汰尾の戦い(2)
「この、馬鹿娘が……!!」
パァン! と、頬を叩く高音が、曇った夜空に響き渡った。
とっさに目を閉じたが、左頬にじんじんとした痛みを感じる。無意識に頬に触れて撫でるものの、その場所はほんのりと熱をもっているようだった。
きっと明日は腫れるのだろう。しかし、これは仕方ない。怒られるのは当然のことだし、頬を叩かれるくらいで済むならもらい物だ。
李永の怒りはもっともで、説教も、甘んじて受け入れなければいけない。
痛みに耐えながら、稜花は両目を開いて、目の前の李永を真っ直ぐ見つめた。
周囲を取り囲むようにして、同盟軍の兵たちが固唾を呑んで見守っている。稜花の後ろには楊炎と悠舜。そして干州軍の者たちも控えている。
皆にどれほどの心配をかけたか。それだけはきっちり自覚しているからこそ、稜花は再度、深く頭を下げた。
あの戦場に合流した後、稜花はただひたすら、敵の数を減らすことに専念した。突然現れた稜明の戦姫。武功を得ようと粋がった杜軍の隊長や将官は少なくなかった。
奇襲が成功したとは言え、相手は数の理がある。年若い少女だからと侮られたこともあって、稜花を捕らえるのは己であると、数多くの敵将が名乗りを上げてきた。
もちろん、稜花にとっては願っても無い事だった。
本来ならば数多くの一般兵を薙ぎ払ってたどり着かなければならない将官たちが、向こうから勝手に出てきてくれるわけである。
楊炎と二人で、今日一日でかなりの数の将官を討ち取ったが、さて、明日も同じように釣れるとは限らない。
そもそも自らが起こした行動は、本来許されるようなことでは無い。それでも稜明の役に立ちたかったし、実際役に立ったのだと思う。
しかし、明日も戦地に立たせてもらえるか。まずは、そこを許して貰わねばならぬだろう。何を言われようと、どう責められようと、稜花の決意は揺るぎないのだ。
「勝手な行動をして、ごめんなさい。父上――」
再度深く、頭を下げた。
そして、顔を上げ、真摯な瞳で李永を見つめようとした瞬間。
全身を包みこむようにして、太い腕が背中に回されることに気がついた。
「父上?」
「……お願いだから、あまり無茶はしてくれるな。稜花」
生きた心地が、しなかったと。李永は言葉を続ける。
ぎゅう、と強く抱きしめられて、驚く。今まで数多の戦場を駆けてきたというのに、今更。
それ程まで不安に成る程、今回は劣勢だと言うことなのだろう。
稜花は再び目を閉じた。
「ええ。本当にごめんなさい。父上」
「……助かった。感謝する」
父に抱擁されたことなどいつぶりだろうか、と思い返して、稜花は微笑んだ。酷く懐かしくて、面映ゆい。
李永の手から独り立ちして、自分の身を立てたいと思っていたはずなのに。いつまで経っても彼の子であることを実感してしまう。しかし――
――助かった、か。
李永の言葉がくすぐったい。戦でこのように感謝されたことなど、記憶にない。
偉大な父の背を追ってきたけれど、はじめて認めて貰えた気する。
そういえば、埜比の戦いから先、父とともに戦場に立つことも無かった。おそらく、稜明で最後になるであろうこの戦で、父とも、兄とも共に戦えることが、とても嬉しく感じた。
もちろん、本来ならばそのような場が用意されてはいなかったわけだが。
「稜花姫!」
そうして、李永の腕の中にすっぽりと納まっていると、遠くから声がかけられる。と同時に、稜花はすぐさま李永から離れ、背筋を伸ばした。
この声。
李永に見せるような甘えた娘の顔など、していられる相手ではない。
「楊基殿」
稜花の代わりに返事をしたのは、李永だった。少し気恥ずかしそうに目を細めて、稜花の手を取り、楊基の方向へ背中を押される。
相変わらず、李永は娘心をまったく理解していないようだ。楊基との矢面に立たされることは迷惑極まりないわけだが。
――これも、父心……なのかしら。
先ほどの抱擁のせいか、李永が心配してくれていることは十分に伝わった。楊基との関係を取り持とうとしているからこそ、こうやって背中を押してくるのかもしれない。
「お恥ずかしいところをお見せした」
「いや、李永殿が娘御を心配なされるのは当然のこと。本当に、勇ましい姫君だ」
くつくつと笑いながら、彼は真っ直ぐに稜花の元へと歩いてくる。彼の向こうには陸由と、それから稜花の知らぬ桃色の髪の男が控えていた。
「本当に驚いた。私との婚姻を控えている身でここに来るとは。姫はよほど戦場がお好きだと見える」
「楊基殿、それは今更よ」
「ははは、本当に、そうだな」
稜花本人が否定しなかったからだろう。ますます楽しげに笑い声を出す。
そして稜花の側で立ち止まったかと思うと、彼女の髪を撫でた。隣で李永が複雑そうな笑みを浮かべているのが目に入ったが、そもそもは父自身が招いた状況である。
「無事で何よりだ」
頭上から、落ちついた優しい声がかけられ、多少なりとも驚いた。だからこそ、少しばつの悪そうな表情をして、稜花はそっぽ向いた。
「当然よ。今の自分の立場くらい、わかっているもの」
「わかっていて、これか? ふふ、相変わらずの行動力だ」
楊基本人の婚約者であり、この同盟を繋ぐ鍵。そんな重要な存在でありながらも、無断で戦場に飛び込む。しかも、表向きには朝廷の直轄地である干州の兵を引き連れて。
宇文斉は書簡のことを、誰にも伝えていなかったのだろう。
成功したからどうにかなったものの、彼にも後で何らかの言及はありそうだ。宇文斉のことだから、それをどう乗り切るかもとうに考えていそうだが。
ちらと、遠巻きに見ている宇文斉の顔を確認すると、彼は涼しげな様子で稜花の方を観察していた。相変わらずの余裕の表情で、いっそのこと腹が立ってくる。
何故稜花だけが、こうやって楊基に毒を吐かれなければいけないのだろうか。
しかし、今回の戦はかなり苦戦していると聞いていたが、彼の持つこの緩んだ空気は何だろうか。刻限的には今から軍略会議だろうが、何とも悠長な雰囲気の彼に、疑問を持たざるを得ない。
「楊基殿。どう言うことなの? 本来ならば私も、こんな無茶はしなかったわ。苦戦だと聞いて駆けつけたけど、戦場を見て驚いた。いくら数の差はあるとは言え、まるで歯が立っていない。軍師は何をしているの? ただ正面から攻めるだけで、勝てるはずがないでしょう?」
後ろの方で我関せずとしている宇文斉に対しての苦言も交えつつ、稜花は告げた。
楊基は目を細めて、ほう、と声をあげる。
「もう戦況を把握していらっしゃるか」
「馬鹿にしないで。私がどれだけ戦に立っていると思っているの」
「戦姫と呼ばれるくらいには」
「……」
稜花の言に楊基は満足そうに頷いた。そして益々頭を撫でようとしてくるものだから、稜花はその手を払った。
「戦場で戯れはよして。……父上もよ。一体、みんな何してるの?」
突然やって来た娘にケチをつけられるのは不本意だろう。
しかし、それでも稜花は告げた。周囲の男たちをぐるりと睨み付けると、気まずそうな顔つきを見せては首を垂れる。皆、このどうにもなっていない現状を、自覚だけはしているようである。
李永もうっと言葉に詰まり、楊基へ視線を送った。すると楊基が苦笑して、代わりに弁解する。
「なに、稜花姫。これは今後への布石。どのみち今から軍略会議だ。姫も来ると良い。止めても明日の戦は出るのだろう?」
「当然」
「ならば、来なさい」
先ほど振り払ったはずの手を、再度稜花の頭に置いた後、楊基は踵を返した。天幕の方へ場を移すのだろう。
「本当に、姫は、持っている」
「え?」
何を、と問う前に、彼は向こうへ去って言ってしまう。
振り返り際に、相変わらずの王者の笑みを見せて。稜花の運命を毟り取るかのように、圧倒的な引力で引きつける。
じいと、稜花は彼の後ろ姿を見つめた。
幾ばくか向こうへ進んだところで、何名かの兵に指示を出しているのが目に映る。彼が何を言っているのかはよく聞こえないが、兵たちが非常に驚いたような顔をしているのがわかった。
たまらなく嫌な予感がする。明らかに何だかとんでもないことに巻き込まれる気がしてきたが、それも今更だ。どのみち彼の目的はこの後の会議で明らかになるだろう。
ほう、と一度深呼吸して、稜花は李永の方に向き直った。
李永はというと、何か言いたげな様子だったが、そこは無視を決め込むことにする。
盟主楊基が認めてくれるならば、明日の戦場入りは出来そうだ。
むしろ、何かに巻き込まれるであろう事はほぼ確定している。今更李永が何か言ったところで、戦場に出ないという選択肢は無いと見て良い。
「父上、参りましょう」
「……稜花。だが」
「楊炎、一緒に来てちょうだい。悠舜は、干州兵を含めて軍の再編成を」
李永の言葉を黙殺して、稜花は後ろの二人に声をかけた。
かしこまりました、と稜花の命に呼応するように、二人は一礼する。そしてすぐさま、悠舜は稜花に背を向けた。
楊炎はその場に残り、稜花に向き直った。一見無表情で従順そうに見えるが、明らかに咎めるような視線が突き刺さってくる。
「楊炎。先に言っておくけれど、止めても無駄よ?」
「……」
「そんなに心配なら、しっかり護ってちょうだい」
薄く笑って、稜花も彼に背を向けた。そしてさっさと天幕へ向かって歩いて行く。
そんな稜花の後ろを楊炎は無言でついてくるわけだが、顔が見えないというのによくもまあこれだけの怒気を飛ばせるものだと稜花は感心してしまった。
いつかの、無表情だった彼とは大違いだ。今回の戦への別れ際だってそう。彼は出会った頃のように、完全に表情を隠してしまっていた。
なのに今は、こうやって心配してくれているらしい。
その感情が怒りとなっているのは些か不本意ではあるが、稜花はそれでも嬉しかった。
もう二度と、彼は感情を見せてくれることなどないとも考えた。であるのに、今は手に取るように彼の気持ちが伝わってくる。刺すような視線が心地良いと感じる日が来るとは思わなくて、自分でも可笑しくなって苦笑した。
「楊炎」
つい、気持ちが溢れそうになって、背後の楊炎に呼びかけた。彼がぴくりと肩を強ばらせたのがわかる。それがますます可笑しい。
楊炎もまた、こんな小娘の一挙一動に、振り回されてくれているようだ。
少なからず、心配し、心を砕いてくれているのだろう。
――それでいい。
――私にとっては、それで、十分だ。
頬をゆるめたまま、稜花は目を閉じる。そして小さな声で呟いた。
「ありがとう」
「……」
干州軍を率いていた時、こんなにも穏やかな気持ちにはなれなかった。それはもちろん、同盟軍の安否がわからなくて不安だったところが大きい。
しかし、その不安をぬぐい去ってくれているのは、この戦地にいる父、李永を含めた将官たち。稜花軍の仲間たち。そして何より――彼の存在が大きいことくらい、稜花はわかっていた。
――やっぱり、隣には、楊炎にいて欲しいみたい。
しっくりとくる存在。隣にいるべき人。つい甘えてしまう人。前に進む時、背中を護ってくれる人。
「頼りにしてるわ」
伝えるだけ伝えて、稜花は前へと進む。
その後ろで、楊炎が彼女の言に答えるように深く頭を下げていたこと。稜花が目にすることは無かった。
 




