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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第二章
25/84

突然の来訪者(3)

 稜花の回らない頭は、更に停滞していた。

 目の前に楊基がいる。彼の言葉を頭の中で繰り返してみる。


 ――妻。

 ――初代国王の妃。


 驚きや戸惑いのような感情がゆるゆるとやってくる。この状況を世間一般では何というのだったか。

 求婚。まさにそのものではないか。命令に近い言葉で告げられ、夢も甘さも何も感じなかったが、確かに求婚だ。


「え?」


 状況について行けず、稜花は間抜けな声をあげた。


 さやさやと風は心地よく、流れる小川の穏やかな水の音が耳に響く。

 目の前には、あの楊基が自信に満ちた表情で稜花を見下ろし、彼女の体を抱き寄せる。

 あまりに衝撃的な言葉に、身じろぎひとつ出来なかったが、気がつけば稜花は彼に抱きしめられていた。



「どうした? いつものように噛みつかないのか? ならばこのまま攫っていってもいいのだぞ」

「ちょっ……ちょっと待って! だって、今、貴方何言って……!?」


 悲鳴に似た声をあげて混乱する稜花を腕の中に納めたまま、楊基はくつくつと笑みをこぼす。ぎゅう、と力をこめられ、稜花はますます脳内を掻き乱された。


「ちょっ……、楊基殿! 冗談にしてはあまりにっ」

「冗談なわけがあるか。私とて、それ位は弁えているとも」


 稜花がどうにか言い逃れようとするのを許す気は無いらしい。楊基は稜花の頬に手を当て、真剣な眼差しで見つめてくる。


「私は、貴女に求婚しているのだ。ーー昭へ来い。稜花姫」



 ざわりと。胸が騒いだ。

 改めて言葉にされてしまい、認めざるを得ない状況になっている。


 足の指先から頭の天辺まで。ざっと血が駆け巡る感触がした。

 狩りで狙われた獣は、こんな気持ちなのかもしれない。見つめられた瞬間動けなくなって。捕らえられた直後にどっと恐怖が押し寄せる。



 ああ、と、稜花は思った。

 初めて敗北を感じた。

 どうあってもこの男からは逃れられぬ。そんな確信にも似た感情。

 認めたくないのに、認めざるを得ない。



 ーー自分は、この人のものになるのだ。



 認めると同時に心が暴れ出す。


 いやだ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ。

 この笑顔の奥底に、何を考えているかわからぬ、とらえきれない男のものになんてなりたくない。

 抗いたい。

 拒否したい。

 認めたくなんてない。


 けれども、彼の張り巡らせた糸を感じる。

 震える唇をきゅっと結んで、稜花は楊基をまっすぐ見返した。

 確認せねばならないことがある。稜花自身、殆ど答えは出ているけれど、真実を確かめなければならない。


「求婚のこと……父上は……」


 この男に弱いところなど見せたくはない。なのに、声が掠れて言葉にならなかった。

 しかし、言いたいことは伝わったのだろう。楊基は口角をくいとあげ、実に楽しげに言葉を返した。


「他者の意見など無粋なことを聞くのか?」

「答えて」

「……ふむ、もちろん互いの同意の上だ。今後の同盟の証として、これ以上の縁はないだろうからな」


 追い討ちのような言葉に、稜花は目を閉じた。

 同盟の為という言葉に気が遠くなるのを感じる。予想通りの回答だったが、足元が崩れ去るような心地にすらなった。


「娘御は求婚に夢を抱くのだろう? 政治云々の前に姫の面子を立てたつもりだったが。不要だったか?」


 余裕ありげな物言いが気にくわない。

 彼は、この婚姻はすでに決定事項だとわかっての行為だったのだ。つまり稜花の機嫌取りのためだけに、このような言動に走ったとでも言うのか。



 いつか誰かに嫁ぐことは分かっていた。

 でも、稜花は稜明にいたくて。この地を護り、この地で生きたくて、そのために戦ってきた。これからも家族の、領民のために生き続けたいと思っていたのに。

 自分の望む婚姻なんて、期待なんかしていなかったけれど。ただ稜明に、皆の側にいたい――と、身近な者の顔を思い浮かべるに至って、ちら、と脳裏に黒の影がかすめる。



 心臓が跳ね上がり、顔を上げた。

 目の前の楊基の顔と、黒の影が重なる。

 瞳の色や風貌はまるで異なっているのに。鋼色の髪。そして“彼”と同じ程の背丈だからか。


 どうして。楊基と向き合っているこの場面で、彼の――楊炎の顔が浮かんでくるのだろう。



 あり得ない、と稜花も思う。

 誰かの側にいたい。自身でも感じたことのない類いの願望に、どうして彼が。なにを馬鹿なことを考えているのだ、と、とっさに否定したが、一度浮かんでしまったことはなかなか消えることがない。

 わなわなと口を開いて、首を横に振った。

 流石にそれくらい弁えている。あり得ない。あってはならぬ事だ。




「……そんなにまで嫌なのか? 私とて、傷つかぬわけではないのだぞ」


 声をかけられてはっとする。

 稜花が首を振ったのを、拒否されたとでも思ったのだろう。

 そうだ、目の前の男は、彼ではない。たちまち思考を楊炎の影に占拠されていたことを思い知り、言葉を失った。


「あ……その……」


 何かを言いかけて、黙り込む。後の言葉が続かない。

 顔に熱が集中する。目の前の楊基ではない。楊炎の事を思い出してこの有様だ。

 真っ赤な頬を隠すように、顔を背ける。とてもではないが、楊基には、見られたくない。



「……なるほど、そのような一面もあったか」


 しかし、そんな稜花の様子をどう受け取られたのやら。

 世の乙女と変わらぬな……などと苦笑しつつ、楊基は稜花の頭をくしゃりと撫でた。


「随分と初心なことだ。恋を知らぬのか、稜花姫?」


 核心をつく言葉に、稜花は狼狽する。

 ますます頬が熱くなって、どう返答して良いか分からず、口を開け閉めする。

 そんな稜花の反応を楽しむかのように、楊基は破顔した。


「まあいい。私とて、無碍にされるのを好むわけではないが。まだ時間はある。あまり待つつもりはないから、早めに覚悟を決められよ」


 その言葉に稜花は、首を縦にも横にも振ることが出来ず、ただ、見つめ返すだけだった。





 ***





 稜花ははやる心を押さえ込み、早足で城の回廊を抜ける。川から吹き込む風が冷たくなってきていた。

 日は傾きはじめているが、李永はまだ執務室にいるのだろう。完全に押しかける形になるが、構わない。どうしても、あの人に話を聞かぬ事には、前に進めないのだ。


 どうやって問い詰めてやろうか。回廊を歩いているうちに、強気でいようと決めた気持ちがだんだん萎えていく。足が重い。事実を聞くのが、怖い。

 稜花はつくづく自分らしくないななんて思って、笑って。そして前を見た。



「しかし、公季よ。それはあまりに……」


 執務室の中から、誰かの話し声が聞こえた。聞き慣れた声だ。

 どうやら李永だけではなく、李公季もいるらしい。


 ――楊炎は。


 と、考えてやめた。誰が居ても良い。虚しい笑みをこぼして、稜花は自分に言い聞かせた。


 ――行くわよ。負けないわ。




「父上。稜花です。失礼するわ」


 凜とした大きな声で告げて、問答無用で扉を開く。

 背筋を真っ直ぐと伸ばし、真正面から李永を見つめた。


 稜花の乱入は予想通りだったのだろう。突然開かれた扉の方を見つめ、李永は目を丸めた後、にい、と笑い、李公季は呆れたようにしてため息をついた。

 稜花が部屋をぐるりと見回すと、いるのはこの二人のみ。楊炎の姿は、見えない。

 残念なような、安心したような気持ちになって、ふと息を吐いた。


「稜花」


 李永が彼女の名前を呼ぶ。

 ごく真剣な顔になって見つめてくるのは、稜花自身が睨み付けるような視線を向けているからだろう。



「聞きたいことが、あるの」


 張りつめた空気が、部屋を満たす。

 息を呑んだ。李永も、李公季も。きっと二人は、稜花が何を話そうとしているのかわかっているのだろう。


「どうした、いきなり」

「分かっているでしょう? 私と、楊基殿の婚姻について聞きに来たのよ」

「ずいぶんと単刀直入に聞くな」


 返答したのは李公季だった。大きくため息をつき、更に言葉を続ける。


「楊基殿にも聞いたのだろう? もはや決定していることだ」



 ――やはり。


 久々に会う李公季は、甘い表情一つ見せず、端的に答えを出した。

 覚悟はしていたものの、確実に気落ちした。稜花は口を開いて、何かを言おうとしたが、肝心の言葉が出てこない。


 稜明を離れていた間、李永や楊基たちの間で話は大方済んでいたのだろう。もしかしたら、新年の慶賀の際に話を詰めていたのかもしれない。

 打診し合って、確定していたからこそ、楊基は稜花に直接求婚した。


 つまり、稜花に隠していたわけだ。

 楊基が何を告げるか知っていただろうに――いや、知っていたからこそ、笑顔で稜花を送り出した。

 李家の者まで稜花を後押しし、自分だけが戸惑いと、苛立ちでどうにかなりそうになっている。



「……納得が、できない」

「稜花、無茶を言うな」

「わかってるわよ。私がいつかは嫁ぐこと。そしてその相手は、きっと父上か兄上どちらかが決めることくらい、わかってたわ」


 李永が言うことはもっともだ。婚姻は、領主の娘として言わば義務のようなものだ。楊基に嫁ぎたくない気持ちは、ただの我が侭でしかない。

 楊基に聞いた時勢が本当ならば、一刻も早く、稜明と昭は同盟を結ぶべきだろう。


「確かに李家は、西の昭、南の杜に比べたら財力も、兵力も足りないわよね。だから、私が誰と婚姻を結ぶかがどんなに大事なことなのか――自分がいつかは、李家の大志のための道具にされることくらい知ってた。そして、杜と朝廷が近づいた今、昭との繋がりがどれほど欲しいか、それだって、分かってる」


 杜と朝廷。

 この単語が出てきて、李永も李公季も目を細めた。

 聞いたのか、と、ぼそりと声が漏れている。


「ただ――」


 ただ、何なのか。自分でもわからない。自分の気持ちをどう言葉で表現したらいいのかが、理解しがたかった。

 目の前の二人は、ひたすら、稜花の言葉を待っている。


「ただ、私は、この地が好き。父上や、兄上達が治めるこの地がとても好き。なのにどうして。どうしてこの地からさえも、私は離れなくてはいけないの?」


 稜花は、じっと、父と兄、二人の顔を見つめた。二人はそれぞれ口を結び、黙りこんでいる。




「……稜花、あまり父上や私を困らせてくれるな」


 先に、沈黙を破ったのは李公季だった。

 稜花は表情を歪める。兄を困らせたいわけではない。しかし、一度振り上げた手はなかなか下ろせないのも事実である。


「お前にはすまないことをしたと思っている。しかし、私とて父上の決定を後押しした。それほどに急ぐ話なのだ、これは」


 それは分かっている。

 稜花は小さく、首を縦にふる。兄を困らせていることも、この婚姻が最善のものであることも、きちんと理解している。

 ただ、こうやってわめき散らしているのは、ただ自分可愛さの為でしかない。

 彼らの娘であり、妹であるが故の我が侭。そして、甘え。

 ぎゅっと拳を握る稜花に、今度は父が声をかける。



「稜花。お前は大切な、私の娘だ。自分のことを道具などと言うな。私はそのつもりで、お前を扱ってはいない」

「父上」

「楊基殿の才はお前もよく知っておろう。彼なら、お前を奥に入れることなく、自由に生きさせてくれるのではないか?」


 はっとして李永を見た。

 随分と楊基を気に入った様子だったが、その真意は初めて聞く。


「放っておくと戦場に飛び出すようなじゃじゃ馬だ。李家から出ると、お前は窮屈な思いをすることになるだろう? しかし、楊基殿ならば……お前の望む道に進ませてくれるのではないか?」

「父上……」


 楊基は稜花を面白いと言った。

 戦場に出る彼女を咎めるわけでもなく。素直に活躍を褒めてくれた。

 おそらく嫁いだとしても、きちんと意見を聞き、否定することもなく、場を与えてくれるだけの度量がある。そんな楊基の姿を、容易に想像できてしまう。

 李永の言うことは、一理ある。楊基の器は、並のものではない。

 楊基に嫁ぐことは、稜明だけでなく、稜花にとっての最善でもあると考えてくれていたのだろうが――。


 ――決断するしかないのだろうか。

 重たい口をどうにか開こうとして、なかなか言葉に出来ず。

 心を落ちつかせるため、深く呼吸した。その時だった。




「失礼致します」


 扉の方からひとりの声が聞こえた。

 落ちついた、抑揚のない低い声。誰の言葉かなど、見なくたって分かる。

 許可が下り、その声の主が姿を現す。彼に背を向けた状態で、稜花は固まった。


「姫がお戻りになられたと――」


 やがて稜花はゆっくりと振り返った。

 鋼色の髪。鈍色の鎧。血色のマントが翻る。

 開かれた片眸は冷たく深く。左眼の眼帯に隠しきれぬ古い傷が印象的で。


「楊炎」


 この場にだけは、来て欲しくなかった。会いたくなかった。

 声をかけ、見つめ合う。

 目が合った瞬間、楊炎の片眸が僅かに揺れた気がした。しかし、すぐにいつもの無表情に戻ってしまう。

 そして楊炎は目を伏せ、その場に傅いた。


「姫」


 ようやくかたまりかけていた心をまた動かされる。李永や李公季の言葉など頭から消え去り、ただ、彼に釘付けになっていた。

 どんな表情をすれば良いのか分からない。しかし、そんな稜花の気持ちなんて、彼には分からないのだろう。落ち着き払った様子で、ただ、顔を伏せている。そしてそのまま静かに言い放った。


「このたびは、楊基殿とのご婚約、おめでとうございます」



 胸が、騒いだ。


 ――どうしよう。


 稜花の目が、大きく見開かれた。


 ――痛い。どうしよう。


 自分がどんな表情をしているのか、わからなかった。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、はたまた笑っているのかが。自分でも、わからない。ただ、どうしようもないくらいに、言葉が、心を貫いて。――痛くて。

 溢れた。気持ちが。洪水のように。胸から身体全体を廻って。こぼれ落ちる。



「――ええ」


 ありがとう。表面だけの言葉ですら、声にならなかった。言えなかった。

 ただ、溢れた。見開かれた双眸から、大粒の涙が。


 ――やめて。

 ――言わないで。

 ――何事もなかったような顔をしないで。


 震えた。身体全体が。

 もう駄目だ。こんなところで、立ってはいられない。

 涙が溢れて前が見えない。でも、それを拭う気にもなれなくて。涙の先に楊炎の姿が揺れて。


「……っ」


 もう、自分の気持ちがどうなったかは知らない。けれど、一刻も早くこの場から離れたくて、部屋を飛び出した。


「稜花!」


 聞こえたのは、李永の声か、李公季の声か。そんなこと、どうでも良かった。

 ただ、走って。走って。

 誰にも見つからぬ何処かに、行ってしまいたかった。

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