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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第一章
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−閑話− 焔という名の少年

 ――(えん)

 ――焔や、こちらへおいで。


 小さな窓がひとつだけ。白い月明かりが差し込むのみの薄暗い部屋。その片隅で身を縮ませ、存在するのも申し訳なさそうに息をする少年がいた。

 少年が、声がする方をちらりと見てみると、月明かりと同じ、白い手が見える。

 まるで白磁のような滑らかな肌。あちこちあざや傷だらけの自分とは違う、本当に美しいひとを見て、少年は変わらぬ表情をますます強ばらせた。


 白い手が手招きする。

 上機嫌の彼女には従わなくてはならないことを、彼はこれまでの経験で知っていた。少しでも彼女の気に障るようなことをしたならば、たちまち、終わりのない折檻が彼を苦しめる。動かない頭で、そして本能でそれだけは悟っているからこそ、少年はふらふらと立ち上がり彼女の前へと歩んだ。



 ――ああ、この髪。なんて良い色なのでしょう。あの人と同じ。


 朗らかに笑って、彼女は嬉しそうに少年の頭を撫でた。少年はぴくりとも動かない。そうして、まるで人形そのもののように彼女に撫でられる役目に徹した。

 彼女は、ひとしきり少年の頭を撫でると、今度は痛ましげな肌を撫で始める。


 ――本当に、ごめんなさいね。私は悪い女ね。貴方のことはとっても大切に思っているの。だって、あの人の子どもだもの。大切にしないわけがないでしょう? さ、愛しい我が子。こちらへいらっしゃい。


 ねっとりとした(げん)。これが彼女のまやかしであることを、少年は知っている。

 少年に暗示をかけ、同時に彼女は彼女自身すら欺く。何度も何度も呟くことによって、“あの男の子ども”であることを彼女の中での事実にしたいだけなのだと、少年はわかっていた。


 父親とは会ったことがない。

 限られた狭い世界の中で出会う人間も、当然限られてくる。食事を運ぶ者、生傷絶えない彼の手当をしてくれる者、そして母と名乗る目の前の彼女。そういった少数の女性だけであって、ごく稀に訪れる男は碌な者ではないことも、少年は知っていた。

 ある者は彼女に連れられて、少年の折檻をするために。またある者は、己の鬱憤を晴らすため、少年を痛めつけるために。そしてまたある者はーー少年に外の世界のことをたれ込むために。


 深夜にたまに現れる少年――年の頃は自分と大差ないかもしれないが、彼は少年にしては他の者よりずっとしっかりした顔つきをしている――がその典型だ。父親のことだって、彼に教えて貰ったのだ。


 彼女の言う父親というのが、本当の父ではないことを。


 その少年の言葉が嘘か誠かは判らない。知る術もないし、さして興味もなかった。彼は情報を与えては、自分の反応を楽しむようにしていたのも事実。そんな彼の態度がますます、事実を覆い隠し、惑わせる。




 ちらりと、自分を愛でる彼女を見た。

 この人は、何に縋って、生きているのだろう。そうやって哀れむことで、どうにか自分を保つことができた。

 生きている実感もない虚ろな自分。寄りかかる明かりが眩しすぎないから、こうやって身を預けることができる。薄暗く醜い自分を照らし出さず、ひっそりと捨て置いて、たまにぬくもりをくれる。それ以上は、自分には必要は無い。放っておいて欲しい。

 ぼんやりと、この歪んだ愛情に身を寄せながら、少年は現状に微睡む。


 そうして彼女と目が合った。

 ああ、やってしまったと、少年は思う。

 虚ろな瞳に、彼女をとらえてしまった。彼女とは絶対目を合わせてはならぬ。それが彼にとっての禁止事項であったのに。



 ――その瞳。


 少年を撫でる手は、掴む手になり、強く力を込められる。

 忌々しげに言葉を吐かれて、少年は身を固くした。


 ――どうして、朱じゃ、ないのよ!


 呪いに似た彼女の言。

 瞳の色。彼女とも父らしき男とも違うらしい瞳の色を酷く疎まれた。

 持ってはいけない、色彩だった。そんなことは、少年の関与できうる事ではない。どうしようもないことなのにも関わらず、彼女は少年を責めた。


 かつて、この部屋を訪れたあの少年も言っていたではないか。

 ――彼女は君を呪っているのではない。恨んでいるわけでもない。

 ――君という存在を生み落としてしまった自分自身の蛮行を呪っているだけだ。



 肌を打たれ、髪を引っ張られる。

 もとより動く力に欠けるこの体には、抵抗する術がない。いっそこの世から消して欲しい。そう願ってやまないほど、地獄の折檻は一晩中続けられる。

 意識が朦朧とし、体が言うことをきかなくなるまで、折檻は続く。いや、きっと意識を手放した後も続いていくのだろう。だったら、少しでも早く、手放せたら良い。

 痛みを感じぬのなら、自分の体くらい、いくらでも好きにして良いから。



 すべてが馬鹿らしくなって、少年は息を吐いた。

 ふ、と。口元からこぼれ落ちる息。諦めにも似た、細い息をとらえて、彼女は手を止めた。


 ――どうしてっ、どうして笑うのよ……!!


 何事ぞ、と少年は思う。ちらと、彼女の手元に視線を寄越そうとしたとき、彼の目に信じられないものが映った。

 鋼色の懐刀。少年の髪よりも僅かに薄い色で、鈍く輝くそれを、女が振りかぶっている。


 ――そうよ。朱じゃないのなら、朱に染めれば良いのだわ。

 ――どうしてこんなに簡単なことに、今まで気付かなかったのかしら。ねえ、焔?



 くつり、と。彼女は笑った。

 形の整った薄い唇が、くっと持ち上がる。そんな彼女に見とれてしまった瞬間、鋼の刃が振り落とされた。

 とっさに身を引こうとしてーーしかし片手をがっちりと捕まれた状態ではそれも叶わず。かなう限りの動作で、なんとか避けようとした。




 そうして、鋼は弧を描き、少年の左眼は朱く染まる。





 ***





 はっと、息を呑んだ。

 まだ薄暗い空間――部屋の窓からは空にぽっかりと浮かんだ真白い月が見える。その月の冷たさに、夢から一瞬にして目が冷め切ってしまい、男は己の湿った衣服に表情を強ばらせる。


「……」


 またか、と深く息を吸った。

 ずいぶんとうなされ、汗を掻いたようだ。すぐさま体を起こし、男――楊炎は夜着を変えるかわりに普段身につける黒の軽装を身に纏う。こんな夜は、もはや再度眠れぬ事を彼はよく知っていた。



 あの夢が嘘か現実なのか、正直楊炎はよく分からない。幼い頃の記憶は綺麗さっぱり無くしてしまっている。楊炎の記憶が再び刻まれ始めたとき、夢の中で話しかけてきた少年とともに幾つかの季節を過ごした。だからこそ、かの夢がどうやら事実らしいことだけは認識しているのだが。


 ちらと、楊炎は自身の体に残る傷を見た。

 戦の中で負った傷も少なくはない。さらに李公季に拾われる前――罪を犯した刑罰によるものもいくつも交じってはいる。しかし、それらよりもずっと昔からある――楊炎の記憶にすら残っていない頃の傷。随分と幼い頃に受けたであろうものが無数に残っていることも、気付いていた。

 他の傷が治って薄くなっていく一方で、記憶にない古傷たちはいつまでも存在を主張し続けるかのように消えることがない。楊炎が記憶を失って――いや、捨ててしまったことを恨むようにして、痕を示し続けているわけだ。



 夢で見るあの白い腕。いつも暗がりの中に瞳や口元が浮かび上がるようで、顔が鮮明に映し出されたことはかつて一度も無かった。

 あれがおそらく自分の母親なのだろう。かの少年の言い分だと、おそらく自分の考察は間違えてはいない。

 楊炎は、幼い頃、記憶を飛ばすほどの悲惨な仕打ちを受けている。気がついた頃には左眼は光を失っていたし、当然のごとくその現状を受け入れていた。左眼など、彼にとってはもとより無いのも同じなのだ。



 かつての母が自分にした扱いに対して、思うところがないわけではない。世間一般に見ても酷い母親なのだろう。しかしそれは楊炎にとっては夢の中の出来事でしかなかったため、深く考えたこともなかった。


 しかし、最近になって妙に、かつての夢を見る。

 女性という生き物に対する印象など、あの夢でしか持ったことがなかった。だからこそ、女性に対する新たな概念に戸惑う。

 今、楊炎が向き合っているあの特別な少女――彼女との比較対象があの酷い母だというのも滑稽な話ではあるが。




 随分と、気安い少女だと思う。


 いや、最近の彼女を見ていると、少女の殻を破ろうとしているのも伺える。そんな、著しい成長を遂げつつある彼女は、いつも楊炎に視線を向けてくるのだ。夢の中の女の冷たい腕とは対照的な、温かい瞳を。



『楊炎は、どうしたいの?』



 ある日を境に、彼女との関係は大きく変わった。

 何をするにしても必ず、楊炎自身の希望をたずねるという理解しがたい行動を取り始めた。


 事の発端は、今の主である稜花と、以前の主である李公季の会談の中で決められたことだった。楊炎の主は、彼らの話し合いの中で変更されていた。

 もちろん、稜花はたずねてきた。「楊炎が良いのなら、だけれど」と。


 以前の自分であれば即座に断っていただろう。自分にとっては李公季は絶対的な存在だ。幼い頃に、罪を背負い処罰されそうになった自分を拾い上げ、生き抜くための教育も施してくれた。年の頃が大差なかったからだろうか。実に親しく接してくれた。

 感謝してもしきれない多大な恩。しかし、何も持たない自分が返せるものなど、何もない。だからこそ、楊炎は誓った。自身の一生を捧げると。彼のために生きようと、心に決めていた。



 なのにどうして、変わってしまったのだろうか。


 李公季が自身を手放したことに、酷く落胆したのは事実だ。

 良い機会だ、と。楊炎自身のためにも、私から離れた方が良いのだろう、と彼は宣った。彼の真意について、理解しようにも出来なかった。今思えば、反論してもおかしくなかった場面だ。

 なのに、最終的には了承した。


 事実、最近の任務は彼女とともに行動することが多かった。生活に変化があるかと言われれば、そんなことはないのだろう。

 しかし、心の中で主と呼ぶ者を変えることには、多少の抵抗があると思っていたのだが。



「不思議なものだ」


 心の声が溢れる。

 ふと、頬が緩んで、息を落とす。酒を煽っているわけではないのに、じんわりと温もりを感じるのは何故だろうか。



 思い出すのは、夢の中の母。

 そして、今、側にいるべき少女。


 冷たいところにずっと、身を投じてきたと思ったのに。


 どうして稜花は、手を差し伸べるのだろう。

 自分よりもずっと危うい存在なのに、彼女こそ自分を助けようと奮闘している。

 そしてその危うい稜花を支えるために、次は自分の方から手を差し出すのだ。



「――滑稽なことだ」


 彼女の細い腕。華奢な体を思い出す。あんなにも小さな体で、いったい何をしようとしているのか。


 くつりと、笑みを溢した。


 夢の中の少年は――焔は――今の自分を見、何を思うだろう。

 あの幼い、不幸だった少年を、少しは(すく)うことが出来たのだろうか。


 稜花だけでなく、焔にまで手を差し伸べる気持ちになって、楊炎はますます笑みを溢す。



 夜空には真っ白い月。

 いつもなら不気味にすら感じるその光を、安らいだ心地で見ることが出来た。


 ――こんな気持ちも、悪くないのだろう。

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