汰尾の戦い(1)
湿気を帯びた生ぬるい空気貫く。ブンッ、と空気が揺れる音がした後、その音は敵兵の胴をいくつも同時に切り離す。周囲に悲鳴のような声が多数上がるが、切り落とした相手に興味は無い。
ふう、と息を吐き、楊炎はすでに次の敵を見据えていた。
汰尾平原東。楊炎は、完全に乱戦状態になった戦場を駆け抜けた。
楊炎に傷をつけられる者など、この場には存在しない。隻眼でありながらも、全ての方向からの攻撃に対応出来ている彼は、もはや挑まれることすら稀になっている。遠巻きに敵兵同士が、誰が彼に挑むのかと牽制し合っている様子が見てとれた。
なんと、あっけないことだろうか。
人を切り捨てることに、今更何を思うわけでもない。ただ、この戦場を任された身、己に出来る最善を果たすだけである。
しかし数の差は明白で、楊炎一人がどれだけ戦果を上げようと、自軍の兵が確実に減っていることはわかっていた。
――かなり、分が悪い。
だからこそ、己が前に立たなければいけない。ひとりでも多く斬り殺す。そうして歴然とした数の差を、少しずつでも埋めなければいけない。それがわかっているからこそ、楊炎は将でありながら前線に立つ選択をした。
昨日の軍略会議も、相変わらず実のないものだった。
この戦の最初の一手。それはただひたすらに、時間を稼ぐこと。
とはいっても、無策でこの圧倒的な戦力差に正面からぶつかっては、上手くいくはずがない。じりじりと前線を下げつつなんとか凌ぐ、防戦一方だった。
戦が始まってしばし。策らしい策を講じられることも無く、流石にいらいらを募らせた将が軍師たちに意見しはじめた。自軍の兵たちを数多く失って、それでもなお、この凡愚とも言える作戦を遂行するのか、と。
すると、昭の軍師のひとり、高濫が答えたのである。
――その通りである、と。
真意については定かではない。将ですら、その作戦の意図を知らされていない異常状態。しかし、全てを知っているであろう楊基と李永が宣ったのだ。
――高濫の言うとおりにせよ、と。
軍全体の士気が、軒並み下がってしまっている。ただ良いように振り回されているだけで、戦という形になっていない。まだ王威本人が出てきていないだけ救いはあるのだが、このままでは王威とぶつかる前にまともに戦える状態ではなくなるだろう。
いや、王威も、今の状態の同盟軍と戦う気が起きないのかもしれない。
かつて刃を交えたからこそわかる。王威は、奴自身が興味を持てる場所にしか、出てこない。
ひんやりした心地を味わう。
王威の興味が向く前に、この現状を打破せねばならぬ。しかし何の作戦もなくただ前線に投げられ、数の差に圧倒される今。まるで捨て駒のような扱いに、誰もが絶望を感じていた。そんな彼らにかける声が見つからぬ。
稜花軍は李永軍の将恭毘という男がまとめて率いてくれている。稜明でも有数の将ではあるが、彼は稜花の代わりにはなり得なかった。
稜花は戦に関して未熟なところは数多くあったが、それでも、兵たちが絶対的な期待を寄せるほど、他の武将は持ち得ぬ魅力を持っていた。
李家特有の、言葉を発するだけで人を惹きつける力。それは稜花が生まれて李家で育ってきた中で、無意識に身につけてきた能力だった。もちろん言葉だけでなく、女性という特殊な個性を昇華できる武力。麗しい見た目。前向きな性格。兵と向き合う心。それらは全て、好ましく映り、彼女の軍に所属することは皆にとっての誉れとなっていた。
しかし、その精神的な支柱が今はいない。
誰もが稜花の留守を護らねばならぬとは思いつつも、不安な気持ちを捨てきれずに戦に挑んでいる。恭毘は確かに優秀な将だが、無策で圧倒的に不利な状況を覆せるほどの何かまでは、用意できなかった。
――一旦下がるのか?
遠くの恭毘が、何らかの指示を出したことを確認して、楊炎は顔をしかめる。
今までに味わったことのない類いの感情に襲われて、胸が苦しい。隣に立つべき彼女がいない。それだけでこうも不安になるものかと。
このまま、何も出来ずに後退するのか。いや、本当に後退できるのだろうか。
楊炎がそう不安になったのも無理はない。合図は出たものの、圧倒的な敵に囲まれ、後退しようにも出来ぬ所まで、敵軍にくい込まれてしまっていた。
――己が、突破口となるべきか。
「俺が行く!」
らしくもない大声を張り上げて、楊炎は反転する。針の目ほどでいい。皆が撤退できる道を、作らねばならぬ。
「……あああああ!」
大ぶりの刀を薙いで、彼は走る。
人を斬ることしか出来ぬ、つまらぬ男だからこそ。この場では駆けねばならぬのだ。
***
――見えた。
汰尾平原に入る前。並び立つ山々を迂回してようやく、稜花は辿り着いた。戦場全体を見下ろせる位置―― 平原東の小高い丘まで。
歩兵混じりの行軍、そして大きな迂回にかなりの時間を必要とした。その間に戦の行方が結していないかと不安にもなったが、そこは宇文斉の読みを信じるしかない。
眼下の平原で、両軍が真っ向からぶつかっている様子を確認してはじめて、自らがなんとか間に合ったことを実感する。
――よかった。でも……
敵味方入り乱れた最前線は、かなり歪な形になっている。人数比が偏っており、同盟軍側が包み込まれるようにして押されている。
――みんなは?
稜花は、自らの軍の仲間たちを探す。共に戦ってきた心強い味方。この状況で、苦しくないわけがない。
自らが背負ってきたものを、突然悠舜たちに丸投げする形になってしまっていたため、気になっていた。同時に、楊炎がまた危険な仕事を任じられていないか、気がかりでもある。
数多はためく旗色を確認していく。すると、ごく近くに良く見知ったものを見つけた。平原の最も東。同盟軍左翼の最も端。稜花軍の色が飛び込んできて、同時に、目を疑った。
――取り囲まれている……!?
機能を完全に失っている。
稜花軍だけでない、どの部隊もそれぞれ、目の前の敵に精一杯になっているだけで、ただひたすらの消耗戦。いくらなんでも一方的すぎる。これまで良く持ちこたえられた、と感心してしまうほどの状況だ。
陣営内で何かあったのだろうか。
すでに同盟自体が瓦解しているのではと疑うほどの圧倒的な劣勢に、背筋が凍る思いをした。
不安に駆られているのは稜花だけではない。後ろに控える皆もだ。
それは当然だろう。今からあの、劣勢側に加わるわけである。数多くの敵兵に自ら埋もれに行く。そんな正気とは思えない行動に、恐れを抱かない方がおかしい。
しかし、稜花はじっと目を細めた。こちらの兵は今や一万四千まで膨れあがっている。同盟軍左翼側を取り囲む敵集団に、一矢報いるだけの数がある。不意をとることが出来るならば、十分な打撃を与えられるだろう。
稜花は見つめた。眼下の戦場を。
戦場の真東に当たるこの位置から、敵軍の背後をとれる瞬間を。
一刻も早く駆けつけたい気持ちを抑え込み、自分が戦に貢献できる最も適切な瞬間をひたすら、待つ。
ぐるりと取り囲まれた稜花軍を主体にした左翼の一部が、後方の包囲を突破しようとしているのがわかる。袋状になった敵軍の一部を打ち破り、針の目をくぐるようにして抜けていく。
その者たちを追撃するように敵軍皆が、稜花達に背を向ける。敵軍の指揮官が露わになり――
――今だ!
稜花は手を上げた。そして自らが先頭に立ち、駆けた。
後ろには未だに恐れを抱く兵――しかも稜明の者ではないからこそ、稜花は先頭に立たねばならぬと自覚していた。彼女自身が、御柱になるのだ。
年若い少女が覚悟を決めて一気に進む。それだけで、負けてはならぬ、退いてはならぬと皆が心を決める。
第一波として騎兵が。その後に歩兵が。稜花に引き続き、一気に丘を下った。
「旗を、揚げて!」
号令とともに、一斉に旗が掲げられる。あえて干州の旗を揚げさせること――これがこの戦場においてどれだけの意味を持つのかは、稜花だってわかっている。
干州が稜明側についたことを明らかにさせる。
そしてもうひとつ。杜に、彼らの策が失敗に終わったことを突きつけるのだ。
突然東の丘に一万超の兵が現れて、動揺しないはずがない。敵右翼は突然背後をとられる形になって、身動きを止めた。
稜花軍の猛進は、そのままなだれ込むようにして彼らを襲う。油断しきっていた相手が悪い。
追撃するために駒を前に出していたからこそ、敵将の周辺が薄くなっている。とっさに護衛兵たちが将を囲い込み、防御の構えをとるけれども、遅い。
二百の騎馬で一気に詰め寄り、護衛兵を払う。
そしてそのまま稜花は飛んだ。梓白の背を蹴り、宙を舞い、最後の兵の壁を越える。誰もがあっけにとられる中、地面を蹴り上げ敵将に詰め寄る。
目の前の将が何か声をあげようと口を開く。しかし、その声が音になることはなかった。一瞬で間を詰め、稜花は彼の首を刎ねた。
――で。今の、誰かしら?
士気を高めるために号令をかけたいが、肝心の討ち取った将の名がわからない。この場に留まるわけにもいかないので、そのまま周囲の護衛兵を二、三人薙ぎつつ、梓白と合流する。
再び騎兵の中に交じると、後ろから狼狽える敵兵たちの声が聞こえてきた。
「東廉様!」
「東廉様ーーーっ!」
……なるほど、東廉と言うらしい。知らぬ名だが、そこそこの数の兵を率いているようだ。
「敵将東廉! 稜明の稜花が討ち取ったわ!」
早速名乗りを上げる。もう、奇襲は成功した。
戦場に響く少女の声。それが益々もって、周囲を混乱させた。
突然の奇襲と、稜明の戦姫の参戦。そして彼女が率いているのは干州軍。それは敵軍に動揺を与えるのには十分すぎるものだった。
稜花が双剣を構え敵の攪乱に努めていると、ようやく第二波となる歩兵部隊がたどり着く。前線を押し返すようにして、撤退する稜明軍と混乱する杜軍の間に割って入っていった。
――出来れば、もう一人二人敵将を落としておきたいけれど、稜明軍は……?
無事に撤退できただろうか。
視線を走らせると、ごく近くに稜花軍の旗を発見した。
後退するために背を向けている彼らだが、小柄な白馬に跨がる彼女を発見して、騒ぎ始めているのが目に入った。
双剣を振りながら、稜花も苦笑いを浮かべる。お別れしたと思った稜花が、いつの間にか戦場へ来ていたとなると――しかも率いているのが干州軍となると、驚くのも無理はない。むしろ稜花自身、つくづく無茶苦茶だなあと実感している。
「稜明軍の後退を助けるわよ!」
稜花の号令に呼応して、干州軍の皆も一斉に鬨の声を上げた。先ほどの不安など、もうどこにも見当たらない。この短時間で敵将を討ち取ってしまった。それによって大きく士気を高めて、干州軍は皆、目の前の敵軍と向き合っている。
そして、稜花の背後でも変化が起きつつあった。
撤退していた稜明軍。彼らが再度反転したかと思うと、体勢を立て直して再び進軍をはじめたのだ。
遠くで皆に号令をかけている者が見える。李永が信を置く将だから稜花も知っている。あれは、恭毘。
「姫様に遅れをとるな! 稜花軍の者はそのまま、姫様に合流せよ!」
敵軍が崩れた今を逃すまいと、彼らは戦場に戻ってきた。
口々に稜花の名前を呼びながら駆けつける稜花軍。誰もが瞳に光を宿して、敵軍に突進していく。干州軍と稜花軍が共闘する形で、再度前線を押し上げていった。
「姫様!」
「姫様に続け―――っ!」
口々に稜花の名を呼びながら、皆が戦線に復帰してくる。たちまち心強い仲間に取り囲まれて、稜花は微笑んだ。
「あら、貴方たち、撤退してたんじゃなかったの?」
「姫様が戦っておられるのに、逃げていられますか!」
「そうです! 稜花様をお守りせねば!」
稜花の軽口にさえも沸き立ち、皆が頬を綻ばせて進軍する。稜花軍の歩兵たちが次々に集結し、稜花の周囲で隊列を組みはじめる。
ここまで士気が上がり、人数が膨れあがったならば、まずは入り乱れた陣形を整えなければならないだろう。統制をとれなくなってしまっては元も子もない。
そのためには、副将が必要だ。稜花軍が皆、稜花の元へ戻ってきてくれるのならば、見知った顔もいるだろう。
そこまで考えて、ふう、と大きく息を吐いた。
全身が酷く緊張していたらしい。今はまだ戦場のど真ん中。ここで気を緩めるわけにはいかない。しかし、干州の兵を導かなければと気張っていたからこそ、稜花軍の存在が心強い。
皆がこんなにも、笑顔で受け入れてくれて、嬉しくないはずがない。
「みんな、持ちこたえるわよ!」
「「「おおお―――――っ!!!」」」
戦場全体に稜花軍の声が響き渡る。士気は最大まで高まり、勇猛果敢に彼らは敵に挑んだ。
これまで凡戦を繰り広げていたからこそ、この突然の逆転劇に敵軍もついて行けない。干州軍と一緒になって、稜花軍は後退していた前線を押し上げていく。歩兵が確実に前に進み、敵軍を徐々に押し始めた。
しかし、一方的にやられてくれる杜軍ではない。稜花の存在を認めると、たちまち体勢を整え、次の将が前線へと押し上がってくる。
「稜明の稜花だ! 殺すな! 身柄を拘束せよ!」
「あの小娘を逃がすな!」
稜花のことは当然、敵軍にも知られていたらしい。武功を立てようと名だたる将達が一気に名乗りを上げる。
最近では干州以外の戦場に出ることがなかったため、稜花自身がこうも注目されるのは初めてだ。
しかし、予想は出来ていた。捕らえようとする命が出ることは何も不思議なことではない。
情報はとうに伝わっていたのだろう。稜花は稜明の姫君であり、盟主楊基の婚約者。稜花はこの同盟の核であり、両領を牽制するに最も有効な駒。手に入れたいのは当然のこと。
そして、初めて対峙する杜軍が、女である稜花を甘く見ているだろう事も予測できるからこそ――
――ここからが、勝負……!
稜花は、最高の囮だ。
杜軍の注意を引けるだろうか。
王威は、出て来るのだろうか。
苦境に立たされている稜明軍が立て直すだけの時間は稼げるだろうか。
先ほどの奇襲から、まだ相手は状態を立て直せていない。しかし、血気盛んな将兵たちは、稜花に狙いを定めて猛進してくる。
少数の兵で突っ込んでこられたところで、後れをとるつもりなど、毛頭無いのだ。
右から一人、左から二人。小部隊の隊長たちが、護衛兵の間をも突破するかのように、稜花に差し迫る。武功に焦った者たちの必死な形相。ああ、自分にもこんな頃があったと、少しだけ笑いがこみ上げてくる。
稜花は薙ぎ払う。
何のための双剣だと思っている。二人の敵を同時に斬り捨て、体勢を立て直す。もう一人の攻撃はひらりと避けて、再度向き合おうとしたその時。
目の前を黒の影が走る。
同時に、大きく胸が高鳴った。
残る一人をあっさりと斬り捨て、駆けつけた男は、静かに稜花の方へと振り返る。
眼帯に隠されていない片眸。闇色をした静かな瞳と目が合って、稜花は胸を押さえた。
以前は顔を合わせるだけで、あんなにも苦しかったのに何故だろうか。目の前に立っている彼を見ると、自ずと頬が緩む。
「楊炎」
無意識に笑みがこぼれて、眦を下げる。
思えば随分と長い間、彼の顔を見ていなかった。ただ一人で駆けてきたはるか道程を思い出して、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
不安を顔に出せなかった。干州軍の皆に、弱い自分を見せてはいけなかった。それがどんなに自分にとって負担だったのか。彼の顔を見た今こそ、思い知る。
「どうして、このような場所にいらっしゃる!?」
対する楊炎は、開かれた片眸を不機嫌そうにつり上げて、稜花の肩を掴んだ。
耳を劈くような怒声に、思わず目をつぶる。落ちて当然の雷。しかし、大声を出す彼が物珍しくて、稜花はにへらと笑みを溢した。
「うん。そうよね。ごめんね。でも……」
不思議なもので、こうやって怒ってくれるのが嬉しいらしい。
心配してくれている。彼の気持ちが実感できて、心が満たされる。
しかし、惚けているわけにもいかない。ゆるゆるの頬を引き締めて、稜花は前方の敵軍に視線を移した。
「今は、戦いを。説教は後で幾らでも聞くから。まずは生きて帰らないとね」
それだけ言い残して、稜花は再び駆けた。
この、注目を集めている今こそが狙い目。今日一日で、出来うる限りの将官を打たねばならぬのだ。




