出奔
「兄上、一体どういうこと!?」
稜明・昭同盟軍の苦戦。もちろん、予測できたことだし、むしろ相手の軍の方が遙かに兵力は多い。
しかし、地の利がある故、同盟軍だって対抗できうる手段はいくらでもある。相手が寄せ集めの兵であり、各地から遠征してきているなら尚更だ。侵入を許さぬよう、防衛に主体を置いておけば、やがては撤退せざるを得なくなるだろう。
しかし、王威が出て来るならば話は別だ。
「王威は異常よ。敵も味方も、彼は被害の大きさを気にするような人間ではない」
最後に出会ったのは条干だった。それから風の噂で、戦場に姿を現しては立ち去ったようなことを何度か聞いたが。よりにもよって……いや、今回ほどの大きな戦だからこそ、姿を現したのだろう。
そして、稜明とは敵対する軍に所属した。
奴はまだ忘れていないのかもしれない。一矢報いた稜花。そして、対等に打ち合った楊炎を。
「……彼に対抗できるのは、私が知る限り、楊炎しかいない。数でどうにかなる相手じゃないのよ」
同時に放たれた複数の矢すらものともせず、奴は戦場を駆け抜ける。そして、標的に向かって真っ直ぐに突き進む。一方で、自らの兵の命を無駄にすることを厭わず、無茶な攻め方で相手軍を攪乱させるわけだ。
ただでさえ不利な状況の中、王威の参戦に対して大きく戦力を割かねばならないだろう。しかし、同盟軍にはそんな余裕はないはずだ。
「現れたのは、戦場の何処?」
「……稜花、其方の気にすることではないだろう」
「気にするわよっ。家族も、自分の軍の皆もいるわけだし。その……楊基だっているのよ」
申し訳程度に、あまり思い出したくない婚約者の名前を挙げておく。しかし、情報を聞くため、利用できるものは利用したい。
ざざ、と、李公季の執務室の地図を勝手に広げ、稜花は戦場の地形を俯瞰した。
小さな丘とも山とも言えるものがぽこぽこと並び立ち、一番高いのが岐冬山となる。順当に考えればここが本陣となるのだろうが、今回はどうだろうか。長期戦になる場合に、この地形だと、あまり相応しくないかもと稜花は思う。水路の確保が、難しそうだ。
それよりも、唐林へと抜ける谷間に展開するのだろうか。数多くの敵を相手とするならば、わかりやすい手段ではある。しかし、そう簡単に敵が乗ってくるとも思えない。仕掛ける側も、逆に罠にかけられやすい危うい場所でもある。
「……まったく其方は。先に言っておくが、稜花の意見は聞かぬ。よいな」
ため息をつきながら、李公季は今回の布陣を地図上に示してくれる。駒を幾つか並べるわけだが、今回はやけに大駒が多い。
稜明・昭同盟軍は稜明四万、昭六万の合計十万。
対する杜と朝廷の連合軍は汰尾平原の南に広く展開し、その数――
「……二十五……万?」
三倍とまではいかないが、圧倒的な兵力差だ。難しい策など必要なく、数で取り囲んでしまえばすでに相手の勝ちではないか。
ひやりと、汗がこぼれるのを感じた。この兵力差に加えて、敵軍には王威が参戦しているのである。
せめて冬まで、持ちこたえられればとも思う。あの一帯はかなり冷え込み、降雪量も多い。敵軍は数が多いだけに、兵糧の確保も難しくなる。遠征してきている身では厳しいだろう。
しかし、この兵力差で冬まで持たせるのは至難の業だ。ただでさえ、全面戦争の構えなのに。それがわかっているからこそ、杜は短期決戦で仕掛けてくる気がする。
「これでも数は減ったんだ。曽州が退いた」
「え?」
「昭側の働きがけらしいがな。別の餌を巻いたら、あっさりと離反したらしい」
曽州の位置を思い出して、稜花は納得する。杜につくと見込んでいた四州のうち、曽州は北西の位置にあたる。小領地を挟んで隣が昭。なんらかの働きかけはしやすいはずだ。
「それでも、これだけの勢力差。兄上、策は? 策はあるのでしょう?」
「……ふむ。無い事は、ない。しかし、まだ時が必要だ。まずはそこまで持たせることが出来るかどうか」
「……」
稜花は地図を凝視し、己の拳を握りしめる。
圧倒的な兵力差の中、大変な戦になっているだろう。どう立ち回ればこの戦況が覆るのか。稜花にはまったくわからない。ただ、こうやって遠くで戦況を聞く。そんなことしか出来ないのだろうか。
「今回は其方と懇意にしていた宇文斉だけではない。恭俊もいる。昭からの知恵者も集まっていると言うがな」
「そもそもの駒がないと、策も施しようがないでしょう?」
宇文斉の実力は知っている。となると、師である恭俊も十二分に信頼できることはわかる。この数の差を逆に利用するくらいのことは考えているかもしれないが、それはあくまでも稜花の希望的観測にすぎない。
「王威の軍は?」
「ふむ、汰尾平原の東。ここだな」
李公季がそう言い、盤面にさらに駒を追加する。平原を西から東へ横断するように杜軍が構えている中、最も東に位置する場所に出現したようだ。
対する稜明は、中央の岐冬山に本陣を置き、そこから小規模な丘を利用して陣を展開している。
盟主を楊基とし、本陣の岐冬山に楊基が。そしてその東――唐林へ抜ける谷間“孤林”を挟む形で、李永軍が展開している。
つまり、稜明軍が王威と向き合っている位置づけになる。
「……嫌な予感がするわ」
王威の戦は異常だ。戦局がどうなろうが、彼の知ったことではない。彼が東に陣取っていると言うことは、彼がしたい戦が、東で展開されると思っているのではないか。言い換えると、彼が戦いたい相手は――
「王威は、私が参戦していないって知っているのかしら?」
「稜花軍の旗はあるからな……勘違いされている可能性もなくはないが。おそらく、正確な情報は出回っていると考えた方が良い」
「そう」
だとしたら、彼の目的はただひとりではないか。
――楊炎。
ぎゅっと胸がつぶれる心地がする。今の稜明軍に、王威に対抗しうる者など、彼しか居ない。だったら、そう遠くない未来、楊炎と王威はぶつかるだろう。
肩が震える。今すぐにでも、走りたい。駆けつけたい衝動に襲われる。
この戦に敗戦する訳にはいかないのだ。稜明にとっても、昭にとっても。
ゆらりと瞳が揺れたのを、李公季は見逃さなかったらしい。
「稜花」と、たしなめるように呟いて、さっさと地図を片付けはじめる。
「やはり、其方に聞かせるべきではなかったかな」
「そんなことない。知っておかなければ、いけないことよ」
飛び出したい気持ちになることは本当だ。だからといって、知らずに安穏と暮らしていることも、できない。
「私に出来ることは」
「ない。もう、其方には十分背負わせている」
「……」
李公季と目が合った。
昭との縁組のことを指しているのだろう。しかし、それはまだ先の話。そんなこと言っていられる場合でもないはずなのに。
ぎゅっと唇をかみしめ、稜花は一礼する。
このままここにいても、もんもんとした気分を味わうだけだ。そう思い、踵を返して、部屋を出た。
***
自室へと歩みを進める。
外は夏らしい強い日差しと、海からの湿度を含んだ空気がさらに暑く感じさせる。
蝉のけたたましく啼く声が耳を劈き、遠くで戦が起こっていることを感じさせない、安穏とした空気が流れていた。
――こんな時に、何も出来ないなんて。
せめて、李公季のように内政を司れる立場であれば、いろいろ出来ることもあったろう。しかし、稜花には難しい。女伊達ら戦場を駆ける身であるが故、性別の壁はさほど気にはしないが、圧倒的に知識も経験も足りない。力になれることなど、ないのだろう。
だからこそ、すぐさま援軍に駆けつけたい。自分が力になれる場など、戦場にしかないのだ。
しかし今、稜花に動かせる兵はいない。まとまった数の兵を持たぬ身では、何も出来ない。
万事休すで、大きく息を吐いた。
「我が君の所へ行っていらしたのです?」
部屋の前まで戻ると、案の定、香祥嬉が凜と立ちふさがっていた。
いつもならばここから礼儀作法などの手習いが始まるわけだが、今日はちょっと様子が違う。いつもの余裕ある笑みがなりを潜め、少し咎めるような視線で刺されて、稜花は足を止めた。
「義姉上、ええ。少し、戦況を聞きに」
「いてもたってもいられない様子ですのね」
「いえ……これでも、我慢しているのです」
心の中に燻る熱い気持ち。稜花が本当の意味で役に立てるのは、現地でしかない。なのに、たったひとり置いて行かれて、もどかしい気持ちを感じない方がおかしいだろう。
「……部屋に入られませ」
ちら、と稜花へ視線を送って、香祥嬉はさっさと稜花の自室へ入っていく。そしてさっさと人払いをすませてしまう。
一体何なのだろう、と疑問に思うが、別に警戒するわけでもない。きっと、この婚姻に関することか、戦に関することなのだろうが。
香祥嬉を追うようにして部屋に入ると、香祥嬉はすでに椅子に腰掛けて寛いでいるようだった。手習いの際とは随分と異なっている。ちらと稜花の顔を見つめ、お掛けなさいませ、と声をかける。いささか寛いだ様子で、稜花はなんとも拍子抜けな心地がした。
「で、稜花様? どうなさるのです?」
単刀直入に聞かれたが、彼女が何を言おうとしているのかいまいち掴めない。首を傾げつつ、稜花は目を丸くした。
「えっと、何がですか、姉上?」
「……すぐに飛び出さないだけ、褒めて差し上げるべきかしら」
はあ、と大きくため息をついて、香祥嬉は稜花を見つめた。
「汰尾平原の戦ですわよ。今回は飛び出しませんのね」
「公季兄上の部屋には押しかけましたけどね」
ふふ、と苦笑いを浮かべて、稜花も香祥嬉の前の席に腰を下ろす。
稜花が出撃する気が無いことを悟ったのだろう。香祥嬉は少しつまらなそうな顔をする。
「らしくないですのね」
「義姉上、私も、変わらねばならぬ時が来たのです」
「あら、稜花様の行動力は、何者にも勝る美点だと私は思っていましてよ?」
思いがけない褒められ方をして、稜花は目を丸めた。
え? と、間抜けにも声が漏れたものだから、香祥嬉はくつくつ笑う。
「もちろん、考えなしに飛びだすところは、褒められませんわ。しかし、今も何か出来ないかと模索しているのでは?」
「どうしてそれを」
「わかりますわよ。私とて、おなごですから。出来ることは少ないですが、何かしたい気持ちは同じです……しかし、稜花様は行動に移すことが出来るでしょう?」
そこまで話して、香祥嬉は目を伏せた。
一体何だというのだろう。普段迷いの類いを一切見せないこの人が、今、明らかに揺らぐ心をさらけ出している。
「何かあったのですか、義姉上」
「貴女のせいですのよ」
「へ?」
突然わけのわからない咎められ方をして、稜花は目を丸めた。
「貴女が変なのを野放しにしているから悪いのです」
「ええと」
何のことだろうか。変なの、とはなんだ。
どう反応を返して良いのかわからず、稜花は口元をひくひく動かした。こんな香祥嬉は初めて見るから、どう対処して良いのか見当もつかない。
「私に、密書が届いたのです」
すっと。書簡を差し出された。丁寧に折りたたまれたそれは、持ち主の几帳面さを示している。一瞬、悠舜かと思ったが、彼ならば香祥嬉に送る意味がわからない。
怪訝な顔つきのまま、その書簡を開いてみた。
そこには現状の戦況と、これからの大まかな予定が書かれている。李公季に聞いたものよりも、情報も新しければ、内容も密だった。
「……宇文斉」
差出人の名を確認する。
普段ののらりくらりとした物言いとはちがって、かっちりとした文章に違和感を感じる。
内容を確認し、稜花は香祥嬉を見た。
「我が君でなく、私に送ってくるあたり、よくわかっていますわよね。……失敗すれば処罰は免れないでしょうに」
「……一本の、細い道と」
書面には書いてある。さらなる苦境を免れるため――いや、この苦境を覆すために、重要な一手となると。
「でも、本当に彼の言っているとおりになるのかしら?」
「開戦する前にはわかっていたのでしょうね。条干の動きも含めて」
「……確かに、今、あそこに向かえる駒は、いない」
盤面は頭に入っている。稜明にとっては総力戦で、将も兵もまったく足りていないのだ。
ぎゅっと、手元の書簡を握りしめて、稜花は言った。そして、すぐさま立ち上がる。
「……急ぎます。姉上、公季兄上には、うまく伝えておいて」
「ほんと、厄介な義妹ですこと」
「文句は宇文斉に直接仰って下さい」
もしかしたら、これは宇文斉の独断かもしれない。
そして、読み間違えもあるのかもしれない。
しかし、自分が出来ること……いや、自分にしか出来ないことを目の前に掲げられて、じっとしているわけにはいかない。
稜花の行動は、必ず、稜明の役に立つだろう。
「行って参ります」
 




