていて、何を見ているのかもわからない。全てが真っ暗な世界。


「うっ……」


 ようやく声らしい声が漏れた。ごほごほと再度泥を吐き出してようやく、頭が動き始める。


 ――良かった。


 やはり、生きているようだ。凍える肩をどうにか動かそうとして身じろぎする。しかし、体をがっちりと抑え込まれるように、全く動かない。何かに挟まれたか、骨をやられたかと、絶望的な気分になった後、稜花の脳裏にこれまでの記憶が流れ込む。




 ――王威。


 土砂に呑み込まれる直前、最後に見たのは王威だった。奴に掴まれ、もがく様に稜花自身もしがみ付いた。

 胸がざわりとする。

 先ほどから抑え込まれたかの様に体が動かないのは何故か。

 両腕と胴を締め上げる様に巻きついているもの。これは何か。



「……んっ!」


 稜花はもがいた。何故、光が入ってこない。何故、真っ暗なのだ。自分の頭を抱える様に覆っているものは――


「やだっ……」


 恐怖する。

 間違いない。自分は確実に、抱え込まれている。では、誰に?


 そんなもの、一人しかいないではないか。



 ――放してっ!


 どんどんと、抵抗する様に腕をどうにか動かす。しかし、自分よりもはるかに大きな巨体に押し込められては、自由などききそうもない。

 そもそも、奴が生きているのか。そうでないのか。

 どちらにせよ恐怖に体が震える。


「おう……いっ……!」


 ぐいと、腕に力を入れて押す。全身の骨に響くかのような鈍痛が走るが、恐れてはならない。一刻も早く、稜花は奴の腕から離れねばならぬのだ。

 その抵抗がきっかけになったのかどうか、全身を抱きしめる太い腕が、ぴくり、と動いた気がした。



「……う……」


 低い声が漏れる。

 ぎしぎしと、自分を包んでいた体が動き、稜花から離れる。顔を覆っていた胸が離れたかと思うと、僅かに光が差し込んだ。

 空気中に露わになった稜花の頬に、依然降り続ける雨が落ちてくる。こびり付いた泥が流れ落ちていくのがわかる。気がつかなかったけれど、随分と気温が低い。いや、稜花自身が寒く感じているだけかもしれないが。



 どうやら土砂に流されて随分と下まで落ちてきてしまったらしい。木々にが生い茂った環境を見ると、流れから逸れたのであろう。切り開かれた山の中央部ではなく、山の西側か東側に押されてきたことが分かる。

 一部の木は土砂によって倒されており、深い緑が土色に覆われていた。


 泥と水に完全に体温を奪われている。ここに寝っ転がっているままだと危険であることくらい、稜花は認識していた。土砂崩れが起きた直後のこの状態。そして――目の前の、王威。



「む……うう……」


 ――生きてる。


 仕留めなければ、と、稜花は思った。

 奴にしがみついていなければ、稜花自身、死んでいたかもしれない。

 それでも。その恩を踏み倒したとしても。なんとしても。稜花は奴を仕留めなければいけない。


 善とか悪とか使命とか、そういうものではない。

 ただ、恐怖。

 とっさのことだから掴み合っていたけれども、この男、目が覚めたら間違いなく稜花を殺すだろう。




 けふけふっ。

 むせるように咳き込む。肺が、十分に働いていない。ひゅうひゅうと息を吐き出しながら、稜花はどうにか体を起こし、目を開いた。

 王威は仰向けになり、浅く息をしていた。ぱたぱたと雨が彼の泥をも洗い落とし、頬を濡らす。


 こんなに近くで。初めて奴の顔をまともに見た。

 いつもならば大きな冑に覆われているため、奴の顔はよく見えない。

 いや、奴の場合は顔の造形などよりもその存在感だけがやけに目についた。自分とは明らかに異なる存在に、畏怖する感情しか残らなかった。

 だからこそ――今、こんなにも戸惑っている。



 自分よりも随分年上の――勇壮な顔立ちの男だった。

 無謀な環境に身を置き、危険を好み、己への障害を捻り潰すこの男。恐ろしいほどに、その肌は綺麗だった。

 絶対強者。その名がふさわしいほど、傷一つ見当たらない。

 歴戦の猛者というと、若い頃に負った傷のひとつやふたつ。死線を越えたというのならば数多の傷を持っていても何も不思議では無いというのに。


 その人間離れした存在。

 彼の狂気に、数多の者が巻き込まれた。村人同士で殺し合いもさせられた。無謀な戦に送り込まれた兵も数多く居るだろう。消耗品として、民を使用する男。この男を、放って置いて良いわけがないのだ。




 ぎりぎりと、痛む体を何とか動かす。

 ぬかるみに手を落とすと、ずるりと深く体が沈む感覚がして、体重を預けられる場所を探り探りで押さえる。もう片方の手は、彼女の腰に手を当てた。


 今日、弓で戦場に出たのは不幸中の幸いだったかもしれない。

 稜花の腰には、いつもの双剣がぶら下がったままだった。



 するりと、片方の剣を引き抜いた。

 はあ、はあ、と細く息をしながら、王威の方へと体を寄せる。

 まだ、彼は目を覚ましていない。たとえ卑怯者の烙印を押されようとも、ここで仕留めるしか無いのだ。


 ――手が震えるのは、奴を仕留めるのが怖いからでは無い!


 そう言い聞かせるものの、ぶるぶると、腕が震えて狙いが定まらない。

 急所を目の前にして、あとは振り落とすだけ。それだけでいいのに――



 ごほごほと咳き込む声が聞こえて、稜花の体は震えた。瞬間、恐怖心に襲われて、考えるより先に体が動く。稜花は奴の首をめがけて、腕を一気に振り落とす。

 自責の念に駆られながら、目を閉じる。まもなく、肉を切る感触が、稜花の腕に残るのだろう。稜花は卑怯者の烙印を押されるのだ。



「……っ!」


 しかし、そんな感触など、いつまで経っても訪れなかった。

 剣先がぬかるみに呑み込まれるような柔らかい感触に包みこまれて、目を見開く。

 先ほどまで王威の首があった場所。すでにただの泥しかない場所に、稜花の剣は完全に呑み込まれていた。


 何、と思った瞬間、もう遅い。

 ごろりと、体を転がしていた王威は、もう稜花の膝元に居る。

 苦しそうに息を吐き、憎悪にまみれたその眼光に睨み付けられ、稜花は射竦められた。



「女っ……貴様っ」


 寝首を掻く卑怯者と、侮蔑するだろうか。

 それとも、多くを巻き込んだであろうこの策に対する憎悪だろうか。

 見たことも無い、明らかな憤怒をぶつけられて、稜花は震える。


 ぬかるみにはまり込んだ剣を抜こうとしたがままならない。恐怖で体が震え、しかし、剣を離してはならぬと焦る気持ちだけが募った。

 ぐいと、下から腕を伸ばされ、稜花は目を見開く。奴が片腕を真っ直ぐに稜花の首へ伸ばしてきた。


 稜花の細い首など、奴の片手で十分らしい。ぐいと握りしめられ、その苦しみに耐えかねて声を出そうとする。しかし、気道をがっちりと押さえ込まれて、声を発したくても出てこない。



 呻くような音が微かに漏れ出るだけで、稜花はもがき苦しんだ。体を反らせて、後ろに倒れ込む。手から剣が離れて、そのまま王威と重なり合って坂を転がる。

 体勢が入れ替わるようにして、王威も稜花の首を掴んでいられなくなったらしい。僅かに空気が通い、肺に息を吸い込むがそれも一瞬のこと。再び王威が、今度は両手で稜花の首を絞めにかかる。


 その巨躯にのし掛かられて、稜花は身動きがとれない。

 憎悪にまみれた視線に射竦められ、首を押さえ込まれてしまっては、恐怖に呑まれて何も考えられなくなった。


 じょりじょりと、口内に砂利の味と、鉄のような味が広がる。

 頬に流れるは、雨の滴か、涙か。ぷるぷると、確実へ向かう死への恐怖。目が潤んでいるのか、霞んでいるのか。王威の顔すらまともに見えなくなってきて、稜花は笑みを浮かべる。


 感覚が麻痺してきて、手足が痺れた。

 ここで最後かもしれない。と、潔いその言葉だけが、脳裏に浮かぶ。

 窒息するのが先か。骨を折られるのが先か。いずれにせよ稜花に残された時間は、少ない。




 ぴくり、と口の端を上げて、力を抜いた。

 抗うことなど、出来はしないのだろう。だったらいい。王威こそ仕留め損ねたが、策は、成した。あとは皆に任せておけば、きっと上手くいくのだろう。



 痺れゆく思考の中で、稜花は思い出す。皆の顔。笑顔。護りたかったもの全て。

 そして同時に思い出す。

 その笑顔に溢れた人たちが浮かべた、心配と、怒りにまみれた表情を。

 軍議の際、そしてこの戦場へ送り出す際、どれほど彼らを心配させたのか、稜花は知っている。


 軍の皆は、稜花の顔を見て笑ってくれた。心強いと、前に進んでくれた。

 頬を叩き、叱ってくれた。抱きしめてくれた父もいる。

 この策をふまえて、楊基相手に反論してくれた将だって。


 そして何より。

 手を引いて――抱きしめ返してくれた彼の、温もりがあった。




「……っ」


 心が、拒否した。

 やはり、駄目だ。あの人たちの顔を、これ以上曇らせては、駄目だ。


 手を、宙に泳がせる。感覚がなくなっていて、自分の手が何処にあってどう動いているのか、分からない。ても、弄るようにして周囲を探った。



「……なない」


 稜花は意思を声に出した。

 強く抵抗する心でもって、ぼんやりとしていた視界が、なんとか色を持ち始める。


「何?」

「し……なない。…にたくないっ」


 腕を動かし続けて、ようやく目当てのものに手が触れた。稜花のその腰。残る剣の、もう一方。

 すらり、と引き抜いて。ただ、体重を乗せるだけでどうにか動かす。今の状態で、急所など分からない。ただ、目の前にある王威の体。その大きな的に向かって――



「死にたくないっ……!」



 ただ、剣を突き刺した。

 稜花の言に眉をひそめていた王威が、びくり、と体を震わせた。

 首にかかった圧力が僅かに緩み、咳き込む。ごほごほ、ごほっ。先ほどまで湿っていた喉はがらがらに乾いており、ただ、血の味がこびり付いたかのように固まっている。

 剣は王威の腹を真っ直ぐに突き刺したようで、王威の体がびくびくと震えているのを感じた。しかし、その痛みに抵抗するかのように、王威は再び稜花の首を手で掴む。


「きさ……ま……っ」

「……んっ!」


 ぼたぼたと。流れ落ちるのは雨か鮮血か。

 王威が首を絞めるのが先か、稜花が剣で仕留めるのが先か。稜花は突き刺した剣に力を込め、ぐいと横に薙ごうとする。

 鎧に固められ、思うように剣が動かない。それでも、稜花の全ての力を両手に込めて、剣を動かした。


「ん……ぐっ……女っ」

「……っ!!」


 ぼたぼたと。稜花の顔面に鮮血が落ちてくる。王威の吐き出す血液。真っ直ぐに頬に落ちるそれらが随分と温かく感じる。

 王威の掴む腕の力が不安定になる。ぐいと、力が入ったり、緩んだり。生と死の堺を行き来しているのはお互い様。

 ぎりぎりと、お互いがなし得る限りの力でもって行うのだ。最期の、命の奪い合いを。




「……!」


 腕に力が入らなくなる。目がかすんで、動かなくなってくる。

 それでも、稜花は耐える。




 たまに通る僅かな空気で精神を保ち、どれくらい時間が経ったのだろう。

 首を絞められ、腹を刺し。お互いの急所を攻め合って。

 長いのか、短いのか――時間の経過が全く分からない。

 ただ、稜花にとっては永遠ともとれる時間。

 ひゅうひゅうと、喉に空気が通るのを感じた。


 王威は相変わらず、睨み付けるかのような憎悪の目で稜花を真っ直ぐ見据えている。彼の唇からは鮮血が落ち、相変わらず稜花にぼたぼたと落ち続ける。



 その、絶対強者が。

 稜花に真っ直ぐ、殺意を向けたまま。

 死への恐怖を感じさせない、強者の表情を浮かべたまま。

 戦場で魅せる恐ろしいほどの覇気を残したまま。



 逝っていた。



「あ……っ」


 ごふ、ごふっ。と息を吐く。震えが止まらない。何が起こっているのか分からない。

 ただ、生死の境目を歩いた。その事に対する圧倒的な恐怖が稜花の体を通り抜けた。


「……っ」


 ――嫌だ。


 殺したのは、自分だ。

 多くの者を屠ってきた絶対的な悪に終止符を打ったのは、自分だ。


 なのに何故だろうか。

 今まで、何度も何度も目の前に立ちふさがってきた壁。彼へと向き合う中で、稜花は一歩ずつ前進していった。正面から見据え、恐怖し、それを乗り越えて――。


 自分の人生に、王威が、どれだけ大きな影響を与えていたのかを悟って、そしてそれを亡くした喪失感のようなものが腹の底にぽっかりと穴を開ける。



 ばたりと、王威は目を見開いたまま、体を横たえる。

 地面に埋もれ、顔が泥にまみれるのが見ていられなくなって、稜花はどうにか、奴の体を仰向けに寝かせた。


「お……王威っ……」


 思えば長い道のり。何度も戦場で刃を交え、おそらく罠だと分かっていながらも稜花と見えることを楽しんでいた男。

 倒さねばならぬ、屠らねばならぬとずっと思ってきたというのに、失った今、言葉が出てこない。



 ごふごふ。

 咳き込んだ。

 稜花自身も、もう限界なのを知っている。体には力が入らず、意識が朦朧としている。


 それでも、最期まで強者であり続けたこの男に対しての敬意を、忘れたくはなかった。

 頬を撫でる。

 泥にまみれた顔。そんなもの、奴には似合わない。ぷるぷると震える手で、そっと泥をすくい上げそして、稜花は笑う。


 腹に穴を開けたままの剣。

 これも、抜いてあげなければ、と手を動かす。

 王威らしい、強者として相応しい亡骸を残してあげたい。そうは思ったものの、もう、稜花にはその力すら無かった。


 ずるりと、崩れ落ちる。

 王威の胸に体を預けるようにしてそのまま、稜花の意識は暗転した。



 遠くに、姫と呼ぶ、悲痛な声をとらえながら。

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