稜花の決意(2)
心のざわめきを押さえつつ、東の大地を見ていると、やがて、青の旗が彼の地にひらめいた。
稜明軍――心が潰れそうになった。安堵と。同時に、早く。もっと急いでと。
現れたのは泊愉の部隊。北部の平定に走っていたはずだが、宇文斉が急かして連れてきたのだ。
「楊炎っ! 来たわ! もういい!」
気持ちがはやって、稜花は言葉を投げかけた。しかしそれが届いているのかいないのか。二人の攻防は相変わらず互角で、お互いにしか視線が向いていない。
決着がつくまで、この命のやり取りは止められないのか。そう思うと、稜花の胸がぎゅうと締め付けられるような心地になり、しかし前にも踏み出せずに、その場に立ち尽くしていた。
そうして二人の攻防を見守っていたからこそ、稜花は気がついた。
楊炎。彼の振るう長刀が持つ、僅かな違和感。
その変化に気づいた時、稜花は無意識に梓白の手綱を引いた。兵に取り囲まれた二人の戦場に再度割って入るようにして現れた女に、二人は目を剥く。
「「邪魔するなっ」」
どちらともなく叫ぶ声など無視し、稜花は突き進む。
叫んだと同時に、交差した二人の武具。瞬間、弾かれた楊炎の刀身の先が、真っ二つに折れた。
「楊炎っ」
王威振るう巨大な戟と何度も交えたのだ。刀が駄目になるのは目に見えていたはず。楊炎自身も分かっていたはずだ。長引くまでに勝負を決めなければいけなかったことを。
しかし、それは叶わなかった。彼らの拮抗した実力が、勝負を決することを許さなかった。結果、楊炎は武器を失うことを余儀なくされた。
「死ね!」
「させないっ!」
稜花は双剣の片方のみを構えた。楊炎と王威の間に割って入り、振りかぶった奴の戟を両腕でもって受け止める。
奴との実力差は明白。だが、一撃、止められさえすればいい。
キンっ! と、衝撃を受け止めた瞬間、稜花の体が後ろに仰け反る。体勢を崩し、梓白からはじき飛ばされるような形で楊炎に受け止められたが、これで良い。
否応もなく、楊炎に王威からの距離をとらせる。それが目的なのだから。
「女、この勝負を穢した罪は重いぞ!」
「勝負を穢す? もう勝負はついてるわ、王威」
楊炎に支えられたまま、稜花は再度武器を構える。王威の間合いの外に出た後、稜花は不敵に笑った。
しかし、楊炎は気がついているかもしれない。稜花の震えが止まりそうにないことを。
かちかちと噛み合わない歯。小刻みに震える腕。目だけは臆することなく王威を睨みつけているが、彼女の怯えは楊炎にだけ伝わっているだろう。
ぎゅうと、後ろから楊炎に抱きしめられる。
彼女を支える腕に力が入ったことに、稜花は気づいた。背中を押される心地がして、稜花は強ばった頬が綻ぶのを感じる。
王威を退けねばなるまい。もう、時間稼ぎも終わりだ。一人でも多くの命を救わなければなるまい。
「本隊を見なさいよ」
震える体をおさえて、稜花は王威を睨み付ける。
稜花の言葉に、王威は匡軍の本隊に目を向けた。四方を稜明に取り囲まれて、身動きがとれぬようになっている。
「……ふん、貴様ら、囮か」
「今更気づいたの?」
「いちいち戦の流れを気にしてられるか」
そう告げ、王威は不敵に笑った。
「どちらが勝とうが負けようが、俺には関係がない」
信じられない言葉を吐き捨て、笑うその様。心底戦を楽しみ、命のやり取りを好む蛮行に、吐き気すら湧いてくる。
こんなだから、この男は、いくら村を焼き落とそうが気にも留めないのか。人の命を刈り取ることに躊躇を見せない、絶対的な武。相容れぬ考えに、稜花は不機嫌さを露わにする。
しかし、気にくわないからと言って今打ちあう余裕などない。どうにかして降伏……はするとも考えられぬが、せめて退いてもらわねばならない。
じい、と、王威を睨みつけ、向かい合ってしばし。何を思ったのか、やがて王威はふっと深く笑みを零した。
「だがまあ、確かに、少しばかりは分が悪いか。……ふん、いいだろう」
ぐるりと周囲を見回し、ただ一人敵に取り囲まれているにも関わらず破顔する。
一騎当千。それを体現したかのような余裕ぶり。
このまま決着をつけても良いのだが、と前置きをし、王威は楊炎を見やった。
「楊炎とか言ったか。そして女。貴様ら二人、見逃してやろう」
思いがけぬ言葉に、稜花は目を見開いた。しかし、稜花達の驚きなど奴に関係はないのだろう。
楊炎の長刀。王威はそれの折れた切っ先に目をやり、己の戟を突きつける。
「楊炎。貴様、早く新しい獲物を用意する事だ。次は雌雄を決しよう」
「……」
「ふふ、俺と並ぶ剛の者か……これだから戦はやめられん」
楊炎との決闘がよほど楽しかったらしい。楊炎の長刀を見、僅かに惜しげな表情をした後、奴は笑みを濃くする。
そしてそのまま、稜花たちに背を向けた。
「覚えておけ。俺は生きている限り、この身を戦に投じ、稜明を脅かそう。向かって来るがいい。楽しみにしている」
くつくつと。心の底から戦を楽しむ狂気じみた台詞を残し、王威は戟を構える。
そうして、取り囲む稜花隊の兵たちを睨みつけ、ただ一言、言い放った。
「――退けぇい!!」
腹の底に響くような喝に、誰もが一歩後ずさる。すると、奴の正面に一本の道が開いた。
気迫だけで周囲の者を圧倒し、奴はその一本道を駆け抜ける。あっという間に稜花達から遠ざかってしまった。
「稜花様、追いますか?」
そう問いかける兵に、稜花は首を横にふった。もう十分だ。役割は果たした。
「我々は敵総大将の包囲を!」
稜花は声を張り上げた。
しかし、それも一瞬のこと。王威を退けたと思うと、途端に全身から力が抜ける。ふらり、と体が揺らぎ、楊炎の支える腕に力がこもった。
いつか奴と対峙した時と全く同じ。二度目の楊炎の腕の中。しかし稜花はあの時とは違う。何もわからずに助けられたあの日と今では。
ほっとしたからこそ、先ほどの決闘を見守った時の恐怖、楊炎が隣にいなかった時の不安。複雑な感情が蘇ってくる。
周囲を稜花隊の騎馬達が一斉に駆ける。巻き起こる土埃の中、稜花は声を荒げた。
「楊炎の馬鹿っ」
彼がどんな表情をしたのかはわからない。ただ、稜花の悲鳴にも似た叫びに、ぴくりと、抱きしめる腕が震えた。
「どうして、一人で残るの……」
ほっとすると同時に、勝手に言葉が溢れる。責めるように、乞うように、稜花も自身にまわされた彼の腕に手を添えた。
「姫」
「私には無茶をするなって言うのに、自分はっ」
どれだけ心配しただろう。王威と対峙する彼を助けられないことを、どれだけ歯痒く思っただろう。
しかし、この男は、稜花がどんな想いをしたかなどまるで気にしないのだ。彼の行動原理は実に単純。稜花をーーひいては、李公季の命を守れるかどうかだ。それが実に、口惜しい。
「許さないから」
そう短く告げ、稜花は楊炎の腕を振り払った。駆け戻ってきた梓白の轡に足をかけ、改めて一人で騎乗する。
ちらと楊炎の方を確認すると、なんだか困惑したような、ぼんやりとした目で稜花を見ている。しかし、彼に気を割くのが悔しいような気がして、稜花はすぐに視線を背けた。
「行くわよ、敵総大将を追い詰める!」
手綱をひいて、稜花は駆けた。
***
――私、間違ってないよね。
何度も稜花は自分に言い聞かせた。
ぴんと背中を伸ばし、彼女は長い回廊をただひとり、歩いていた。戦の後、一部の兵を率いて彼女は稜明に戻ってきていたのだ。
そうして向かうのは、李永の執務室。李公季とともに執務に励んでいると聞き及んでおり、先の戦の報告に参上する。
もちろん、単に報告するだけなら、こんなにも緊張することはないだろう。大まかな戦の動向は書簡で伝えてある。稜花の目的は、また別にあるのだ。
「父上、公季兄上――」
部屋の中には正面の卓に李進が、そして彼に向かい合うようにして李公季が立っている。
二人に一礼し、軽い挨拶を交わした。
普段は気さくな雰囲気の稜花だが、随分と思い悩んだような表情をしていたのだろう。向かい合うと二人とも、何事かと訝しげな表情を見せた。
「李稜花、ただいま干州より戻りました」
「そうか、ご苦労だった」
稜花の言が、まるでいつもと違うからだろう。二人は少し困惑したかのような表情をしている。しかし稜花は、家族に対する馴れ馴れしさをすっぱりと取り払い、凜とした様子で続けた。
「匡には、あの王威が所属していました。戦場は制したとはいえ、周辺の村々などは崩壊。被害は甚大でした」
そう告げ、稜花は先の戦のことを思い出す。
条干の防衛に尽力し、干州を平定してから、彼女は周辺の村々へと使者を送った。しかし、そこに残っていたのはかつて敵襲を受けたあの村と同じように、ただ、焼き払われた後と民の死体だけ。
「城や干州事態の今後については、進兄上と宇文斉が条干に残ってとりまとめてくれています。しかし、民への被害は甚大です。干州を得たとしても、多くの民を失う形になってしまいました……」
口惜しそうに、稜花は深々と頭を下げた。
お役に立てず、申し訳ありません、と。
彼女の改まった様子に、ますます父と兄は困惑した。以前の稜花とまるで違う。
しかし、彼女の変化、彼女の成長を感じたのだろうか。父である李進は僅かに表情を緩め、稜花を讃えるように声をかけた。
「いや、其方は頑張ってくれたと報告を受けている。あの王威をおびき寄せ、時を稼いだと。最も危険な橋を渡ってくれたこと、稜明の主としても感謝している」
「いえ、私だけの力ではありません。騎馬隊の皆の奮闘によるものです」
そう。稜花は肝心なところで役に立てなかった。王威との対峙。あれが今でも胸の奥で燻っている。
「それより父上、兄上。王威が現れたことについて、どうお考えですか?」
突然の稜花の問いに、目を丸めたのは李公季の方だった。
「どう、とは?」
「王威の目的。兄上には見えているのでは?」
対峙したとき、王威は言っていた。「どちらが勝とうが負けようが、俺には関係がない」と。だからこそ、王威の思惑が見えてきて、稜花はぞっとした。
埜比の時も疑問だったのだ。あれだけ戦を長引かせて、何故あんなに素早く退いてしまったのか。
同じような戦展開が二度続いた。王威は惜しむ様子も見せずに、最後はあっさりと退いた。それが胸の奥でつっかえている。
「……王威が狙っているのは、大陸の北部全体の国力の低下ではないだろうかと、私は思う」
李公季の出した答えに、稜花は両の手を握りしめた。薄々、彼女自身も感じていたのだ。破壊することを目的としているような戦ぶり。奴の生み出す戦場の特異さに。
「やはり、そうでしょうか」
「内紛を狙っているのだろうな。埜比の後、我々の回復を待たずして不安定な干州を乱したことも、自軍の兵を消耗させるやり方も、異様だ」
王威自体が恐怖で一軍を動かし、北部の領土ごとに内紛をさせる。お互いの力を割かせるわけだ。
そうして回復する暇を与えず、次の相手をけしかける。王威自体はどの領土にも所属するつもりがない故、そのときの自軍がどうなろうと知ったことではない。消耗するだけ消耗させて、次の地へ行けばいい。
だからこそ、稜花達に見せしめるようにして村を襲わせることにも躊躇しなかった訳か。
「だからといって、戦をやめるわけにもいけない。それは分かっているのだろう?」
李公季の問いに、稜花は頷いた。
干州の戦で、稜花は初めて、戦とは何かを実感することとなった。今まで如何に自分に覚悟も、心積もりも足りず、現実が突きつけられて苦い思いもした。
「はい。破壊の先のーー王威の真意は分かりかねますが。彼の狂気に大陸を巻き込んではなりません」
だからこそ稜花は、二人に向かって、真っ直ぐ視線を投げかけた。
ここからが本番。
干州に赴き、考えさせられた事、学んだことを無駄にしてはならない。有限である時間を、無駄にしてはいけない。
「二つ、お願いがございます」
その真剣な表情、彼女の決意を悟ったのだろうか。李永も李公季も、表情を引き締めて彼女と向き合う。
「一つ。私を今後も、戦に出陣させて下さい。かならず、稜明の役に立って帰ってくることを誓います」
「……随分と様子が変わったな。何かあったのか?」
李永の問いに、稜花は僅かに目を伏せた。
「自分の未熟さを思い知っただけです。――私は、戦わなくてはいけない」
婚約回避とか、そういう問題ではなくなってきている。
罪のない子どもが死んだ。家族を手にかけさせられた者もいる。
稜明のために、この大陸のために、民のために、一刻も早く戦に決着をつけなければいけない。
彼女の言葉に何か感じることがあったのだろう。李永と李公季は向き合って、何度か瞬きをしている。
しかし、稜花の決意をくみ取ってくれたのだろうか。李永は大きく頷いて、言葉を続けた。
「ふむ。なるほど。あいわかった、検討しよう。……それで、もう一つの願いとは、なんだ?」
「……」
もう一つの願い。それはごく、個人的なことだ。
干州から戻る際、稜花が強く決意したことは二つ。
一つは、先ほども告げたように、今後も戦に出ること。そして、もう一つはーー
ーー思い出すのは戦場。
胸を焦がすような興奮の渦の中、身を投じて駆け抜けた。誰もが必死に、己の命を差し出して、前へ走った。当然、稜花もだ。
そんな中、隣にいたのは一人の男だった。
その髪の色、鋼。傷まみれの肌に、左眼の眼帯。鈍色の鎧に血色のマントが翻る。
「公季兄上」
李永ではなく、稜花は李公季に向き直る。
稜花の真っ直ぐな瞳を見て、李公季は僅かに眉を動かすが、ああ、と納得したかのように声をあげた。
「……楊炎の事か?」
「はい」
先の戦の後、彼とはほとんど話していない。
楊炎は、ただ李公季の命を護るため、ひいては稜花を護るために、ただひとり危険に身を投じた。己の命を掲げ、王威に一騎打ちを挑んだ。
その事実は、稜花の中で燻っていた。彼の行動は全て、李公季の命令が根底にある。そのためには自らの命を投げ捨てるがごとく、危険に身を投じることに躊躇しない。
条干へ暗殺に赴いた時もそうだ。稜花には何の言葉もなかった。ただ、稜花を危険から遠ざけるために、一人危険な道を選んだ。
今後もそうやって、自らを犠牲にし、一人危険な道を選び続けるだろう。
実に気にくわない。
彼の行動原理には、彼自身の意思が存在しない。
これまで楊炎がどのように生きてきたのか、稜花は知らない。ただ、長い間日陰で李公季の命令を遂行してきたという事実しかわからない。
だからこそ、不安なのだ。己ひとりだけが死地へ赴くのに躊躇しない彼の考え方が。
――絶対、許さない。
稜花はぎゅっと目を閉じ、両の手のひらを握りしめた。大丈夫、李公季なら、きっと分かってくれるはずだと、自分を後押しする。
決意し、稜花は真っ直ぐと兄の李公季に視線を向けた。
「公季兄上にお願いがございます」
脳裏に思い描くのは、一人の男。
その髪の色、鋼。傷まみれの肌に、左眼の眼帯。鈍色の鎧に血色のマントが翻る。
あの、寂しい瞳の彼。
いつも側にいてくれるあの人に、自らを大切にして欲しい。
だからこそ、心に何らかの戒めがあるならば、それから解放せねばならぬのだ。
「――私に、楊炎を下さい」




