汰尾の戦い(4)
「……」
稜花でさえ、どう言葉を返して良いやら、わからなくなった。
甘ったるい笑顔。桃色の瞳に同じ色の髪。
柔和な雰囲気の彼が稜花に突きつけたのは、壮絶な戦い――そして、天運すらも要求する策だった。
にわかに信じられない。頭から丁寧に説明されたが、彼が言うようなことがはたして起こるのかどうか。神の仕業としか言えような大仰な作戦は、実現するならば確かに効果的なのだろう。
しかし、運を天に任せるような事が出来るのかどうか。稜花は不安で、拳を握りしめる。
彼の読みが外れたならば、稜花は容赦なく、敵の餌食になるだろう。
これはある種の賭だ。彼本人は、必ず“アレ”は起こると言うが、どのようにしてそのような事を予言できるというのだろうか。
――天災を操る。
本当にそのようなことが可能なのだろうか。
ちら、と稜花は楊基を見た。楊基は変わらぬ、余裕のある表情を見せている。本当に高濫のことを信用しているのだろう。
一方で、李永は信じられないと言わんばかりに、眉をひそめていた。いくら何でも、稜花一人の肩に背負わせるにはあまりに大きい策。父である彼が、黙っていられないのは当然のことだ。
「駄目だ、危険すぎる!」
「そうだ、そんな不確定な作戦で、姫を危険にさらすというのか!?」
「昭の軍師は、我々の姫君に犠牲になれというのか!」
当然ながら、稜明の皆が一斉に反論を始めた。しかし、そんなこと気にとめる様子も無く、高濫は挑戦的に稜花を見つめてくる。
ぐっと、稜花は両手を握りしめた。
悔しいが、稜花一人の判断では、彼の言が正しいのかどうか、わかり得ない。
「宇文斉」
稜花がその名を口にすると、皆がざわりとする。そして視線が一斉に宇文斉の方へ移動した。
「貴方は、どう考える?」
「僕ですか? そうですねー」
稜花一人の頭では判断できない。稜花の信用できる人物の中で、高濫の与えられた情報を正確に読み取る事が出来るのは宇文斉くらいだろう。
そもそも、稜花をここに呼び出したのも彼。きっちりと、最後まで読み通して貰う権利くらいあるだろう。責任を持って、高濫の提示する策の賛否を教えて貰いたい。
「高濫殿とはちょくちょくお話しする機会がありましたからねー彼の読みは正確だと思いますよ。ただ、人の手が及ばぬことに関しては……と皆さんが不安に思うのも確かなんですよねー」
宇文斉はちらと高濫の方を見た。二人の笑顔がばちりと火花を散らしたような気がしたのは、おそらく気のせいでは無いのだろう。
稜花の与り知らぬうちに、随分と親交を深めていたらしい。……いや、深めたのは親交か亀裂かは分かりたくも無いが。
ふうむ、と息を吐きつつ、宇文斉はぽりぽりと頬を掻いた。もう考えは纏まっているだろうに、皆の注目を集めるためだろうか。思わせぶりな態度がもどかしい。
「……高。昭の地では、随分と珍しい姓なのですよねー。高濫殿」
姓は地に根付くと言われている。婚姻で女性が移動する以外には、大きな戦乱に巻き込まれるか、商人であるくらいしか人が移住することは少ない。
ここ数年の戦乱で人の移動が大きくなってようやく、土地と姓の関係性が薄くなったとは言え、名を聞けばだいたいわかるはずだ。
高濫が昭へ移住した者とでも言いたいのだろうか、宇文斉は。
しかし――高。稜花もどこかで聞いたことのある姓だ。
あれはいつだっただろうか。と、考えたところで、はっとした。
「高家の大始祖は高潔。かつての環国――今の干州南西部に居を構えたと言われています。もちろん、昭とは随分と離れています。……高濫殿、貴方、十六年前の戦でこの地から昭へ移住した一族の者ですねー」
干州。それを聞いて、稜花もピンときた。
高越だ。かつて、干州で反乱を起こした頭の一人。確かに彼は干州の者。
なるほど、高濫が干州出身であり、元々この地に詳しいのであれば、かのような天災すら予見できるとでも言うのだろうか。
「先に言っておきますけれど、私は高越とは無縁ですよ」
稜花の思考を先回りするかのように、高濫は釘を刺す。
人の先祖をたどっていくと、僅か四十程度の大始祖にたどり着くと言われている。姓が被ることはそう珍しいことでもないので、高濫の言うことに疑う余地は無い。
こくりと小さく頷いては、稜花は再度宇文斉に視線を送った。宇文斉も心得たりと、口の端を上げた。
「高濫殿は幼い頃から、この地のことを見てきたわけですねー。この時期、そういった自然災害も多かったのでしょう。経験則は十分な検討材料になることは僕も知っていますし、それに。……戦が始まる前から、君はこそこそと準備していたんですよね? ここも一見、普通の陣に見えますけれど、元の地形を知っている者からすると、不自然ですものねー」
「?」
宇文斉が言っていることがまったく理解できない。
高濫が何かすでに、仕掛けを用意していると言っているわけだが。
数々の戦場を見てきたが、この陣にも何も変わったところなど見受けられなかった。山の手前を切り開き、馬よけの柵を張り巡らせる。敵が大規模だからこそ、馬よけの数を増やし、脇の山路へ敵を分散させる。
しかし、宇文斉が言うのだ。
ずっと前から、かなりの精度で、この策は練り上げられ、準備されているのだろう。
高濫のことはまったく信用ならないが、宇文斉が頷くのであれば、信用できる。
宇文斉が浮かべている薄い笑みは、猜疑から来るものではない。
――乗っかっても良いのかもしれない。
稜花は目を閉じて、考えた。
周囲の者たちは、それでも、納得しないのだろう。彼らの反対理由の大部分は、彼女への心配から来ていることは、分かっている。しかし、純粋にそれだけで無い事も、稜花は気がついていた。
高濫の考えた作戦を、稜花が背負うこと。
これは稜花軍に最も大きな被害を被れと押しつけていることに他ならない。
盟主楊基の連れてきた昭の軍師が、何故稜明にその負担を強いるのかが納得が出来ないのだろう。
だからこそ、稜花が言わねばならない。作戦を遂行する稜花こそが、最も主張できる立場にある。
「……楊基殿」
稜花は声をかけた。
稜花の刺すような視線を感じたのか、楊基は目を細める。
策の遂行を指名された稜花が何を言うのか。皆が固唾を呑んで見守っているのがわかった。
「貴方の軍師は、貴方の婚約者に随分と無茶なことをさせるのね」
「本当に、高濫は目的のためなら手段を選ばないらしい」
「……私はまだ貴方のものではない。そのことは分かっているの?」
「そうだな。私も少々、無理を言っているのではないかと感じていた」
楊基は笑っている。
彼の言は、彼の本心を告げているようで、少し違う。
“無理を強いている”と思った上で、“稜花が乗ってくる”とも考えているのだろう。
「そう。そこまで分かっているのであれば、話は早いわ。この作戦、稜明にとってあまりに負担が大きすぎる」
「……そうだろうな」
楊基が認めたところで、周囲が再度ざわめき始めた。
分かっていて押しつけたのか、と口々に反論が沸き起こる。
もっと言いようはあっただろうに、楊基は稜花の出方を楽しんでいるようだ。実に上機嫌な様子で、稜花の方をじっと見つめている。
「そこで、私がこの策を引き受けるにあたって、二つ。昭に要求します」
声高らかに、稜花は告げた。
まさか稜花からこのような言が飛び出してくるとは思わなかったのだろう。目の前の李永は口を開けたまま黙り込んでしまったし、誰もが目を疑うかのように稜花を二度見する。
本当に、失礼な人たちだと、稜花は笑う。しかし、稜花は変わらなければいけないことを、知っている。
いずれは、昭へ行くのだ。
その時こそ、目の前の楊基と対等に渡り合えるだけの力が必要になる。
いつまでも、こんなところで不利益を被って、黙っているようではいられない。
「……聞こうか」
「稜明への補償と、私への補償よ。戦に勝利した暁には、相応のものを頂くお約束を。もちろん、稜明への補償は直接父上と話してちょうだい。……父上、自分の娘が命をかけるというのです。搾り取れるだけ、搾り取ると良いですよ」
歯に衣着せぬ物言いで、稜花は告げた。
そもそも、今の稜明に何が必要か、そんなもの、稜花にはわかり得ない。もっと詳しい者が考える方が遙かに良いことくらい稜花だって分かっている。だから、要求ができるような環境を整える。それが今の稜花に出来る全てだ。
――稜明への置き土産としては、丁度良いかもしれない。
昭に対しての大きな恩。
今後の交渉を有利に進められるきっかけ。
交渉ごとは稜花にとってはまったくの専門外だからこそ、最初のとっかかりだけ置いていく。後は、詳しい者が上手くやってくれるだろう。
「……なるほど、良いだろう。後ほど、李永殿とお話しさせて頂くとしよう。……何、心配せずとも、婚約者殿のご実家に不利益なことなどさせないさ」
そんなことは無いでしょうよ。と、稜花は心の中で全力で否定しておく。
楊基は容赦が無い。稜花に対しても、稜明に対しても、使えるものはすべて使うのだろうし、いざとなったら自分が斬り捨てられることくらい稜花は分かっている。
だからこそ、もう一つの要求が必要なのだ。
「して、稜花姫。もう一つ。貴女への補償をお教え頂こうか」
「ええ、そうね」
稜花は息を呑んだ。
初めて、楊基と対等に話せている気がする。そして今後も、彼と対等に向き合うために。そして昭へ赴いても、稜明の為に動けるように必要なもの。それは――
「――地位を。昭での将軍位。そして一軍を、私に下さい」
皆、言葉を失っていた。
姫君であり、領主の妻となる女性が言うにはあまりに非現実的な要求。
命をかける対価が、妃以外の地位。しかも、戦に関わる武官となるのも変な話。それが褒美となるのかどうか。上手い言葉が見つからず、誰もが口を噤んだ。
「……」
狼狽する皆とは対照的に、楊基は口の端を上げた。
彼が浮かべているのは、いつもの余裕のある笑みでは無い。
稜花が突きつけたある種の挑戦状にどう答えるか、考えるだけで楽しくて仕方の無いような――心の底からの、悦び。
稜花だって気がついている。
彼は、自分に立ち向かってくる者が、好きなのだ。
予測できない事態に愉悦を感じるような、実に難儀な男。
だからこそ、この稜花の要求を突きつけられて、彼が呑まないはずが無い。昭で稜花が何をするつもりなのか、見たくて仕方ないのだろう。
「妃自らが戦場に立つというのか?」
「楊基殿、私を娶ると言うのなら、わかっているのでしょう? 私が、最も自分の力を活かせるのは戦場。奥に納まる女が欲しいなら、妾を囲うことを強くお勧めするわ」
新しく花嫁になる者から“妾”などという言葉が出てきて、激昂するのは昭の将官たちだった。
殿を侮辱するか、と声を荒げるが、楊基が手を差し出して、それを制する。彼の目は、続けよと稜花に告げていた。
「今から、楊基殿が進むは覇道。いくら大領地と言えども、他領からの干渉は免れない。だからこそ、周囲を牽制する旗印は一つでも多く必要なはずよ」
「姫自らがその御旗になると? なれると言うのか?」
「なる」
覚悟なら、出来ている。
楊基への言葉とは、また違った意味での覚悟であるが。
昭へ嫁ぐ目的など、一つしかないのだ。稜明の為。いつでも彼の地の為に動けるよう、同盟相手として援軍を用意したい。
「……私は、今回の戦で王威を討つわ」
王威。この名前に、楊基ですら眉をぴくりと動かした。
「王威は神出鬼没だ。姫の前に現れる保証はない」
「現れるわよ。私と、楊炎がいるのですもの。それに、わざわざ朝廷側に使者を送ってお膳立てまでしてくれたのでしょう?」
「因縁を信じるか」
「ええ、だから約束を! その武功で、貴方の領地での地位を贖おうと言っているの」
稜花は睨み付けるようにして、楊基を真っ直ぐに見据える。
揺るぎない、覚悟と決意。
目の前の男には、一歩も引いてはいけない。約束事をするなら、衆目がある今しかない。
楊基自身の退路を断つ気持ちで、稜花はぐっと瞳に力を入れた。
その稜花の剣幕に、楊基はふと目を細めた。そして満足そうに頷いて、返答する。
「王威を打ち取ったとなれば、流石にその名は脅威となる」
「御旗としては、充分な肩書きだと思うけれど?」
「……いいだろう。稜花姫、貴女に地位と一軍を。……但し、王威を討つという武勲と引き換えに、だ」
無茶だ! と、周囲から次々と抗議の声が上がるが、稜花は全て黙殺する。
そして、前に進み出た。楊基の手前で大仰に傅き、胸の前に拳を掲げる。
「稜明の李稜花、確かにこの役目、拝命致しました」




