汰尾の戦い(3)
本陣に構えたとある天幕。この戦において、同盟軍の名だたる将官が一堂に会している。そんな中に稜花も交じっているわけだが、先ほどから鬱陶しい視線を数多感じる。方向から考えるに、昭の者たちだろう。
あれが噂の、と小声で聞こえてくるわけだが、稜花自身は見世物では無い。
彼らの主である楊基の将来の妻。戦場にいてはいけない身だからこそ、驚くような、咎めるような視線が突き刺さる。
しかしもう遅い。稜花が戦姫であることは昭の者たちも分かっていたはず。それに、楊基自身も、稜花が参戦することに特に文句はなさそうだった。せいぜい、彼に利用されてやるとしよう。
そう思い、厳しい目つきで楊基を見つめた。稜花の視線を感じたのか、楊基は口の端を上げ顎に手を当てる。稜花にとっての針のむしろのような環境、どうもこれを楽しんで見ているようである。本当に、厄介な男だ。
「皆、突如現れた美しき強者に夢中なようだが、良いだろうか」
そうして楊基が皆に声をかける。
誇らしげな表情をしているのはわざとだろうか。自分の婚約者を見せしめるような物言いに、稜花は目を据わらせる。
しかしそれも少しの間。すぐに彼は、後ろに控える桃色の髪の男へと視線を移した。移動の際、楊炎より報告を受けた。あれが昭を率いる軍師、高濫か。
楊基と同じく、随分と若い男である事実に驚く。自軍には宇文斉もいるが、今回は彼の師である恭俊が同行している。同じ一領を支える立場ながら、高濫と恭俊の年齢・経験差に改めて驚く。
「はい、では僭越ながら私が。稜花姫、初めてお目に掛かります。私は高濫、どうぞお見知りおきを」
にっこりと柔和な笑みを浮かべて一礼。さらりと流れていく視線に、検分されるかのような心地がして落ち着かない。しかし彼はさっさと卓へと目を移していた。
大きな卓。戦場の地形を細やかに記された地図の上に、数多の駒が置いてある。
それらを見据えながら彼は、さて、と息を吐いた。
「皆さん、私に思うところもあったのでしょうがよく持ちこたえてくれました。ま、今までの状況に不安を覚えるのも無理ないですからの。我慢しきれずに独自に援護して下さった気の利いた御仁もいたみたいですけど」
皮肉たっぷりに高濫が見つめる先には宇文斉。どうやら稜花を呼び出したのが宇文斉であること。彼は知っているらしい。
二人そろって笑顔で視線を交わし合う。同じ年頃の軍師同士、意識しているのだろうか。
「まさか稜花姫がいらっしゃるとは思いませんでしたけれどね。輿入れ前のこの時期にわざわざ……本来ならば戦場にいらっしゃるお時間など無かったでしょう?」
「もう来てしまったもの」
「流石、殿の婚約者ですね。思い切りと行動力が違う」
くすくすと、まるで女性のように柔らかく笑う。高濫、と、隣で楊基が咎めているが、彼は引く気がないらしい。分かっていますよと軽く流してしまって、改めて稜花と向き合った。
「姫は持っていらっしゃる方のようなので」
「持っている?」
「私などとは背負うものが違うと言うことですよ。楊基様と同じですね」
先ほど、楊基も同じようなことを告げていた。
あまりに意味深な言葉。稜花には理解し得ないが、彼の中では楊基と稜花は何か通ずるものがあるらしい。満足そうな笑顔は、今回は皮肉では無く、単純に稜花という存在を歓迎しているようにも見える。
「貴女戦に出ることには賛成できかねるのですけどね。私は、軍師として、提案させて頂きましょう――ねえ、殿」
「ああ。そうだな」
目の前で二人が視線を交わす。
やはり、と稜花は思った。これは、確実に、厄介ごとを回される。高濫の代わりに、楊基が告げた。
「稜花姫は最高の駒。自覚しているからこそ、ここに残っているのだろう? 覚悟はあるか」
その言葉だけで、囮か、と稜花は悟った。
今日の戦に出た時も十分に感じた。この戦場において、稜花という駒は最高の囮。
この一晩をあければ、敵軍もある程度認識を改めると思うが、女性であることに対する油断はそうそう変わり得ない。同時に、彼女自身が同盟の核であることは、周知されているはずだ。
「あるわ」
しかし、迷うことは無い。
それも分かった上で、戦に参戦することを決めた。
自分が役に立てるのであれば、いくらでも戦場を駆けようと、首を縦にふる。
「よし。将来の我が妻に、この戦を預けよう」
わっと会場にざわめきが広がった。
楊基殿! と、李永をはじめとした稜明の将だけでなく、稜花の実力を未だ見ていない昭の将官たちまでが咎める。
しかし楊基はそれらを黙殺し、高濫に作戦の説明を命じる。一体稜花に何を託すのか。それを見定めねばならぬと、一旦皆が口を閉じた。
駒を確認すると、この戦の状態が如何に酷いものかと見て取れる。
もともと二十五万対十万だった戦は、いつの間にか自軍が六万程度まで減っているようだ。一月もたたないうちに、半数近い兵を失う形になったのに対し、相手はほぼ無傷。稜花を含めた干州軍が加わったところで、相手に大きな打撃は与えられないだろう。
どうするつもりなのかと、稜花はじろりと高濫を睨み付けた。
しかし、稜花の脅しなどするりと流してしまって、高濫は駒を動かし始めた。
「これまでの戦で我々は随分と兵の数を減らしています。相手にとっては取るに足らない敵であることを、十分印象づけられたでしょう。ま、今日思わぬ急襲があったと驚いていそうですけどね。姫に注目を集めると言った意味では、偶然とは言え上手くいったものだと思います」
笑顔で計算違いになったと苦言を言われてしまい、稜花は目を細めた。しかし我関せずと高濫は続ける。
「時間が必要だった理由は大きく二つ。一つは、杜軍に我々が不仲である印象を与えること。実際、昭と稜明は戦場でほとんど連携をとれていない。そこで、昭から相手側にある働きかけをしました」
この言葉に、稜花達だけでなく、李永までもが奇妙そうな顔をした。どうやら李永にすら、話を通していないのだろう。
「端的に説明すると、内容はこうです。稜明を落として、唐林を含めた干州を差し上げましょう、と」
「なっ!?」
稜明の将達が口々に驚きの声を上げた。婚姻による縁を結びつけようとする矢先、その相手国を陥れようと利用する。それはあまりに無道だ。
「もちろん、あくまでも虚辞です。相手もまだ疑っているのでしょう。だからこそ、偶然とは言え今日の姫の行動が効いた」
「え?」
「姫が干州軍を連れてきたことが、図らずとも干州が稜明側に立ったことを明らかにした。朝廷側が黙っていられると思いますか?」
「……」
「杜と朝廷の関係も難しいのですよ。朝廷に所属する州軍はどうしても、紫夏を手足として見ている節がある。長らくこの国に蔓延った官吏の毒は、紫夏から自由を奪っている。この戦場でもそうなのです。二十五万と言っても、州軍は前線に出てきていないでしょう? ただの脅し、数あわせに過ぎないのですよ。つまり、この戦、杜軍の約十五万を討ち取った時点で勝ちなのです」
十五万。十分な数ではあるが、太刀打ちするにしても現実的な数として見えてくる。
それは稜花だけでなく、皆も同じように感じたらしい。杜軍に属する兵の位置を確認しながら、成る程とお互いうなずき合う。
「今日の姫の強襲を受けて、相手側の州軍も黙っていられなくなったでしょうね。他領の者が直轄地を自由に動かせることなど、彼らにとっても驚異。今頃、紫夏との上下をはっきりさせようと躍起になっているでしょうから。紫夏も煙たくて仕方ないでしょうね。……ふふ、ほんと、姫は持っている」
くすくすと満足そうに笑う。
内情がそのようになっているなど全く知らなかったものだから、稜花はちらりと宇文斉に視線を投げかけた。彼はというと、びっちりとした笑顔で表情を固めており、なんとなく機嫌が悪いであろう事を察する。もしかしたら、干州の事でも高濫とやりあったのかもしれない。
「さて、話はそれましたが、時間をかけて瓦解しているのは我々でなくて敵軍です。今日も昭から使者を送りました……当然、朝廷側にですが」
「内容は?」
「信を得るために、明日の戦場、稜明の稜花姫を最前線に出すことをお約束すると。捕らえて、我が軍との講和へ話を進めるのが宜しかろうと」
「――!?」
稜花を含めた誰もが絶句した。干州を明け渡すには、同盟軍側の敗戦協議へ持ち込むのが最も自然。その中で、昭は不利益を被らず、稜明に責を背負わせると言っているのだ。そしてそのための表向きの交渉材料として、稜花を差し出すと。
直接対峙したこと無い朝廷の者からすると、稜花などただの戦ごっこをしている小娘にすぎない。今頃、紫夏に無茶を言っているのでは無いだろうか。稜花ごとき捕らえられぬ訳が無いと。
それにしても、あまりの作戦、あまりの物言いに声を荒げる者は少なくなかった。稜明の将は顔を真っ赤にして、高濫に抗議する。李永に加えて兄の李進まで、盟主楊基に対してもの申しているのが見えた。
一気に熱を帯びた会場の中で、稜花は一人、冷静に状況を見ていた。
まだ見えない。高濫たちの目的が。
前線に立つことは、稜花にとっては抵抗がない。むしろ、今更だ。ただ、そうまで危険を冒して得るものは何だというのだろう。
ぽんと、後ろから肩を叩かれた。
ふと見上げると、相変わらずの熱の籠もっていない目で、ただ、楊炎が見つめてくる。そして、彼は首を横に振る。
流石、と思う。楊炎は、稜花のことをよく分かっている。ここで、すぐに作戦に名乗りを上げないよう、牽制しているのだろう。
稜花は笑った。それでもこの戦、力になれるならなりたい。ただ高濫の提示する作戦はかなり厄介なものなのだろう。事前の彼らの物言いから、どれだけ稜花に負担をかけるつもりなのか十分に推し量れる。
了承する前に、聞かねばならぬ。彼らの真意を。そして、その作戦の全貌を。
相変わらず口々に口論し合っている将達を一瞥し、稜花は真っ直ぐに高濫へ視線を投げかけた。
稜花の挑むような表情に気がついたのだろう。彼も真っ直ぐに稜花の存在を認める。
「――みんな黙って」
稜花の凛とした高い声は、会場に良く響いた。
まさに渦中の人から声をかけられて、注目せざるを得ない。
稜花がなんと答えるのか、固唾を呑むようにして皆が見守るのが分かる。
目の前の李永がオロオロと稜花を見ていた。
先ほど叩かれたばかりだが、この後ももう一発くらい叩かれるかもしれない。そう思うと、なぜか少し気が緩んだ。
肩に手をかけた楊炎の手に、ぐっと力が入る。
しかし、彼に止められるわけにもいかない。稜花はそっとその手を掴み、肩から離す。彼に視線を向けると、彼はぎゅっと目を閉じ、そして手の力を抜いた。
そうして稜花は、再度真っ直ぐに高濫を見つめる。
あくまでも冷静に、訊ねた。
「まだ、私からは何も言えない。高濫、きちんと作戦を説明してちょうだい」
くすり、と笑い、高濫も答える。
「もちろんですとも、稜花姫。では、説明致しましょうーー」




