突然の来訪者(5)
頭が重い。ぎちぎちに結わえられ、油でしっかりと固められた髪には、真っ赤な珠をいくつも揺らした簪を所狭しと飾られる。青銀色で冷たい印象の髪が、一気に華やかに彩られる。
裾の長い衣を幾重にも重ねられ、重たい帯には豪奢な刺繍が施されている。深い赤と金。いつもの天真爛漫な印象は、なりを潜め、凜とした佇まいはすっかりと大人の女性を思わせた。
衣装とともに、気持ちも、立場も。随分と重くなったように感じる。
大きく踏み出せない歩幅が慣れない。それでもなんとか、ずらりと並んだ家臣たちの中央を、稜花はゆっくりと歩いて行った。
今日の宴は、いつも以上に豪奢に感じる。すでに運ばれている料理は、並べられた器からして違う。朱と金を中心に、蓮や鳳凰を描いた大皿が多い。祝いの席に相応しい絵柄で、華やかなものが選ばれているようだ。
料理も今の段階で全て出てきているわけではないが、稜明だけでなく、昭風の内陸地特有の料理も多く用意してあるようだった。海から遠く、内陸地ならではの川魚や、山椒を生かした料理が並べられている。前を通るだけで、ぷん、と独特の香りが漂ってきた。
贅をこらした料理の数々。そして酒。これだけ用意するのは、稜花が戻ってきてからの短期間ではとても無理だ。
単純に、皿を用意するだけで、どれほどの時間がかかることか。つまり、この宴は、幾月も前から準備されていたであろう事が、稜花にはわかった。
ため息が出そうな気持ちを抑えて、稜花は真っ直ぐに前へ進んだ。上座付近には李家の者や楊基の臣下。そして中央には二人の領主が並ぶ。
見る気は無かったのに、視界の端に黒の影を捉えた。楊炎。彼もまた、家臣の中に交じるようにして、会場の末席に座している。別に黒の衣装を着ているわけではない。しかし、稜花の目にははっきりと、彼だけが黒く塗りつぶされたかのように主張して見えた。
正面に立つ楊基を真っ直ぐ見つめると、彼は目を細めて笑った。
ほう、と、言葉が漏れる。ごく近くへ進むと、彼は立ち上がり、さっと手を出した。なるほど、手を取れと言うことか。
右手を差し出すと、たちまち強く手を引かれた。そのままくるりと反転させられ、腰に手を回される。この様子を普段の走り回っている姿しか知らない臣下たちに見られるかと思うと、顔から火が出そうだ。
「着飾ったところは初めて見るな」
耳元でぼそぼそと楊基が呟く。
「なるほど、美しい」
あまりにも直接的な褒め言葉に、稜花は目を見開いた。
きっと世辞に違いないだろうが、皆に動揺している姿を見られるわけにもいくまい。
僅かに口を開き、深く呼吸する。ゆっくりと息を吐くと、随分と気持ちが落ちついた。
ふと隣に目を向けると、父である李永も立ち上がり、一歩前へ出た。ひとつ呼吸した後に、口を開く。
「皆の者、良く集まってくれた。匡や朝廷、杜との情勢が不安定な中、良く勤めてくれている。唐林を中心に、南方面は未だ落ちつかず、警戒を怠ることの出来ぬ状況である。先の見えない乱世のさなかではあるが、ここにひとつ、其方らに朗報を伝えよう」
ちら、と李永が稜花達の方へ目を向けた。
こうやって二人で並んでいるのだ。何を言わずとも、もう伝わっていると思うが――。
「隣領である“昭”の領主楊基殿と、我が娘稜花の縁を結ぶ事に相成った」
それでも、宴の場には衝撃が走ったらしい。やはり、という納得の声ではあったが、改めて婚約が確定した事実に、胸をなで下ろすような動作をする者も多かった。
かなりの多くの官吏たちが、昭と繋がりを持ちたかったことを実感する。
「近々、杜に大きな動きもあるだろう。二領が協力し合い、大陸の北部に奴らの侵入を許さぬよう、尽力せねばならぬ――よって、ここに婚約を成立し、稜明と昭は同盟を結ぶ!」
李永の宣言に、会場には大きな歓声が沸き起こった。
宴の始まりである。
酒の肴にするには最高の慶事。特に文官たちにとってはこの婚姻は念願だったらしく、興奮を隠すつもりはないらしい。
一方で、武官の者は少し様子が違った。会場の片隅ではあるが、稜花を昭へ向かわせることを惜しむような声もあるらしく、それだけが稜花にとっては救いだった。
たちまち会場には音楽が奏でられ、皆が喜びの美酒に酔いしれる。隣に腰掛けた楊基も非常に上機嫌に、祝いの肴を口にする。
稜花達の前には次々に、挨拶の口上を述べる者が訪れた。そうして誰もが、喜びの言葉を口にする。
これほど目出たい縁はない。
昭との同盟は念願である。
稜花ならば楊基の妻に相応しい。と。
皆が皆、この慶事に浮き足立っているのがわかる。だからこそ、稜花は何とも言えない冷めた目で、彼らを見てしまっていた。表情には笑みを浮かべているけれど、頭の中は冷たく冴えきっており、ごく冷静だ。
普段の稜花とは随分と異なる大人っぽい衣装や、普段の仕草とのあまりの違いに、静かに微笑む稜花は皆の注目の的だった。
「稜明の料理はなかなかに美味いな」
横で魚の蒸し料理を平らげ、楊基が宣う。数日間稜明で過ごしていた彼だが、どの料理もおおむね好評だったらしい。
「海の魚もよいのだが……やはり塩か」
ぶつぶつと食材について考察を始めたようだ。同盟を組むからには、とことん利益を得るつもりなのだろう。稜明の特産品に目を光らせては、稜花に言い聞かせるようにして呟いた。共通認識として持たせたいらしい。
今回の同盟は軍事的なものであることに間違いは無いのだが、楊基は明らかに稜明の商業と交通に興味を持っている。実際、文官たちと挨拶を交わす都度、稜明の特産について質問を投げかけていた。
しかし、それも酒が回るまでのことだ。
やがては彼も、いつぞやのようにすっかりと出来上がってしまい、上機嫌だ。李永と笑いあっては、今後大陸の未来と独立についての夢物語を口にする。一度ならよいのだが、同じ話を何度も何度もするものだから、今後これに付き合わされるのかと思うと、うんざりした。
しかし、そうこうするうちに、楊基の興味はやがて別の所にうつった。上機嫌なのが行きすぎたらしい。
「――ふむ、こうも食で満足させられては、何かを返さねばならんな」
突然楊基が立ち上がったものだから、皆が一斉に彼に注目した。その視線をにい、と楽しそうに見つめ、彼は李永に申し出る。
「余興などいかがかな。剣舞は私も苦手ではない」
この発言には、稜花だけでなく、李永も目を丸めた。まさか同盟相手の領主自ら、余興に興ずるとでも言うのか。
「良いのですかな、楊基殿?」
「なに、こちらとて楽しませてもらう。楽士をお借りする」
返事を最後まで聞くこともなく、彼は壇上から降りていった。
こうと決めたらさっさと行動に移す節がある。こういったとき彼は、身分も何も気にすることがなく、ざっくばらんで合理的なところがあった。
他領の者に武具を渡すことに少しばかり躊躇したが、所詮は剣舞用に刃が潰してあるもの。戸惑いながらも召使が剣を用意しようとした時だった。
「剣は二本所望する」
思いがけぬ言葉に、皆がきょとんとした顔をした。
「此度の縁に相応しい舞にしようではないか。ーー楊炎」
聞き慣れた名前が出てきてはっとしたのは稜花だけではない。
近くに座している李公季をはじめとした李家の者も、彼をよく知る官吏も、そして、楊炎本人までもが目を瞠って楊基を見返した。
二人の距離は遠い。しかし、楊炎は明らかにその冷たい片眸で、楊基を訝しげに見ているようだ。一方で楊基は、実に楽しげに言葉を続けた。
「昭の領主と、姫の第一の臣下。二領の繋がりを示すためにも、これほどの組み合わせはあるまいよ。其方ほどの腕だ。まさか舞えぬとも言うまい」
酒が入っているのも手伝って、完全に煽るような形になってしまっている。
楊基に名指しで呼ばれる。これが如何に名誉なことかと、周囲の者は口々に声を上げ始める。それは明らかに期待を含むもので、楊炎の立場では辞するわけにもいかなかった。
感情を隠した表情で、楊炎はすっと立ち上がった。楊基は実に楽しそうに、運ばれてきた剣を一本受け取るよう告げる。大衆の真ん中に立つ形で、楊炎は剣を手に取った。
「月陰雀歌だ。舞えるな」
歌の名を告げられて、周囲はますます熱気に包まれた。
月陰雀歌。過去に存在した呈国の故事をもとにした、雀支という武人の生き様を讃える歌だ。彼は生涯、絶対的な忠誠でもって主君に仕え続けた。まさに臣下の鑑と称される人物である。
楊炎と稜花の関係を知る者たちは、稜花が嫁ごうとも彼女に忠誠を捧げ続けると誓う内容に受け取れるだろう。
実際雀支は、主君が国を離れる際、自国にとどまり続けて防衛に努めた。しかし、いざ主君が危機に陥った知らせを聞くやいなや、単騎で駆け抜け主君を救い出したという逸話まである。
その伝説を楊炎に当てはめてみると、妙にしっくりくる。
まがりなりにも彼は、かの王威を一騎打ちの末、退けている。相当な胆力の持ち主だ。
離れても稜花に忠誠を誓う。稜花が危機の際には駆けつけるのではと、美談として受け取る者が多数だろう。
一方で、稜花の胸中は穏やかではなかった。きっと、楊炎だってそうだろう。
冗談かもしれないが、かつて楊基は楊炎を欲したこともある。楊炎のことを気に入っているのだろう。二人のやりとりを見ていても、他領の臣下に対する態度とは思えない気安さ、同時に圧力のようなものを感じる。
対する楊炎は、楊基に対して並々ならぬ警戒心を持っていた。立場上どうしようもないとはいえ、楊基が側にいる際は、いつもぴりっとした空気が流れることを稜花は知っている。
そんな二人が舞う月陰雀歌。
これは、楊炎に対しての意思表示ではないのか。昭へ来て、楊基に仕えよという強引な誘い。
言いようのない焦燥感が、稜花の胸中を駆け抜ける。先ほどまでひた隠しにしてきた今回の婚姻に対する不安が大きく膨れあがり、僅かに呼吸が速くなる。
――楊基は、楊炎も昭に呼ぶつもりなんだ。
このとき、楊炎と李公季の中ですでに話がついていることを稜花は知らなかった。
だからこそ、この剣舞を披露することによって、もしかしたら楊炎がついてきてくれるかもしれないという喜びと不安で、胸がまた張り裂けそうになる。
楊炎に心穏やかにいて欲しかった。なのに、彼に張り詰めた環境で生活を強要することになる。
それに、稜花だって――諦めたはずなのに、僅かな期待に胸が高鳴り、同時に絶望する。なぜ、こんな想いをせねばならないのだろうか。
楊炎は片眸を閉じ、恭しく剣を受け取った。普段の大ぶりな刀とは異なった、細やかな細工が施されている優美な剣を構え、楊基の隣に並ぶ。
端整な顔立ちは自信に満ちており、華やかな雰囲気を持った楊基。
冷たい片眸に傷だらけの体。そぎ落とされた無駄のない筋肉。まるで抜き身の刃のような楊炎。
同じ背丈、同じ鋼色の髪を持った二人だが、並んでみると随分と対照的に見えた。
二人が視線を合わせるのを待っていたかのように、音楽が奏でられる。
優美な弦の調べは、最初は緩やかながら、たちまち速度を上げ、高音を響かせる。その音色に合わせるように、二人は剣を交差させながら一つ一つの所作をきっちりと揃えていた。
静と動。
点を線で結ぶ動き。
それは見事としか言いようがなく、まるで申し合わせたように適度な距離をとって二人は舞う。対照的な二人だからこそ、この題材にぴったりと合い、会場の者はまるで雀支の生涯を見守るような気持ちになる。
出会い。忠誠。奔走。交錯。
王の影として生き続ける雀支の一生が、そこにはあった。
見たこともない楊炎の姿に、稜花は目を離せなくなった。隣では将来、稜花の夫となる者が舞っているのに。なのにどうしてだろう。楊炎の――影のような存在である彼にこそ、稜花は惹かれてならない。
本来ならばずっと寄り添ってくれているはずの月。
昼間は姿を見せず、夜になるたび現れる。月の一生、雀支の一生、そして楊炎の一生。
彼が雀支のように、ずっと側にいてくれたらどんなに良いだろうか――と思いつつも、稜花は悟っている。彼女の本当の願いは、楊炎に、影のままでいて欲しいわけではないということを。
言葉に出来ない想いをかみしめる。
柔と剛。二人が織りなす美しい舞は、皆の注目を大いに集めた。誰もがその美しさに息を潜め、食い入るように見つめている。
そんな中、稜花は気付いた。
二人がすれ違う動作を見せた一瞬。
楊基が楊炎の耳元で、何かを囁いた。その後、僅かに楊炎が目を見開いたから間違いない。楊基は何かを、楊炎に告げた。それも、彼を動揺させる何かを。
嫌な汗が流れ落ちる。
場の空気は盛り上がり、こんなにも温まっているのに何故だろう。
稜花の周囲だけは季節知らずの冷たい風が吹いているように、心は冷え、動けなくなった。
いつの間にやら音楽が鳴り止み、喝采が沸き起こっている。しかしその喧噪すら頭に入らないほど、稜花はただただ二人を見つめていた。
やがて舞を終えた楊基が自分の側に戻ってきたけれど、どう声をかけて良いのかわからない。
彼は確かに、素晴らしい舞手ではあった。
だから、何か讃える言葉を言おうとしたのに、口について出たのは違うものだった。
「楊炎に、なんて……?」
言葉にしてからはっとする。
何を口走っているのだ。小声だから、楊基にしか聞こえてはいないだろうが、婚約発表の席で他の男の名を出すなどとどうかしている。
しかし楊基はそれを咎めることもなく、軽く頷いた。
「見えていたのか」
「……」
「あれは、私が貰う。いいか、稜花姫。必ず昭へ引っ張ってこい」
楊炎にどんな言葉で伝えたのかはわからなかったが、同じようなことを口にしたのだろう。
やはり、と稜花は思った。
この男の未来に組み込まれているのは、稜花だけではない。
楊炎までも、だったのだ。




