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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第二章
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−閑話− 戦前夜

 じっとりとした空気が纏わり付く。すっかり夜も更けて、気温は下がったとは言えるが、蒸すような熱気はまだ残っている。

 鎧を纏うことに抵抗はないが、それでも、暑いと感じることを止めることは出来ない。ふう、と大きく息を吐いて、楊炎は宵闇の空、そして眼下に広がる平原に目を向けた。



 会議は随分と長引いた。それもそうだろう。曽州が離反したとは言え、戦力差は歴然としている。

 杜軍が陣を築き上げているのも、この岐冬山からだとよく見える。遠目にも隠す気は無い、煌々としたたいまつの明かりがいくつも並んでいる。あのたいまつの数だけ、敵軍の規模の大きさが伺える。



 まだ両軍はにらみ合っている段階だ。杜は各地からの兵を待っている状態だし、こちらの出方も窺っているのだろう。数を見て、早めに降伏すれば良し、という考えもあるはずだ。

 本日の軍略会議の流れを思い出しつつ、楊炎は再度大きなため息をついた。

 稜花軍を束ねる立場にあたる楊炎と悠舜も会議の場に参加していた。正確には、稜花軍はそのまま李永の管轄に入る。しかし当然ながら李永軍は後方に控えるため、実質彼の手足となり、前線に出るのがこの稜花軍だ。


 この同盟軍も一枚岩ではない。要は、どちらの軍が大きな負担を背負うのか。水面下で軍師同士のにらみ合いもあったようだった。

 宇文斉もなかなかの口達者だが、彼に勝るとも劣らない者がいるとは思わなかった。




「あれ、楊炎さんじゃないですか」


 丁度、昭の軍師のことを思い浮かべていたところ、後ろから声をかけられて振り向いた。透明感のある涼しげな声は、ここを戦場だと感じさせない。

 振り返ると、そこにはひょろりとした長身で、桃色の長い髪を一つに束ねた男、高濫(こうらん)が立っていた。髪と同じ甘ったるい桃色の瞳は、柔和な笑みを浮かべている。この優男がまさに、先ほどの会議で場を取り仕切っていた者だ。ひとつに束ねた長い髪をくるくると指でいじっては、ご機嫌な様子で目を細める。

 後ろには楊基と、彼の第一の武将陸由(りくゆ)の姿も見える。高濫が楊炎に声をかけるのは予想外だったらしく、楊基が何とも言えない顔で表情をしかめたのが印象的だった。



「私に何か?」

「いいえ、ひとりで佇んでいらっしゃるから、何かと思って」


 そうして高濫は楊炎の近くへ歩いてくる。眼下の平原にざっと目を通して、おおー、とのんきな声をあげた。

 軍師とはこのように喰えない者が多いのだろうか。あえて飄々とした雰囲気を押し出してくるところが、なんとなく宇文斉の態度と近しいものを感じる。


「さすがに、あちらさんは大軍勢ですね。ねえ、殿」

「何を今更」

「ふふ、だって、殺りがいがあるじゃないですか。数が多いだけ策も大規模になります。もちろん、細かい策もいろいろ張り巡らせますけど、戦を決定付けるためには大きなものを」

「高濫」


 少し言葉が過ぎたからだろうか。楊基が厳しい口調で止めると、高濫はばつの悪そうな顔を見せた。


「……すみません、私もこの規模の戦は初めてですので。少し、気が高ぶっているようです」


 軍師失格ですね、と、ぺろりと舌を出してみせる。

 短い会話の中で、楊炎は、この者と絶対相容れないことを悟った。ぴくりと眉を動かして、つい厳しい目で見下ろしてしまう。

 しかし高濫はそれを知ってか知らずか、気にする様子もなく話しを続ける。



「楊炎さんとは、いろいろ話したかったんですよ。だってほら、同僚じゃないですか」

「まだだ、高濫」

「ええ? そうなのです? 早いところこっちに来ればいいのに」


 まさか楊基がたしなめる側にまわるとは思わなかった。呆れたような表情をした楊基に、今ばかりは同情する。

 一方、桃色の長い髪を梳かしながら、高濫は非常につまらなさそうな顔をした。


「噂の姫君にも会えなかったし、がっかりです」

「……高濫」

「陸由は見てるんでしょう? 殿も、楊炎さんも、ずるいじゃないですか」

「高濫の目に入れると、減る」


 何が、とは言わないまでも、楊基は明らかに不機嫌そうな面持ちで、彼の暴走を止めた。そして楊炎に近づいてくるなり、すまない、と謝罪の言葉をかける。

 たいしたことではないにせよ、この男がまさか謝罪の言葉を口にするとは思わず、楊炎は瞬いた。

 並んだ二人の背丈はほぼ同じ。同じ高さで、杜の陣を見下ろした。




「姫の機嫌はあれからどうだ?」

「……」


 当然の質問ではあるが、いささか言葉に困った。

 彼女の姿を脳裏に思い浮かべため息をつこうとしたが、すぐに呼吸を殺した。彼女の様子を悟られてはなるまい、そう思ったからだ。


 稜花は絶望的にふさぎ込んでいた。

 随分と長い時間を彼女の隣で過ごしてきたと思うが、婚約が決まった後の嘆きようは初めて見る姿でもあった。正直、見ているだけで胸が苦しくなったものだ。


 いつも明るい表情を浮かべて、ころころと動き回る瞳を見るのは嫌いではなかった。

 自分にないものを全て持っている姫。それを惜しげも無く、分け与えてくれるのは少し気恥ずかしい。

 出会った頃の李公季をも思い出すような気がしたが、彼ともまた違う。もっと、ずっと真っ直ぐな瞳で、自分自身を見つめてきていたのを、楊炎は知っていた。



 それが、婚約が決まった後はどうだ。

 しばらくふさぎ込んで部屋から出てこなかった。

 出てきたと思えば、調練に出ることもなく、女性らしい振る舞いを身につけるための勉強と、婚姻へ向けての準備に追われる姿しか見ていない。彼女に付き従う時間も随分と減ったように思う。彼女は、目の前のことに没頭することで、何かを考えないようにしているようだった。


 ――それに。

 彼女が楊基と出かけた後。李進の執務室で見せた彼女の顔が忘れられない。

 自分の顔を見るなり、溢れそうな瞳を益々丸くして、そのままほろほろ涙を流した。潤んで艶めく瞳。一瞬の表情だったが、あの時の彼女の顔に、胸がつぶれそうな気持ちになったことは確かだ。



 ――どうかしている、と思う。


 自らの任は、彼女に付き従うこと。それ以上でもそれ以下でもない。主の心がいくら乱れようと、それはまた別の問題だ。

 なのに、自分の顔を見て、涙を浮かべた彼女を放ってはおけなかった。

 とっさに肩を掴もうとして、叶わなかった。手を伸ばして、追いかけたい心地にどう対処すればわからなかった。

 その役目は、自分のような者には相応しくない。それだけは自覚していた。


 彼女に触れたいと思ったものの、触れることは出来ず。

 せめて側に居たかったけれど、それも叶わず。


 同時に、そのようなことを願った自分に、酷く困惑した。




「……姫は、ご準備に忙しいようで」


 ようやく返せた言葉が、これだ。

 間違いではない。今回の戦に彼女の活躍の場はないが、それでいい。本来は屋敷の奥に身を寄せ、危険などない場所で心安らかに過ごすべき女性だ。今までの方が、どうかしていた。

 なのにこの空虚な気持ちは何だというのか。


 無意識に、戦場に、彼女の姿を探しているような。



「ふむ、稜花姫は戦場の姿も良いが、着飾るとなかなかのものだった。花嫁姿が楽しみだな」


 思い出すように笑みを浮かべる楊基を見て、胸が騒いだ。

 祝いの席ですら、じっと見つめるだけで、自分の感情を押し殺すのに必死だった。彼女の諦めたような微笑みも、楊基の勝ち誇ったような表情も、全てが苛立たしい。自らにこんなにもはっきりとした感情が芽生えるとは思わず戸惑ったが、楊炎にはどうすることも出来なかった。

 いつものように、ただ押し殺す。

 彼女の腰にまわる手。いつかあの手が彼女の全てを手に入れるかと思うと、全身が沸き立つような心地すらする。



 その歯がゆい想いと重なりあうのは、かつての夢。おそらく幼い頃のものであるだろう、遠い、遠い焔の記憶。

 焔を迷わせ、翻弄した少年。抜け出せなかった闇に唯一入り込んできた者。

 自分の欲しいものを全て持っていた少年。手に入れられぬ自分。


 ――では、手に入れたいものとは、なんだというのだ?



『手に入れることを諦めている男に、私は何も渡すつもりはない』


 かつての祝いの席、剣舞の際に楊基はこう言った。あの時とっさに驚きとも、怒りとも言えない感情が沸き起こったが、なぜそのような想いが溢れたのか結局わからなかった。

 しかし今。

 こうして彼女のことを口にする楊基を目の前にして、初めて、その原因に触れた気がする。


 ――この男に、稜花を渡したくなど、ない。どうやらそう思っていたらしい。




「変わり者だって聞きますけど、やっぱりお綺麗なんですね。いいですね、殿。綺麗なお嫁さん。羨ましいですよ、ねえ、陸由」


 朗らかに高濫は声をあげた。楽しそうに陸由に話題を振るが、肝心の陸由は視線を逸らす。


「何故俺にふる」


 そうして陸由は、少々気まずそうに短く答えた。

 そもそも主君が話している場に、口を挟むのは良くない。陸由も楊炎と同じ、己の立場をよく弁えている者のようだ。

 いずれ、自らも昭へ赴く。彼らとの接触は、免れないだろう。不作法者だらけでないことに、楊炎は僅かに安堵する。



 そう、楊炎はもう覚悟を決めていた。稜花とともに、昭へ向かう。

 かつて、李公季にも、改めて頭を下げられた。「昭に向かう稜花を、よろしく頼む」と。

 元の主人が頭を垂れることに酷く驚き、戸惑った。しかし、その願いがなくとも、楊炎は稜花についていくのだろうと思う。


 なぜなら、目の前の楊基――彼のところに単身稜花を送るなどと危険な事、できそうにないからだ。




 ほう、と、楊基がわざとらしく息をついたところで、はっとした。彼を見つめる視線が厳しいものになっていたらしい。

 一度ぎゅっと目を閉じた後、彼から視線を逸らす。

 悟られてはならぬ。

 稜花に対して芽生えはじめたじんわりとした熱。知られてしまっては、彼女から遠ざけられるかもしれない。



「秋までに戦は終わらせる。楊炎も一度稜明に帰って、稜花姫とともに来ると良い。姫が逃げぬよう、せいぜい見張っておいてくれ」

「逃げるなど」

「無いと言い切れるのか?」

「……ございません」

「お前がその気にならないなら、良い」


 挑戦的な瞳で、楊基が見つめてくる。

 ああ、この瞳だと、楊炎は思う。剣舞の時にすれ違った時もそうだった。

 楊炎の事をすべてわかったような口ぶりで、全てを取り上げ、暗い檻に閉じ込める。

 煽っているのか、押さえ込んでいるのか、はたまた困惑するのを見て楽しんでいるのか。そうして自分の感情を絡め取ろうとしてくる楊基が、燻る記憶に触れてくる。


 ――夢の中の少年も、こうやって自分の所に来ては、真実か嘘かわからない言葉を吐いて惑わせていたように思う。

 自ら捨てた記憶。夢の欠片を拾い集めて、うすらぼんやりとした真実を確認する。

 あの表情が、口ぶりが、絶対的な存在が自分を縛り付けて動けなくする。


 その少年と幾ばくも変わらぬ瞳。


 あの檻の中に、稜花を閉じ込めるわけには、いかない。




 自分は、かつての無力な少年では、ない。あの頃の記憶など残ってはいないが、夢の姿が本当なのであれば、今の自分で越えてみせようと思う。

 稜花を一人、楊基に差し出す気など、ないのだ。



『手に入れることを諦めている男に、私は何も渡すつもりはない』


 再度、楊基の言葉を頭の中で繰り返す。自信ありげな楊基にも、今回ばかりは思うようにはさせない。


 もちろん、稜花を手に入れることなど、最初から望んでいない。

 しかし、彼女を楊基の人形にする気も、さらさら無いのだ。



「……本当に、この戦、終わりますでしょうか」

「私が言っているのだ。終わる」


 確定した事実を淡々と述べるように、楊基は言った。

 自信に満ちた彼の顔を見、次に陸由、高濫へと視線を移す。

 誰もが確信したように、大きく頷いた。



 昭には勢いがある。

 あの細い肩。華奢な少女を、その嵐の渦のような場所に置き去りにするわけがない。この得体の知れない男に、手折られるわけにはいかない。

 今は側に居られないが、必ず護ると胸に誓う。だからこそ、この戦も乗り越え、生きて彼女の元に戻らなければならないだろう。



「輿入れには、間に合いそうですね」


 喜ぶべきなのかどうなのか、楊炎にはわからない。

 ただ、まずは、昭までの道中に同行できそうな事実に、安堵した。


「必ず勝ちましょう」


 そして、自らは――生きて再び、彼女の隣に立つのだ。

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