噂の戦姫(1)
昼も夜もない。
太陽が昇り、陽が落ちて、月が昇り星が瞬く。梓白のための僅かな休息を除いて、稜花は単身駆け続けた。
誰に知られるわけにもいかぬ今、たったひとり隠れて、如何に早く目的地につけるかが勝負を大きく左右する。
楊炎は、このようにいつも一人で駆けていたのだろうか。
唐林から条干へ向かった時もそうだったろうし、きっと過去には、当たり前のように影で働き続けてきたのだろう。
水以外の何かを口にする元気すら沸き起こらないが、それでもここで体調を崩すわけにはいかない。僅かな保存食を口にしながら、稜花は条干への道のりを駆け続けた。
夏もすっかり折り返しているが、まだまだ気温も湿度も高い。
じりじりと太陽は稜花の肌を焦がし、大地からの熱気は稜花の水分を奪った。
それでもなんとか駆け抜けて、尚稜を出立してから五日あまり。ようやく目的地にたどり着いて、稜花はほっとひと息ついた。
条干の城はかつて何度も立ち入ったことがある。早いところ州牧に目通りを願い出ねばと、稜花は真っ直ぐ城へ進もうとした。しかし、なんとなく街の雰囲気に異様さを感じる。
干州の西、唐林から先には戦地が広がっているのは事実だ。
戦の気配を感じて、人々の活気がなくなってしまうのは致し方ないにせよ、今はまだ随分と距離もある。なのに、戦の影響を受けているかのように、怯えるような目をしている者も少なくなかった。
辺りを見回すと、随分と男性が少ないことに気がついた。
――もう、出兵している?
なるほど、どうやら少しばかり遅かったらしい。
いや、むしろこれは先を急ぐ道中では良い結果なのだろうか。宇文斉からの書簡に書かれた幾つかの記述と照らし合わせると、稜花にとって都合の良い方向に、状況が進行していることを悟った。
しかし、出立した兵たちに早いところ追いつかねばなるまい。
となると、まずは州牧に会う必要がある。この状況を食い止められなかったのは、州牧の責任だ。
今年になって初めて就任した干州州牧は、稜明の出。干州は朝廷の直轄地と言えども、もはや稜明のものに近いのは周知の事実。中央から離れていることを良いことに、じわじわと稜明の影響力から逃れられなくなっている。
そもそも、今回の昭との同盟、そして朝廷との対立をはっきりさせれば、李永はここは稜明の地と宣言するつもりだ。
しかしまだ、朝廷派がいなくなったわけではない。今回の戦において、干州の立ち位置を明確にする前に、干州軍は出立してしまったらしい。
――どちらだ?
――干州軍は、どちらについた?
稜花がずかずかと城へ入ろうとすると、警備兵が足止めをしてくる。
「女、貴様のような者が入ることが許されると思うか!?」
圧力をかけるかのように威嚇してくるが、稜花は鼻で笑った。こんな雑魚に構っている暇などないのである。
「許されないの?」
「当たり前だろう!?」
昨年の条干を防衛した際、稜花は随分とこの街の者に感謝された。そしてその後も、事あるごとに条干の軍部と協力して干州全体の防衛に努めていた。
どうやらその時の稜花のことを知らぬ兵らしい。なるほど、まだ顔がきかないのかと己の知名度に苦笑しつつ、稜花は宣った。
「私は稜明領主李永が娘、李稜花。干州州牧呉撞殿に火急の用向きなの。今すぐ、お目通りを願うわ」
稜花はそう告げ、懐から李家の紋を見せる。それを目にした瞬間、警備の兵がさっと顔色を変えた。
ただ今っ、と悲鳴に似た声をあげ、すぐさま宮の奥へと駆けてゆく。こんな門前で待たされるなど不届き極まりないが、稜花とて無茶な行動をしている自覚はある。腕を組んで知らせを待った。
この一年で干州は随分と落ちついたように思う。まだ政治的な問題点は山積みで、朝廷の力が幾分か残っている。
しかし、村々は徐々に活気を取り戻してきたし、条干だってそうだ。他領の商人が少なからず入るようになってきて、徐々に賑わってきているのがわかる。
その立ち上がりはじめた時に、この騒ぎだ。また戦が始まるのかと、人々は不安に駆られているのだろう。
王威が所属していた匡軍、そして彼の掌の上で転がされていた高越たちの爪痕はあまりに大きい。身内同士で争わせることも厭わず、彼らは恐怖でこの地を蹂躙していった。
それ程までに苦しんだ彼らに、まだ混乱を及ぼそうとしているのか。
動いた奴らの先頭に立っている者――裏で糸退いている者がいるのだろうが、まだ定かではない。だが、明らかに稜明ではない別の勢力が、この地に干渉しようとしているらしい。
――止めねば。
同盟軍のことも勿論気がかりだが、干州の民のためにも、奴らの蛮行を止めねばならぬ。そのためにはまず……
「稜花様!」
――と、そこまで考えていたところに、丁度目的の人物が現れた。てっきり中へ招かれると思っていたのだが、相手も今の緊急事態を把握しているのだろう。干州州牧、呉撞は、顔色を変えて稜花の元へ駆け寄ってきた。
「まさか、お一人でいらっしゃったのですか?」
驚きに満ちた目で、呉撞は稜花の周囲を見回す。
だが、探したところで、供の一人もいないことは明らかだ。真剣な表情で、彼女は頷いた。
「私が来た意味は、お分かりになりますか?」
「宇文斉殿より書簡がございました。今後の起こりうる事態について書かれておりまして」
今、稜花が確認したいのは、条干の現状だ。すぐさま兵舎の方へ足を進めながら、お互いの情報を共有しあう。
呉撞は宇文斉からの書簡を手にしており、それにざっと目を通した。
書かれている内容は、稜花に宛てられたものとほとんど同じ。
稜花への書簡との違いは「稜明から稜花が来る」と断言されていたことくらいだ。稜花が飛び出すことは、宇文斉の計算のうちだったらしい。
「呉撞殿、城下の兵が随分と減っておりますね。念のため確認しますが、彼らは何処に?」
「稜花様のご想像通りです。稜明軍に加勢するという名目で、唐林に向かいました」
「……朝廷側でなく、一応稜明についたのですね? もう、出てしまいましたか」
「この一年、稜花様たち稜明軍のお力添えで、干州は随分と持ち直してきた模様。稜明に荷担する大義名分があれば、かなり多くの者が立ち上がったようです」
「……気持ちはありがたいけれど」
進軍ははっきり言って迷惑だ。彼らが表向きだけでも稜明についたのは不幸中の幸いだったが。
「よくもまあ、上手に煽ったものですね。数は?」
「一万二千程。唐林までの村々で、兵を募集しながら行くそうで、まだ増えるでしょう」
「結構な数ね」
稜花は呟く。思った以上に、数が多い。
単純な戦力増強に値する援軍ならば、稜花達は喉から手を出るほど欲している。しかし、彼らが向かったのは唐林。汰尾平原でも、岐冬山でもない。
ほとんどの兵は、今回の出兵が稜明の為になると信じているのだろう。
唐林は稜明にとっても干州にとっても重要拠点。そこの警備に当たると言えば、知識の無い者たちからすると戦に参加して、貢献できていると錯覚するはず。
しかし、それは大きな間違いだ。
軍を率いている者に、別の目的があるのはわかっている。
唐林は重要拠点。いくら干州の者といえども、一万二千もの兵をやすやすと受け入れるわけにはいかないのだ。
杜から岐冬山を護ったとして、帰ってきた際に唐林が奪われていた……という状況になれば元も子もない。
「まだ動かせる兵はいるのでしょう? 騎馬兵をお借りできるかしら? まったく残していない訳ではないのですよね?」
「稜花様、それは……」
「呉撞殿。今回の出陣を止められなかったのは貴方の責任です。それくらいの手助け、して頂けますよね?」
いくら州牧といえども、彼は稜明の息のかかった者。稜花の命に否など言えない。
低く頭を下げ、すぐに、とその場を立ち去る。
さて、干州軍は何処まで進んでいるだろうか。一刻も早く、追わねばなるまい。
一万二千。敵に回れば面倒だが、味方とするならば悪くない数だ。
どうしたものか、と、稜花は頭をひねった。
***
呉撞が用意してくれたのは二百の騎馬だった。これが彼の独断で動かせる限界だったようだ。しかし、単騎で駆けつけるわけにも行かなかったから、正直ありがたい。呉撞と顔をあわせたその日にはすでに条干を発ち、更に一日。
走りに走ってようやく、目的の連中の列をとらえた。かなりの数の歩兵。有象無象の衆が意気揚々と行軍しているのがわかる。
「稜花様、とらえましたね」
「ええ」
付き従ってくれているひとりの兵が、少し安心したように声をかけてくる。しかし、ほっとしている場合でもない。ふう、と大きく息を吐いて、稜花は真っ直ぐその軍を睨み付けた。
そして片手を天にかざし、号令をかけた。
「行くわよ!」
手綱をとり、一気に速度をあげる。相手の大半は歩兵。追いつくのに時間はかからない。
突然二百の騎馬に追いかけられる形になって、後方の者が次々と慌てたように声をあげているのがわかった。敵襲とでも思ったのだろうか。
しかし稜花には襲いかかる気など毛頭無い。歩兵たちの横を駆けていく形で、稜花は彼らに顔を見せた。にまりと、笑みさえ浮かべてみせる。
彼らに軽く手を振りながら、余裕の表情で駆け抜けていく。
青銀色の髪が日の光できらきらと輝き、真白い小柄な馬を駆る少女。居合わせた誰もが、彼女の姿に視線を奪われた。
安心せよ、と言うように、稜花は高らかに宣言した。
「干州軍将軍、張葉殿、稜明の李稜花が参った。歩みを止められよ!」
稜花が声をあげると同時に、一部で歓声が上がる。やはり、干州で稜花の名はいくらか有名になっているようだ。
稜明の戦姫。
これまで稜花が戦ってきたことは、無駄になどなっていなかった。
嬉しくて、頬が緩んだ。
きゅっと唇を結んで、稜花は駆ける。
その稜花を誰もが一目見ようと、彼女を目で追った。
あれが噂の、と頷き合うようにして、軍全体にざわめきが波のように広がっていくのがわかる。
干州の民は稜明への恩義を忘れていなかった。
稜明の為。その大義名分で援軍に名乗りを上げた兵たちが、稜花の登場に浮き足立たない訳がなかった。
ここに居る干州の兵は、稜明に対して良い感情を持っている者が多いのだろう。行軍を止められない場合は彼らの稜明に対する信を利用せよ、と宇文斉の書簡には書いてあった。
やってみせる。
稜花は決意する。
どきどきと高鳴る胸を押さえて、稜花は駆けた。
目指すは先頭。干州軍将軍、張葉。
――彼の好きには、させない。




