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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第二章
26/84

突然の来訪者(4)

 寝台に突っ伏したまま泣いた。声は出なかった。

 楊炎の何事もなかったかのような態度。それがこんなにも胸に突き刺さるだなんて思わなかった。

 自分の感情がままならなくて、嫌になる。楊基に振り回され、父や兄の言葉に苛立つ一方で、絆される気持ちもある。

 そして、楊炎の顔を見るだけで、どうして心がこんなにも言うことを聞かないのか。



『――恋を知らぬのか、稜花姫?』


 楊基の言葉が蘇る。

 何故だ。

 何故、楊炎の事を思い浮かべただけで、この言葉を思い出すというのか。

 自分の腕を抱きしめて、こぼれる涙を拭うことすら出来なかった。震える肩をどうにか諫めるだけで、心の中は嵐のように乱れ、そして、熱い。



 ――そっか。


 合点がいった。

 どうしてこんなに胸が痛むのか。


 ――私、楊炎のこと、好きだったんだ……。


 何度も何度も否定したけれど、受け入れてしまえば、すとんと心に落ちてくる。

 当たり前のように側にいたから気がつかなかった。

 手を伸ばせば届く。そんな位置にいつもいてくれた。自分を見守ってくれていた。

 そんな彼が、自分の婚約に動揺ひとつ見せず、受け入れてくれたのが悔しくもあり、哀しかった。彼が側に在り続けてくれたのは、ただの義務でしかなかった事実。それを突きつけられた気がして――。



 ほろほろと、涙は止まる気配がない。

 恋慕なんて、かつて自覚した事なんて無かった。いつかは自分も、とは想いを馳せても、心揺るがす相手には会えなかった。いや、ずっと側にいすぎていて、気がつかなかった。


 ――この想いを、ずっと抱えて生きていかなければいけないの?


 そんなこと、自分には、できない。

 初めて向き合うこの感情に、対処する方法など、分かりようがない。

 それに自分は、昭へ――楊基の――妻となるのだ。


 楊炎への想いと同時に、いつの間にや楊基との婚姻を避けようのない事実として認めてしまっている自分がいる。

 楊炎は――昭へついてきてくれるのだろうか?

 いや、ついてきて欲しくないのだろうか。


 自分は楊基の妻となる。当然、楊炎への想いは断ち切らなければいけない。

 だからこそ、楊炎が側にいる状況が、耐えられるはずがない。同時に、彼と毎日顔を合わせていたら、いつまで経ってもこの気持ちを失うことなど無いだろうから。



「……馬鹿みたい」


 婚約を迫られて。最後の最後で、こんなにも心に引っかかるのが、まさか恋慕だなんて。

 改めて考えてみると、今までの自分が歩んできた道が滑稽にさえ思えた。

 何の為に双剣を覚え、何の為に戦ってきたのか。結局楊基の元に嫁ぐというのであれば、自分の手を血に染めるようなことをしなくても良かったのではないか。

 楊炎と出会うこともなかったろう。彼を傍に置き、ともに戦うことなど決してなかったはずだ。

 そうすれば、楊基との婚姻に、少しは前向きになれていたかもしれないのに――。





 目が痛い。自分の部屋に帰ってきてから、どれくらい時間が経ったのか。窓から差し込む光は暗く、いつの間にやら日が落ちていたことに気がつく。いつまで、泣き続けていれば良いのだろう。

 以前涙を流したのは、一体いつだったか――もう記憶にすらない。それだけ稜花には必要のない行為だった。

 気にくわないこと、悲しいことがあれば口に出せばいい。訓練をして、発散させればいい。怒って、わめき散らせばいい。

 しかし、今の稜花の立場が、そうさせてはくれない。



「稜花」


 入り口の方から聞き慣れた声が聞こえた。

 誰にも入らぬように、良く言い聞かせておいたのに。


「おい、稜花」


 じらすような声に、致し方なく稜花は身を起こした。顔だけは向けるのを躊躇う。目元が熱い。鈍い痛み。きっと酷い顔をしているのだろう。



「兄上、ごめん、今は――」


 帰って。と、言おうとした。


「まぁまぁ、そう言うなって」


 しかし稜花の気持ちを顧みず、強引に部屋に押し入ってくる彼は、やはり稜花の兄だ。

 兄――李進。久しぶりに会う李家の次兄は、ずかずかと部屋に入り込み、稜花の肩を掴んだ。


 ぐいと引っ張られるようにして、稜花は李進の顔を見た。稜花と目が合った瞬間、李進は目を瞠る。目が真っ赤になっていることに、気がついたのだろう。

 少し困ったような表情をして見せたが、すぐさま李進は笑みを浮かべた。稜花を元気づけるつもりで来たのだろう。そうしてくい、と、酒瓶を掲げてみせる。



「今夜は部下が付き合ってくれないんだ。どうだ、一杯?」


 わざとらしい言い訳ではあるが、言いたいことは分かる。李進は最も稜花に近しい家族だ。こんな時だって、一切の遠慮は無い。

 そうして彼は返事を待っているが、返事をする気になれなかった。


「どうした。ほら、南から仕入れた極上品だぞ」

「いらないわ」

「そうはいっても、少しは気が紛れるだろう」


 稜花の返事など聞く耳持たず。強引に、李進は稜花に杯を持たせた。力無く稜花に掴まれた杯に向かって、李進は躊躇無く酌をする。


「いらないってば!」


 稜花は無理矢理とられた腕を払った。勢いに任せて、酒がまき散り、杯が床に転げ落ちて、割れた。


「おいおい、何だ。勿体ない」

「いいから、ほっといてよ」


 部屋の中がざわつきはじめる心地がする。しかしまだ、騒いで気持ちを紛らわせる気にはなれないのだ。

 どうか一人にして欲しい。そんな稜花の気持ちをまったく理解することなく、闊達な兄はずかずかと彼女の領域に入り込んでくる。それが更に、火に油を注ぐわけで。



「私の所なんか来なくて良いの。慰めようとしても、無駄よ。自分でも……整理するのに、手一杯なのに」

「稜花」

「良かったね。嬉しい? 私が嫁いだら、もう、調練の邪魔をする妹がいなくなるよね。その上、昭と同盟を組めるおまけ付きよ。嬉しくないはずがないわよね。世話の焼けるじゃじゃ馬を人に押しつけられて、よかったね」

「……」


 李進は呆然と、稜花を見つめていた。

 彼に八つ当たりすることは、稜花にとっては珍しいことでもなかったが、こうまで自棄になっているのは初めて見るからだろう。

 普段は朗々とした様子の彼だが、このときばかりは目を細め、稜花を見守っている。


「私だって分かっていたのよ。李家のために嫁ぐことくらい。選択の余地がないことくらい、知ってた。でも、どうして? どうして昭なの?」



 楊基の顔を思い浮かべる。あの男の掌の上で、自分が踊らされているような気がしてならない。思考が読めなくて、恐ろしい。

 あの男は天を見ている。その頂き――天下が手に入って当然とも言えるような、絶対的な自信と行動力。揺るぎない未来が描かれていて、稜花はその中にすでに組み込まれている。


 しかし、それが何のためなのかがわからない。稜花を手に入れ、稜明と同盟を結ぶ。そうして杜や朝廷と対抗する力を備えることは出来るだろう。

 稜明は国の片田舎にすぎないが、領地は狭くはないし、領民だって少なくない。稜河を通じて海まで出ることが出来る。同盟の内容によっては、昭から直接海まで渡れるようになるだろう。それは昭にとっては大きな理に違いない。


 しかし、本当にそれだけなのだろうか。あの男が、そんな目先の利益に食いつくようなことをするのだろうか。

 こんな片田舎の領主の娘を娶るぐらいで、満足する意味が分からない。

 本当は、兄たちも気がついているのではないか。あの男の底の知れなさを。




「いずれあの男は大きくなるわ」

「ああ、そうだろうな」

「……いつ、稜明の敵に回るともわからない」


 稜花の言葉に、李進は眉をひそめた。


 しかし、稜花は本能で感じていた。

 楊基が本当に信じるのは、自分と、自身が掴みうる道のみだ。必要であるから道ばたの道具を拾う。逆に、必要なくなったら、切って捨てることを厭わないだろう。

 “情”という言葉とは別の所に、彼は立っているのだ。



「もし、情勢が変わったら? 稜明の地は、楊基にとっては必要な地よ。本格的にとりに来てもおかしくない。私の家族だからって、李家と敵対することを厭う男じゃないことくらい、分かるでしょう? そうなったら――そうなったら私、兄上たちと戦わなくてはいけない日がやってくる」


 これはただの悪い想像でしかない。

 しかし、無いと言い切れないだけに、ぶるりと、体が震えた。


「そしたら私はどうすれば良いの? 私は今まで、何のために調練を積んできたの? あの男の道具にされるためじゃない。ましてや、この地に攻め入るためでもないわ。この地を――稜明を護るためよ」



 そうして皆の顔を思い出す。

 李永。李公季。李進。

 香祥嬉に宇文斉。悠舜に泊愉、泊雷。領民の皆。そして――



 ――彼は、ともに来てくれるだろうか。


 ーー或いは。



 鋼の髪に鈍色の鎧。いつも傍らに寄り添い、戦場を駆け抜けた。そんな彼と……楊炎と、敵対する日が、来るのだろうか。


 彼を想い。諦めるように、瞳を閉じた。

 止まりかけていた涙が、再びぽろぽろと溢れる。止めどもなく流れ続け、しまいには李進の顔が見えなくなった。

 李進は、ゆっくりと、寝台の前にしゃがみ込んだ。そうしてじっと、稜花の顔を見つめてくる。

 堪らなくなって、稜花はしゃくり上げた。兄の大きな手が、優しく頭を撫でる。自分を可愛がってくれた李進。李公季のわかりにくい優しさとは違い、真正面から甘やかしてくれる。


「……っ!」


 稜花は李進に抱きついた。李進も、彼女をしっかりと受け止める。

 抱きしめられる両腕が逞しい。広い胸が、頼もしい。それは幼い頃、抱きしめてもらったあの時と幾分変わるものではなかった。

 いつまでも、兄弟一緒にいられると思っていた。いつまでも、変わらないものだと思っていた。しかし、いつしか稜花は嫁ぎ、家から離れようとしている。




 李進の胸の中で、稜花は泣いた。李進が、どんな表情をしているのかはわからない。

 ただ、ひたすら泣き続ける自分を支え続けてくれて、ようやく少し涙がおさまってくる。

 何度かしゃくり上げながらも、稜花は気恥ずかしそうに兄から離れた。


「――ごめんなさい」


 思い切り泣いたら気恥ずかしくなって、小さく、声を漏らした。

 それに李進は少しだけ微笑を浮かべた。けれど、それきりで。再び真剣そうな顔つきで、稜花を見つめた。



「……もういいの。ありがと」


 諦めたようにして、稜花は笑う。

 しかし、それに絆されることもなく、李進はじっと稜花を見つめ続けている。


「……稜花」

「何?」

「何故俺が来たか、わかるか?」


 じっと見つめる李進の瞳に、稜花は少し俯いてから答えた。


「最初は、同情しに来てくれたんだと、思ったけど……」


 今は違う。少なからず同情する気持ちはあるのだろう。けれど、そればかりではない気がした。

 仲の良かった稜花のことだ。家族よりも稜明を優先する李公季と違って、李進は兄妹らしい接し方をしてくれる。だからこそ、稜花が部屋に籠もっていると知れば放ってはおけないのだろう。

 純粋に稜花を心配し、駆けつけてくれた。李家の将来よりも稜花を心配してくれた。それが嬉しい。



「それは違う。兄上に頼まれたんだ」

「え?」


 思いがけない言葉に、稜花は耳を疑った。

 基本的に厳しい李公季のことだ。稜花よりもこの地を大切に扱っているはず。それがどうして。


「稜花が心配だと、口々に言ってな。自分が行っては、気の利いた言葉もかけられない。むしろ、稜花を傷つけてしまうと。だから稜花のことを、俺に頼んだんだ」

「公季兄上が、そんなことを」


 李公季の殊勝な一面を知って、稜花は目を丸める。

 現状を冷静に判断した結果、李進に託したのだろうが。妹を前にどう接すれば良いかわからず悩む李公季の姿。それを想像すると、少し可笑しい。


 稜花は頬を緩めた。

 大丈夫。家族はちゃんと、自分と向き合ってくれている。



「間違ってはいけない。兄上は、稜花のことを大切に思っている。だが、稜花とこの地。大切なもの二つを、秤にかけられた。内政を取り仕切る身だからこそ、非情な判断をしなければいけない時もあるだろう。それに……」


 李進は表情を益々強ばらせて、稜花を見つめた。そうして、たたずまいを直し、改めて稜花と向き合う。



「お前の憂慮は、もっともだ」

「兄上……?」

「だから、お前が昭に行くんだ」


 稜花は息を呑んだ。

 滅多に見ない、ごく真剣な表情の李進。そんな彼に真っ直ぐに見据えられ、言葉が胸に突き刺さる。


「楊基は確かに底がしれない。しかし、目の前の利害関係がはっきりしている今なら、その懐に飛び込める。彼奴が稜明を狙うと言う時は、お前が全力で止めるんだ」

「私に……そんなことが……?」


 楊基の顔を思い浮かべる。

 その王者の笑み。絶対的な決断と行動力。それを抑制することなど出来るのだろうか。


「立つ地は違えど、俺たちは兄妹だ。稜明を思うなら戦場を変えてくれないか、稜花。それは俺でも父上でも、兄上でもない。お前にしか出来ないことだ」

「稜明を――護る?」

「そうだ」



 ぐるぐると胸の中が渦巻く。

 皆と離れても、自分が稜明の役に立ち続けることは出来る。隣領であり、それなりに力を持った領地だからこそ、出来ることもあるのだろう。

 ましてや楊基は言った。建国すると。彼自らが王となり、絶対的な存在になる。

 そんな彼を、野放しにしておく訳にはいかない。




 ――楊炎。


 名を呼ぶ。

 心の中で。誰にも気がつかれないように。



 ――楊炎。ごめんなさい。私。


 何故謝るのかわからない。

 ただ、彼を欲した時に誓った。彼の心の戒めを、解きたいと。勝手に自分で決めつけて、身勝手にも自分の想いに巻き込んできた過去。それが彼のためになるならと、傍らに居続けてきた自分。

 でも、もう、それも最後になるかもしれない。

 自分の接してきた態度が、彼にとって良かったのか悪かったのかはわからない。ただ、少しでも彼の心の闇を払えていたら良いのにと、稜花は思う。




「昭に……楊基に、嫁ぎます」



 顔を上げる。

 稜花の浮かべた表情は、戦場で駆ける時と同じものだった。

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