別れのとき
ぼんやりとしていると、時間だけが高速で目の前を走り去ってしまうようだった。
楊基の求婚を受けてその後、稜花の環境は一変した。本格的に花嫁となるべく、めまぐるしく準備に追われる日が始まった。
衣装をはじめとした生活用品や、布、装飾。身につけるものの準備と並行して、女性としての教育が本格化する。礼儀作法や歌や楽。一朝一夕には身につかぬものだが、付け焼き刃でもないよりはましだ。
今迄逃げ回っていた稜花だが、今更抵抗もするまい。それよりも、この後少しでも役に立つ知識や振る舞いを身につけねばならぬ。というより、今はまだ、他のことを考えたくない。何かに没頭して全てを忘れたかった。
あれから稜花の軍は、楊炎や悠舜に任せきりだ。調練に立つ暇がないというよりも、時間を作らないようにしている。そうして楊炎に任せることで、共に過ごす時間が減って、ほっとしている自分もがいることくらい自覚していた。
正直、あまり心を乱されたくないのだ。
夏に入る前あたりから、稜明全体がざわざわとしている。
数多くの兵が唐林へ向かい、警戒を強めている。正確には、唐林のさらに南西小さな山が連なる“岐冬山”から“汰尾平原”にかけて、今後のために陣を敷いているとか。
それは昭も、そして杜も同じく、開戦の動きを進めているわけだ。
北と南。大陸をぱっくりと二分して、両陣営ともに警戒を強めている。きっと、もうすぐ戦がはじまるのだろう。
兄である李進は既に現地へ向かっている。稜花の軍が取り残されているのは、稜花を戦場に向かわせる気がないからだろうか。
しかしいつかは、と稜花は思う。
今はまだ心の準備が出来ていないけれども、この戦は間違いなく総力戦になるだろう。そうして杜を叩き潰しておかないと、彼らの力は益々膨れ上がる。稜明にいる間にもう一度。この地の為に何か残しておきたい。そう考える日々だった。
そうして呼び出されたある日のことだった。
いよいよ開戦が近く、領主である李永も戦地にむけて発つ兵舎で最終の戦準備を進める李永を前に、稜花は大きく声を張り上げた。
「父上! それは、どういう事!?」
「わかるだろう? これも全て、お前の為だ」
「嫌よ。お願いだから、私も連れて行って!」
出発の準備で動き回っているのは、何も李永直属の兵だけではない。稜花の軍もだ。しかしながら、稜花にとってはあまりに理不尽に感じる命を突きつけられ、声を荒げるほか無かった。
「稜花を連れて行くわけにはいかんのだ。今、お前は昭との同盟において最も重要な身。おいそれと敵前に出す理由もないだろう」
「でもっ……今回を逃したら、私……っ」
戦は幾月に連なるかはわからない。長引いた場合は年単位となる。それまで輿入れを待っているわけにもいかない。
花嫁が嫁ぐのは秋。収穫の時期が最も良いとされる。
稜花にとっては些か急ではあるが、今年の秋には昭に向かうことになるだろう。そのためには準備する期間も全く足りないことはわかっている。だが、今回を逃せば、稜花が稜明のために直接何かをする機会は永遠に失われるのだ。
「我が侭を言ってくれるな、稜花」
「……わかってるけどっ」
輿入れになれば、父は戻ってくるだろうか。
兄、李進は? 稜花軍の仲間……楊炎は?
そこまで考えて、稜花は振り返る。兵舎に来るからと言って、今日は朝から楊炎が後ろに控えていた。
冷たい片眸。最近では少しずつ温かみを帯びてきていたような気がしたのに、出会った頃に戻ってしまったような。気持ちを全部闇色の中にしまい込んでしまったかのようで。
「楊炎は?」
戦に、行くのだろうか。
稜花は恐る恐る、李永に訊ねた。
「当然、稜花軍の者は稜花以外参戦してもらう。特に楊炎ほどの戦力を捨て置くわけにも行かないのでな」
「でも、それじゃあ」
稜花は首を横に振った。
稜花のいないところで、楊炎を出撃させたくはない。彼ほどの腕の者はそう居ないことくらい稜花もよく知っている。だからこそ、稜花の与り知らぬところでまた無茶な命を下されるのでは、と、気が気では無かった。
「……楊炎は、どうしたいの?」
恐る恐る、楊炎に向かって声をかける。
もう何度目だろう。楊炎が下につくようになって、稜花は直接彼の意思を聞くように心がけている。しかし、今回ほどその質問の答えが怖いと思うことなど、かつて無かった。
鈍色の鎧をかっちりと着込んで、いつでも戦に赴ける様子の楊炎。当然、その答えも――
「――参ります」
稜花の悪い予想通り、だった。
***
ずらりと、今回の遠征に赴く兵たちが並ぶ。
かなりの速度で出発の準備を推し進め、あとは李永の号令を待っている状態だ。
集まった兵たちを目前に、稜花は自らの軍の元へ足を進めた。
大勢の兵に交じって、見知った顔が幾人か目に入る。鴇鼠色のクセのある髪をふわんとゆらして背を向けている男。赤墨色の瞳と、目が合って、稜花は頬をゆるめた。
――そうか、泊雷と会うのも、これが最後かもしれない。
彼とは本当に、長い付き合いになる。幼い頃から切磋琢磨、背を比べ合うのと同じように、武器を交わらせ続けた。
背はあっという間に追い抜かれたが、戦いの技術では負けることがなかったな、と、稜花は思い出す。いつか、追い抜かれる日もあったろうに、もうそれも叶わない。
おそらく、彼と相見えることはもう二度と無いだろう。
稜花の顔を見るなり、泊雷は少し顔をしかめた。しかし、それもわずかな事だ。
どう声をかけたらわからない。そんな気持ちが顔に書いてある。「よう」と、それだけ言って、黙り込んでしまった。
「父上のこと、頼んだわよ」
表向きに願えるのは、稜明と家族のこと。真っ直ぐに彼を見ると、泊雷も表情を引き締める。
次に目に入るのは赤茶けた髪。くりくりと人の良さそうな、落ちついた茶色の目。悠舜だ。
「皆の統率、頼んだわね」
稜花に似た直情型の多いこの軍では、悠舜のように理性的な人物は貴重だ。
年若いながら落ち着きのある彼なら、安心して軍を任せられる。関わった時間は短いが、十分に信頼に値する人物と出会えて、稜花にとっては幸運だった。
「はい、現地には宇文斉もおりますから、大丈夫ですよ。稜花様に仕えることができ、私は幸せでした。どうか、お気をつけて」
まるで別れの挨拶だ。
そうだ、稜花は託さねばならぬ。彼らに。彼ら自身を。
「ええ、悠舜も……皆も。気をつけて」
稜花の言葉に、集まった兵たちが一斉に胸に拳を掲げる。もう稜花に仕えることはないのに、いや、仕えることがないからこそ、主への忠誠を示してくれる。
そして最後に。
鋼色の髪。鈍色の鎧。こちらを見つめるその片眸は冷たいーー。
「楊炎」
稜花は、彼の名を呼んだ。
楊炎は唇を引き結び、その場に傅く。その、まるで儀式のような光景。周囲が静寂に包み込まれるように、彼に視線を向けた。
ああ、と、稜花は思う。
行かないで欲しい。どうか無事でいて欲しい。この気持ちを届けることは出来ないが、戦に向かう愛する者を目前にした女は、皆このような気持ちになるのだろう。
無意識に手が伸びる。しかし、彼に触れようとしたところで、ぴたりと止まった。
差し出した手をどうしていいかわからず、熟考の末、彼の肩に置いた。この位置が、稜花の触れうる限界だった。
「皆を任せたわよ」
ーー嘘だ。彼に責任を押しつけたいわけではないのに。
「私の分も、皆を護って」
ーーこれも、嘘だ。誰よりも、無事でいて欲しいのに。
彼だけを特別視するのは、明らかに指揮官として間違っていること。だから、言葉には出せない。気持ちをにっこりと笑顔で覆い隠して、稜花は彼の肩から手を離した。
すると楊炎が顔を上げる。温度のない瞳と目が合い、じっと見つめ合う事しばし。
「畏まりまして。戦が終わりましたら……楊基殿とともに昭へ駆けつけましょう」
ーー残酷な言葉を、聞かされた。
「っ」
本当に。本当にこの男は、何度心を揺さぶれば気がすむのだろうか。瞳が僅かに揺れそうになるが、稜花は拳を握りしめ、なんとか気持ちを抑え込んだ。
「ええ、必ず」
無事で。と、言葉を飲み込む。
いつまでもここに留まってはいられない。そう思い、踵を返そうとしたときだ。
体を反対向けた際、鞘に納められた剣が飛んでくる。無意識に受け取り、何事と思った瞬間、正面に白刃が舞った。
同時に、身体中の血が沸き立つような感覚に襲われる。目を見開き、とっさに剣を抜いた。
彼ーー泊雷は、槍ではなく剣を構え、稜花に斬りつけた。それを紙一重でかわし、稜花も反撃の体勢をとる。
稜花が自分の獲物でないから、同じ立場に立ったとでも言うのか。しかしーー
「甘いっ!」
隙ならば、ある。避けた流れで相手の脇腹をとろうと流し打つ。しかしそれは見透かされていた様で、泊雷は軽く弾き返した。
そして、気がつくと、稜花は地面に腰を落としている。尻餅をつく様な形で、何が起こったのかわからず、天を見上げた。
そこにはにい、と満面の笑みを零した泊雷と、「何もこんな所で」と、苦言を漏らす悠舜が見える。さらにその横では、少し驚いた表情を見せた楊炎が立っていた。
「負け、た……?」
ぽかんと間抜けにも口を開けて、稜花は目を丸める。剣を握っていた手のひらがじんじんとあつい。
そういえば、剣を持つのも久しぶりだったかもしれない。しかし、この相手に、そんな言い訳をしたくなど、ない。
「少しは安心しろ、稜花。俺だって、強くなってるんだ」
一年前とは、違う。そう告げながら、泊雷は稜花に手を差し出す。
恐る恐る握り返したら、強い力でぐっと引き上げられた。年の割に大きな体をしていたが、ますます力が強くなったらしい。
「楊炎だけに、負担はかけない」
そうしてごく真剣な顔になって、稜花だけに聞こえる声で呟いた。どうやら、幼馴染には全てお見通しらしい。
驚いた表情で泊雷を見返すと、わざとらしい溜息をつきながら、落ちた剣を拾い上げる。
「俺は優しいから、勝ち逃げなんざするつもりはねえぞ。せいぜい昭でも調練するんだな。また、ともに戦場に立つこともあるだろう?」
再戦はその時だ、と、言葉を付け足した。
このところのもやもやを発散したような心地になって、稜花の心も少し軽くなる。
大丈夫。昭へ行こうとも、稜明の為に出来ることはあるはず。
稜花は大きく頷いて、泊雷、そして皆との再会を誓う。
やがて、父、李永の号令があり、遠くなる皆の背中をいつまでも見守ってーー
ーーそうして一月あまり。
稜花の耳に届いたのは、稜明・昭同盟軍の苦戦の報告。
そして、敵将としての、王威の参戦だった。
 




