噂の戦姫(2)
張葉は狼狽えていた。
軍の後方から迫り来る騎馬兵と、ざわめきとともに伝わってくる情報。遠目に見える青銀色の髪の少女と複数の騎馬兵。
――何故、稜明の者がここに居る。しかも、戦姫と名高いかの者が。
騎馬兵を束ねる年若い少女など、稜花しかいないことくらい張葉にもわかっていた。
現在、汰尾平原の戦場に彼女の姿はないとは聞いていた。昭の領主との婚姻に向けて、稜明から出られないのではなかったのか。
稜明有数の武将たちが戦地へ向かったと言うから、意気揚々と唐林を目指したというのに、何故こんなところで邪魔が入るのか。表向きは援軍として駆けつけるつもりでいただけに、稜花の出現は明らかに計算外だった。
一方で、稜花は冷静に張葉を見据える。
遠目でも、その動転している様子がよくわかる。騎馬に跨がった張葉が、止まるべきか、進むべきかと悩んでいるところに回り込んだ。張葉の狼狽えた表情が滑稽で、稜花は薄く笑った。
「干州軍将軍、張葉殿」
彼の周囲の将達も、慌てたように周囲と視線を交わしている。しかし、そういった異分子は少数の将官だけのようだ。他の一般兵たちが期待に満ちた目で稜花を見てくるだけに、彼らの動揺が浮き彫りになる。
「稜花……様」
「私の顔には覚えがあるのね」
にっこりと笑みを浮かべて、稜花は髪をかき上げた。さらさらと輝く絹糸のような髪が、風に揺れる。ここはまだ戦場ではないけれども、行軍の最中、うら若い彼女は完全に周囲から浮いている。
皆が皆、あっけにとられるように稜花を見つめた。
稜明軍と違って、戦場の彼女を見慣れていない分だけ、驚きが大きいのだろう。噂は耳にしていたのだろうが、実際目で見ると、別の感動のようなものが沸き立ってくるらしい。
まさに良い注目具合だ。稜花は満面の笑みを浮かべて、朗々と宣った。
「この度の稜明への援軍、感謝致します」
瞬間、歓声が沸き起こった。稜花に直接礼を述べられるとは思わなかったらしい。
「こちらから要請をしたわけでもなし。朝廷側と稜明側で意見も揺れたでしょう? そんな中、自らの意思で稜明を選び取ってくれて、ありがとう」
少し、緊張で胸がどきどきしている。
戦の行方を左右する重要な交渉だ。先ほどまでは、急いで追いつかなければとばかり考えていたが、今度は無事に説得できるかどうか不安が沸き起こる。
こういった交渉ごとは今まで専門外だと思っていたし、実際関わってもこなかった。
しかし、そうも言っていられない。この干州軍を止められるか否かに、稜明の命運がかかっているのである。
そうして稜花が思い描くのは義姉、香祥嬉の姿。
女性であるにも関わらず、笑顔で相手を褒め称えながらも一歩も退かない。そんな凜とした強さが欲しい。
「して、張葉殿。貴軍はどちらへ向かうつもりかしら?」
「……はっ、我々はこのまま唐林へ。彼の地の防備を固めたいと存じます」
「なるほど、確かに唐林は重要拠点だもの。そう考えるのは妥当ね」
じり、と笑顔を浮かべつつ、にらみ合う。
張葉は明らかに稜花の出方を窺っている。不審な視線を投げかけてくるため、稜花も気を緩められない。
「気持ちはありがたいのだけれど、張葉殿。正式に、稜明からの依頼として、直接汰尾平原へ向かうことを要請します」
「……なんですと!?」
周囲がざわりとした。それは張葉をはじめとした一部将官たちの動揺が大きく、明らかに狼狽えた様子で稜花を見返してくる。
「緊急事態故、私が直接の使者として参りました。干州州牧、呉撞からの書状もここに」
そう言って、稜花は一枚の書状を張葉に差し出した。
もちろん、州牧本人に書かせた本物の書状。これだけの衆目に晒す事によって、その書状は効果を増す。
張葉たちが出兵したとき、州牧の呉撞には止める力が無かった。それは一概に、条干に残っていた朝廷側の官吏たちによる圧力からとも言える。
しかし、一旦外に出てきてしまってはどうだろう。ここには相手側の官吏はいない。ただの一般兵と民だけだ。李家の息女と、州牧の名を同時に出されて、従わないわけにはいかない。
張葉はぷるぷると震えながら、書状の文面を追った。
「干州軍は、将軍に稜明の稜花姫を据え、彼女の命に従うこと。尚、将軍張葉は条干防衛のため直ぐに帰還せよ……まさかこんな! 州軍を他領の者に預けるなど!」
「文句はその州牧印を見てから言ってちょうだい」
「州牧は州軍を他領に売るつもりか!」
張葉は声を荒げた。異常なほどに興奮し、稜花を全力で睨み付けてくる。
稜花を将軍に据える、という言葉が出た瞬間、わっと驚きの声をあげていた兵たちも、張葉の過激な言葉に目を丸くしていた。彼がこんなにも激昂する理由が見つからないらしい。
稜花の言葉と張葉の言葉。どちら側に身を振れば良いのかわからずに、皆が戸惑っている。
先ほどまで自分たちを率いていた者が突然入れ替えられる。しかも他領の者に。何を信じて良いのかわからないのだろう。
「私たちの最終的な目的は同じでしょう? そもそも援軍として参加するなら、盟主の要請には従わないと。盟主、楊基は将来の私の夫。私が率いるのに何か問題でも?」
稜花の言葉に益々周囲が更にざわめいた。
稜花と楊基の婚約は、まだ表立って発表されているものではない。情報に聡い各州上層部などには噂として十分伝わっているのだろうが、民のところまで降りてはいなかった。
だからこそ、稜花の婚約を初めて耳にする者も多いのだろう。
じわじわと、稜花の言に希望が広がりはじめる。
昭は北部でもしっかりとした地盤のある大領地。干州が稜明の恩恵を受けるならば、必然的に昭との繋がりもできてくる。稜明に大きな後ろ盾ができることが、民にとっては非常に重要であった。
それに稜花自身も、この干州のために戦ってきた実績がある。彼女の噂はかなり広がっているようだ。
高越たちの暴挙に何も出来なかった州軍よりも、この地を平定した稜明軍の方が遙かに民の信望が厚いのも滑稽な話だが。
その信頼に加えて、稜明と昭が形ばかりの同盟では無くなることが証明された。同盟軍同士の絆が益々強固になることは彼らにとっても安心材料だ。
周囲の支持が稜花の方へ傾いていることに気がついたのだろう。張葉は目を真っ赤にして、激昂する。
「屁理屈だ! ええい、皆の者! 州軍を売ってはならぬ!」
「どう言って頂いても結構だけれど、これは州牧の命よ。従わぬ事など許されないわ。さっきも言ったけど、文句は州牧に言ってちょうだい。帰還命令も出ているから、この後時間はいくらでもあるでしょう?」
「我々が向かうのは、唐林だ! 口を挟まないで頂こう!」
「……まるで唐林に何かあるかのような言いぐさね」
稜花は冷たい視線を彼に送った。
この状況で、唐林に拘るのもおかしな話だ。
同盟軍側が、明らかに唐林への援軍を必要としていないというのに、向かう意味がわからない。
「てっきり将の入れ替えに激昂してるのかと思ったのだけれど……唐林ですって? 我々同盟軍は、唐林への援軍を必要としていません。迷惑です!」
「それは……っ」
張葉は言葉に詰まった。
稜花の言うことはもっともだ。稜明側にはっきり迷惑と言い切られれば、唐林に向かうわけにはいかなくなる。
「今、唐林を内側から落とすのは下策よ?」
稜花は笑った。
決定的な言葉に、張葉は言葉を失う。後ろに控える兵たちも皆、目を丸くした。
「今は我々は一丸となって戦わなければならない時。内輪で揉めている場合でないことは、わかるでしょう?」
それに、と稜花は言葉を続ける。
「そうまでして唐林をとったところで、杜の進軍を貴方たちで押さえられるのかしら? 数は……二十五万らしいけど?」
二十五万。この数字に息を呑んだのは一人や二人ではない。顔色を変え、恐れをなしたように、後ずさる。
皆の動揺を目にして、稜花はぴくりと眉をあげた。
「張葉……戦況について、伝えていなかったようね。いくら何でも悠長に構えすぎでしょう。それとも、私たちに杜戦を丸投げして、利益だけ得ようと考えてた? 私たちが勝っても負けても、その後杜か、昭・稜明同盟軍かどちらかを相手するつもり?」
「違う! そのようなことにはならない!」
「へえ、では、どうするつもりなの?」
「それはっ……」
……言えないだろう。
杜に明け渡すなどとは。
「唐林を奪うつもりであったことを、否定はしないのね。……私、稜花は張葉に叛意有りとみたわ。張葉を取り押さえて!」
「稜花様!?」
誰もが驚きに声をあげる。しかし、ここで折れるわけにはいかない。
「時間が無いの。このままじゃあ埒があかないわ。そもそも、こちらには州牧命がある。これに従うのみよ。申し開きは州牧になさい」
「この、小娘がっ……!」
怒りに猛った張葉は、とっさに自らの腰に手を回した。しかし、それに動じる稜花ではない。
突進して刃を真っ直ぐ向けられる。稜花も片方の剣のみを抜き、相手の剣筋に合わせてそれを振った。
剣を交えてすれ違う。
キンッ! という高い金属音がひとつ。たったそれだけで、勝負はつく。
張葉の手元から剣を払い、そのまま勢いで地面にたたき落とした。稜花自身も地面に降り立ち、彼に真っ直ぐ刃を向ける。じり、と喉に剣を突きつけて、稜花は張葉を睨み付けた。
「干州将軍と言えども、たいしたことないのね。王威と向き合ったらひと薙ぎよ?」
「……!」
「私はね、今から王威を抑えに行くの」
誰もが固唾を呑んで状況を見守っていたが、やがて、稜花に付き従っていた騎兵のひとりが馬上から降りる。稜花に押さえ込まれた張葉の腕をとり、声をかけた。
「張葉殿、勝負はつきました。今ならまだ、罪は軽い。条干へ戻りましょう」
とても軽いとは思えないが、と稜花は冷静に思う。しかし、それで張葉が大人しくなるならそれでもいいだろう。それよりも今は、早く戦場へ向かいたい。
数名の兵が近寄ってきて、張葉を取り囲んだ。何名か兵を募って、彼の護送を命じる。同時に今回の件に関与していたであろう将官たちにも、条干への帰還命令を出した。まずは不安要素を取り除く。
そして稜花は再び、彼らが率いていたはずの軍に向き直った。
「突然のことで驚いたでしょう? でもね、緊急事態なの」
改めて、稜花は皆に向かって声をあげた。
高く澄んで、良く響く稜花の声。一連の騒ぎにざわめいていた者も、口を閉じ、彼女を見つめた。
「今、私たち稜明と昭の同盟軍は、杜と対峙しているわ。私たちの兵が約十万。対する相手は二十五万。圧倒的な数の差がそこにはある」
全てを包み隠さずに話す。誠実な色をした稜花の目は、皆の顔をぐるりと見渡した。
「でも、恐るるに足らない。この差を覆す策は、あるわ」
本当のところ、どのような策を用いるのか、稜花は知らない。
しかし笑顔で事実を覆い隠し、断言して、ひと呼吸。
稜花の言を待つかのように、皆が息を呑んだ。
「そのためには、貴方たちの力が必要なの」
条干を発った時は一万二千。稜花が見たところ、それよりも随分増えていることは明らかだった。
彼らを説得するだけの力があるのか。試されているようで、足が震える。
でも、大丈夫。
自分はこれまで、いくつもの戦場を駆け抜けてきた。
兵を率いるのに見本となる、父や兄の姿も何度も見ている。
彼らのように、迷いを見せず、ただついてこいと。そう述べるだけで良いのだ。
「かつて王威に蹂躙された恐怖を忘れていない者もいるでしょう。しかし――だからこそ、この戦でケリをつけなければいけない」
真っ直ぐに、強い眼差しで前方を見た。
「干州の民よ! どうか、私に。そして昭・稜明同盟軍に力を貸して! この地から杜・王威の驚異を消し去りましょう!」
「「「オオーーーーーッ!!」」」
――ダンっ! と。歓声とともに武具を地面へ突きつける音がする。高まる士気が熱風に乗って、稜花の体を通り抜けた。
誰もが希望に満ちた目で、稜花を見ている。
彼らの抱く真摯な気持ちをぶつけられた心地がして、稜花は嬉しくて、泣きそうになった。
――伝わった。
――私に、続いてくれた……!
宇文斉が突きつけた少々無茶だとも思えた書状。その最初の関門をようやく乗り越えて、稜花は喜びに打ち震える。
……いや、乗り越えたからではない。
彼らが、稜花に呼応してくれたこと。これが何よりも嬉しいのだ。
――私の一年は、無駄なんかじゃなかった……!
ぎゅっと拳を握りしめて、稜花は確信した。
「目指すは汰尾平原。全軍、前進!」
そして高らかに号令をかける。
――待ってて、みんな。……楊炎。
――今、私が助けに行くから!
さらなる決意を胸に秘め、稜花は南を目指す。
向かうは、汰尾平原東。稜明軍の元。




