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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第二章
37/84

汰尾の戦い(5)

 殺伐としていた軍議も一段落した。あとは、李永と楊基たちで勝手に話をつけてもらえば良いだろう。

 ふう、と息を吐いたところで、稜花は気がつく。

 周囲は異様とも言える空気が流れていた。


 年若い小娘に、戦の行方を左右する大任を負わせる。しかも王威の首まで約束した。

 その小さな肩にどれだけのものを背負わせるのかと、稜花にどんな言葉をかけていいのかもわからず、皆、ただ視線を向けるだけ。

 稜明の者も、昭の者も、ちらりちらりと稜花の様子を窺っては、期待とも猜疑心ともとれぬ複雑な表情を浮かべている。


 もちろん、稜花は周囲がどう受け取ろうが、一度決めたことを覆すつもりはない。

 楊基との賭とも言える取引にただ勝つだけ。この作戦の成功に向けて、明日に備えることだけを考える。



 しかし、そんな中で突然肩を引かれ、稜花は目を見開いた。

 稜花に何か告げる訳でもない。今度はぐいと手首を掴まれ、そのまま天幕の外へと連行される。ごつごつとした手の感触に目を白黒させながら、稜花は相手の顔を見た。


「えっ!? 何っ!? ちょっ、楊炎……?」


 衆目がある中でこのような行動をとることなど、今までの彼では考えられなかった。

 一体、どうしたというのかと思ったが、すぐに答えに行き当たる。その証拠に、楊炎の開かれた片眸からは明らかに怒りの色が滲み出ている。



 ――そういえば、今日、説教を聞くって言っちゃってたっけ。


 完全にそれどころではなかったため、すっぽりと頭から抜け落ちていた。

 しかも稜花の罪状は、勝手に戦場に駆けつけただけではなくなっている。先ほどの会議で、説教されそうな案件が倍々に増えてしまっていた。

 こてりと首を垂れて、稜花は観念した。

 戦場で約束してたのだ。説教くらい甘んじて受け入れてみせよう。言い返さない保証は出来ないが。




 ぐんぐんと彼は速度を上げて、陣の真ん中を突っ切っていく。

 その剣幕に、何ぞと一般兵たちが目を見張っている。普段は注目されるようなことを一切しない楊炎だけに、彼がどれだけ今、余裕を失っているか察することができる。


 彼は気がついているのだろうか。

 稜花には逃げるつもりなんかこれっぽっちもないのに、先程から、手を離す様子がない。



 ぎゅうと掴む彼の手が、随分と熱いことに驚く。何となく、普段の無表情や冷たい態度から、その肌すら冷たそうだと想像していたのに。

 こんな形で彼の温もりを感じる日が来るだなんて思いもよらなかった。

 だからこそ、戸惑う。

 この人の未来を、自分は抱え込む。昭に行っても、彼はきっと隣に居てくれるのだろう。だけど、その温もりまで手に入ることはないと諦めていたのに。




「――姫」


 湿気を帯びた、残暑のねっとりと絡みつくような気候の中、彼の声は鋭く冷たい。

 誰もいない陣の外れまで連れ出されてようやく、彼は歩みを止めた。


 そうして楊炎は、ゆっくりと振り返る。真っ直ぐにその鋭い視線を投げかけられて、稜花はぴくりと肩を震わせた。

 吸い込まれそうな闇色の瞳。片方しか見られない彼の漆黒には、稜花の姿がきちんと映り込んでいる。



 ――私を、ちゃんと見てくれてる。


 否定など、しようがない。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。

 先ほどまでのこわばった表情が嘘のようにゆるゆるに緩んで、力が抜け落ちた。彼は稜花に対して明らかに怒気を放っているのに、そんなことすらどうでも良くなる。

 しかし、楊炎の方はと言うと、稜花を許す気など更々無いらしい。



「何を考えておられるのです!?」

「ひゃっ!?」


 今まで聞いたことのないような怒声に、稜花はびくりと体を震わせた。


「楊炎……?」

「無茶にも程がある! 御身を何だと思っておられる!?」


 そう告げて、楊炎はぎゅうと目を閉じた。

 大仰に息を吐いたかと思うと、口を何度か開け閉めする。色々言いたいことはあるようだが、どうも言葉にならないらしい。


 そのまましばし。

 稜花の手首を掴んでいたはずの彼の手が、今度は稜花の肩へ回された。そうして両肩をがっちりと抑え込まれ、後ろへ引くことすら許されない。



「何故貴女は、こんなにも話を大きくできるのだ!」

「え……ええっ!? 私は、私に出来ることを」

「出来ることの範疇を超えている!」

「えっと……」



 婚約中の身でありながら、単身干州に向かった。一万を超える兵に、たった騎馬二百で向かい合った。他州の兵たちでありながら戦場へ連れて行き、共に奇襲をかけた。それから圧倒的な数の差に紛れて敵将を討ち、注目を集めた。

 極め付けに先ほどの会議である。

 稜花はこの勢力差の中、最前線に身を置く。それも、囮になるために。

 ——更には、王威の首を討ち取るとまで。


 思い返せば、よくもまあここまで厄介ごとを積み上げたものだと、自分自身に感心してしまった。

 楊炎が怒るのも無理はない。とても、婚姻を控えて自領に残った姫君のすることではない。


「たしかに、ちょっと、頑張りすぎたかもだけど」

「やり過ぎだ! 何故こうも動きたがる!」

「楊炎、言葉が……」



 荒くなってないだろうか。

 もしかしなくても、激怒している。

 以前はもっと、静かに怒りをぶつけてきたのに、今日は一体なんだと言うのか。目の前を真っ赤にして、食い入るように見つめられ、稜花はたじろいだ。


 初めて見る彼の姿。思いの丈をぶちまけられ、ただただ震える。

 彼が今更何を言おうが、もう稜花の決意は変わらない。

 恐らく彼も、稜花が明日の出陣を取りやめるつもりなど無いことは承知の上なのだろう。

 しかし、そうであっても稜花を責めねば気が済まぬと――そんな彼の心の内をさらけ出されて、戸惑わないはずがなかった。



「何故、奥にいてはくれないのか。どうしてこんなに、危険に身を置きたがる」


 楊炎は目を細め、ただ、言葉を吐き出す。

 ぎりぎりと、肩に置かれた手に力が入る。肌にくい込んで痛みを感じるが、それを払う気にもなれず、稜花はただただ楊炎を見つめた。

 楊炎は苦しげに、瞼を伏せた。そうして、まるで観念したかのように、か細く言葉を吐き出した。


「どれだけ、心配させれば気が済むんだ……」


 稜花は目を丸めた。

 見たこと無い表情に、聞いたこともないような言葉。

 ずっと隣にいてくれたのに。彼の方から、こんなに素直に気持ちを伝えてくれたのは、初めてのこと。



「……楊炎」


 じいと、楊炎を見上げた。先ほどまでは勢いに驚いてしまったけれど、彼の考えていることは本当に、単純なことだったらしい。

 戦場でも、ずっと感じてはいたのだ。彼の想いは。

 でもこうやって、改めて見つめ合って。ようやく実感する。


 稜花の思い違いでは無かった。

 いつも冷静な彼が取り乱すほど、稜花のことを大切にしてくれている。



 ――嬉しい。


 心が、じわりと熱を帯びるのを感じる。

 肩に置かれた手も、じっと見つめてくれる瞳も、護ってくれるその腕も。

 今、彼の全てが、自分の方を向いている。

 以前の様な無表情、無感情——まるで何もかもを捨ててしまったかのような“何もない”彼ではなくなっている。


 もちろん、その想いは稜花の望んでいるものとは形が違うのだろう。

 それでも今、どんな形であれ、彼の心の中に自分がいる。

 そうでなければ、こんなにも感情を見せてくれる様なことは無いはずだ。




 手を伸ばした。

 無意識だった。

 彼の片眸が、見開かれたのを視界の端にとらえたが、それも一瞬。両手を彼の背中に回して、稜花は顔を彼の胸に押し付けた。そのままぎゅうと、力を込める。



「——ありがと、楊炎」

「……」

「ありがとう」


 思ったよりもずっと広い胸板。とくとくと。普段静けさを纏う彼から、隠しきれない心音が聞こえる。


 ——心地良い。


 ここが戦場である事なんてまるで感じさせない、柔らかな音。


 明日は決戦となる。きっと、血の臭いと喧噪にまみれるのだろう。数え切れないほどの命を奪う。自領のためとはいえ、許されることの無い所業。そんな大きな罪を背負うだろう。数多くの人に憎まれるだろう。

 恐ろしくないと言ったら、嘘になる。——それでも。


 ぎゅうと顔を押しつける。こうやって彼の温もりを感じているだけで、心が穏やかになる。優しい心音に集中するだけで、一切の不安や恐れを忘れられる。

 楊炎がどんな顔をしているのかはわからない。

 でも、彼の腕が、戸惑う様に宙を泳いでしばし。そっと、稜花の背中に回されるのがわかって——。

 その温もりを感じながら、稜花は微笑んだ。


 いつも隣にいてくれた彼が、自分と正面から向き合ってくれたことがあまりに嬉しくて。あふれ出る愛しさという心の熱に溺れる。

 背中に回された手から、彼が受け止めてくれたのを感じてますます胸が高鳴った。



 ——大好き。


 立場とか、身分とか。全てを忘れて言葉にしてしまいたい衝動に駆られる。

 けれど、この心地の良い心音を邪魔したくなくて、声すら発することが億劫になる。

 今までずっと、彼の温もりを感じ取りたかったらしい。





 しかし、その時間は長くは続かなかった。


 ぴくりと、回された腕が震えるのを感じた。

 次の瞬間には、驚く程強い力で、稜花の体は突き離される。

 ぱん、と夢から覚めるような音がして、稜花も息を呑んだ。


「あ……」


 温かな体温から引き剥がされて、稜花は目を見開く。

 ふと視線を上げると、楊炎の戸惑ったような顔が微かに目に映る。そうして彼は直ぐに背を向け、表情を隠してしまった。



「……お戯れを」


 その言葉に、稜花自身もはっとする。

 無意識に体が動いたのだが、今、自分は一体何をやらかしたのか。


 とっさに周囲を見渡して、人影が無いか確認する。衆目は無かったようだが、それにしても……。

 口元を押さえた。ふるふると、体が震えているのが分かる。心臓が、破裂しそうなほど高鳴っている。


 ここは戦場。

 彼は従者。

 そして、稜花は——楊基の婚約者。


 そんな身の上で、触れてはいけない人に触れた。

 心が警鐘を鳴らす。

 呼吸が浅くなり、恐怖に震えた。


「……」


 言葉を呑み込む。

 なんと声をかけたら良いのか。何かを言わなければと必死に探すけれども、なかなか言葉にならない。


「……随分気が張ってたみたい」

「……」


 ようやく出た言葉に対して、楊炎はぴくりと肩を震わせた。


 ——怖い。


 ずきずきと痛む胸を押さえて、どうにか弁明する。

 楊炎は完全に背を向けてしまっていて、どんな表情をしているのか分からない。ましてやもう、心の内を見せてくれることもないのだろう。


「怒ってるのは、わかってるから……その……」


 苦し紛れだと、稜花自身も自覚している。

 しかし本当の気持ちなど、言えるはずが無い。言わなくて、良かった。

 ただでさえ彼の温もりを知ってしまって、何も無かったかのように振る舞えるかすら不安なのに。


 一時のことではないのだ。これから先、ずっと。隠し続けなければいけないのだ。

 楊炎を隣に置いたまま、楊基の妻として振る舞っていくなど――


 ——いけない。怖い。


 稜花は一歩後ろに下がった。

 まずい。平気な顔してこの場にいるなんて、器用なことなど出来ない。今すぐに楊炎の前から立ち去らなければいけない。



「明日の下見してくる。……心配してくれるのは分かるけど、私、やるから」


 じり、と、もう一歩後ろに下がる。


「だから、よろしく!」


 稜花は駆けた。

 一刻も早く、彼の元から立ち去りたい。

 頬が熱い。なのに体は芯から冷えるほどの冷たく感じる。両手で頬を押さえて、夜の暗闇に紛れて、心が落ちつくまで誰にも顔を見られたくない。





 そうして駆けて、しばし。ただ一人で、外の空気を吸って、空を見上げた。


 ぽつり、と、稜花の額に水滴が落ちる。

 ねっとりとした湿度の高い空気。ぶ厚い雲に覆われて、星も月も姿を現さない。


 そんな中で、存在感を示す、雨の滴。

 ぱらぱらと降り始めた雨は、火照った稜花の心を静かに冷やした。



 ——本当に、降るんだ。


 高濫の言うとおりになった。

 つまり、確定したと言うことだ。

 作戦の決行は、明日。



 いつまでも、こんな気持ちではいられない。

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