成すべきこと(1)
厳しい凍える時季は過ぎ、日の光がいっそう柔らかになる季節。
稜明にも穏やかな風が吹くようになり、人々にも笑顔が溢れるようになってきた。
——春。連なる水田には、人々がそれぞれに田植えに励んでいる。その様子を稜花は梓白と共にゆっくりと見回っていた。
民の姿を見るのは嫌いではなかった。兵の調練で忙しい李進や、内政に精を出す李公季にはなかなか出来ないことだ。とはいえ、次兄の李進はたまにつき合ってくれたりするわけだが。
しかし、今日は稜花一人だ。今、李進は泊愉たちとともに南の干州の方へと赴いている。
干州は礼王朝の直轄地にあたる。しかし、礼王朝の力が全土に及ばなくなった今、干州の中央は機能を失った。一部の官吏は、稜明と、南の中領地“匡”どちらにつくか揺らいでいる。各地で小規模な反乱も起こり、乱を鎮圧するという名目で二領が領土争いをしている形になっていた。
礼王朝は、帝の権力が失墜した今、帝自身が拠り所を探そうと必死になっている。だからこそ、今のうちに干州をおさえておきたいというのが李公季の考えらしい。匡のやり口は綺麗ではない。きっちりと干州を守りきり、帝からあらためて譲り受ける——言い方を変えると、譲らざるを得ない状況をつくるのが目的な様だ。
そんな大切な戦なのに、稜花は置いて行かれてしまった。
心にぽっかりと穴が空いているような気がする。未だに、王威に一矢報いたときのことが鮮明に思い出される。
あの時の沸き起こる喜びと、周囲の兵たちの盛り上がり。自分が役に立つことが出来たという大きな自信にも繋がった。なのに。
稜花は空を見上げた。雲ひとつない青空が広がっていて、目を細める。
こんなに空は広がって、澄んでいるのに、どうしてか、虚しい。空虚、と言うべきであろうか。何かが足りない気がして、稜花はため息をついた。
「おかしいわよね」
どう、考えてみても。
だが、深く考えないのは得意だ。兄の李進も同じだが、基本的に楽天的に物事を捕らえる節がある。
だからこそ、李進に対しては親族の中でも特別な思いがあった。似たもの同士で、気が合う。面倒見も良くて、いつも自分の相手をしてくれる。
「早く、帰ってこないかな」
まったくもってつまらない。
そうやってぼんやりと一人で考え事をしていると、気がつけば自分の屋敷の前になどいて正直驚いた。帰ったって、どうせ何をするわけでもないのだが。などと頭の中で考えつつ、仕方なく屋敷の中へと入っていった。
しかし、稜花がすべきことは、どうやら山のようにあったらしい。
自身の部屋へ向かったところ、出迎えてくれたのは女官ではなく、李公季の妻、香祥嬉だった。
「稜花様、ごきげんよう」
「あっ……うっ……義姉上……」
部屋を入ったところに堂々と仁王立ちされていて、稜花は狼狽えた。威圧感とともにあふれ出る気品に圧倒される。流石李家の良心李公季の妻である。
背筋をぴんと伸ばし、凜とした様子からその気の強さがうかがえる。落ちついた赤い髪が印象的で、琥珀色の瞳がにっこりと微笑む。美しさ故の恐怖のようなものを感じ、稜花は後ずさった。
「私、稜花様とお約束があったと思ったのですが?」
「えっ……ええーっと、どうだったでしょう?」
まずい、と思い全力で視線を逸らす。
香祥嬉が主張している約束は、事実、存在するのだ。ただ、稜花が全力でのらりくらりと逃げているだけで。
「稜花様。何故、私がわざわざ足を運んでいるのかご存じでして?」
「えーっと……」
「他の女官では、貴女を抑えきれないからですよ。さ、着替えてらして」
ぱんぱん、と、香祥嬉は問答無用に手を鳴らした。それを合図に、一人相手には多すぎる十人ほどの女官が現れる。揉みくちゃにされながら、問答無用で稜花は部屋の奥へと連れて行かれた。
衝立の裏側で、がっちりと両脇を抱えられ、強引に衣をはぎ取られていく。いくら武闘派の稜花とはいえ、武術の心得のない女官にまで乱暴なことをする気はない。がっくりと頭を垂れ、彼女たちの言うがまま、華服に着替えさせられる。
普段とは違う足元まで流れるような衣に、少し手を伸ばしただけで様々なものに引っかかりそうな長い袖。明らかに不必要な豪奢な刺繍に、帯はぎっちぎちに締め上げられ、稜花は辟易した。
あれよあれよという間に髪の毛もきっちりと結い上げられ、所狭しと簪が飾り付けられていく。まあ、いざというときに唯一武器となるのが簪くらいだから、これは文句を言わないでおこう。
「まあ! 稜花様は着飾れば本当にお綺麗ですこと」
香祥嬉は、春めいた桃色の衣装に包まれた稜花を一目見、満足そうに頬を緩めた。
一方の稜花はというと、戦場で身につける鎧よりもはるかに重く、身動きが取りにくい華服にげんなりしていた。別に着慣れていないわけでもないが、いつもの軽装の感覚でいると酷い目に遭う。切り替えには、ある程度の時間が必要なのだ。
「さて、稜花様。今日は詩歌のお時間ですよ。詩歌はいわば、女の戦術。戦はお好きでしょう? きちんと戦場に出て、対抗できる手段を身につけて下さいませ」
「……はい」
香祥嬉は、稜花を取り逃がす気など全くないらしい。にっこりと凄みのある表情で迫られて、稜花は渋々、頷いた。
このたび、稜花が李進とともに干州へ赴いていないのは理由があった。ことの発端は、先日の埜比での宴だ。
李永が何やら余計なことを良い、楊基が何やら余計なことを良い、他の皆も全力で余計なことを言った。結果、新年を迎えて十六ともなり、結婚適齢期である稜花は、淑女としての教育を間に合わせるという無謀極まりない計画に巻き込まれてしまった。もう、あっさり諦めてくれれば良いのにとさえ思う。
結局、昭との縁についてはうやむやになってしまった。もちろん、それに関してはむしろ大歓迎だ。話を掘り返さないようにそっとしておくと決めている。
しかしながら、いつかはどこかに嫁がねばならぬと理解しているため、香祥嬉という監視付きの教育に関しては渋々了承したのであった。
もちろん、明確な目標がなければ、学ぶ身としても力が入らない。のらりくらりと逃走しては、調練に顔を出したり、遠乗りに出かけたりして姿をくらましていた。
しかし、毎日なんだかんだで発見されてしまい、みっちりと教育をたたき込まれていた。
退屈極まりないが、香祥嬉のことを稜花は嫌いではない。
非常にしっかりした女性で、兄の李公季を影で表で支えている。自分とはまったく違った生き方ではあるが、彼女は彼女なりに、この稜明を支えているのだ。彼女は非常に凜々しくて、美しい。手段は違えど、稜明のために強く生きる女性のことを、稜花が嫌いになれるはずがなかった。
***
ひととおり歌を詠み上げ、添削を頂く。その後は過去の詩歌の書き取りだ。先人の詩歌を忠実に学び、知っておくことは女性にとっては当たり前の嗜みらしい。
そうやって午後の時間は、幾つかの歌を覚えた。頭の中が文字だらけになってきて、くらくらするけれども開放してもらえる気配はなさそうだ。
愛だの恋だの旅愁だの、どれもこれもまったく理解が出来ない。自分の感覚の麻痺っぷりにがっかりしながら、普通の女の子らしい人生を歩むことを改めて諦める時間となった。
その後にようやく夕餉。最近は香祥嬉に相伴することが随分と増えた。今日は西の東屋を利用しての夕餉にするらしい。夕涼みながらの食事は、稜花的にも嬉しい。
「それで稜花様。前々からうかがいとうございましたが、かの方とのご縁談はどうなされたのです?」
「楊基殿のことなら、酒宴の席での戯れに過ぎないのですが」
「……どなた、とは申し上げておりませんが。思い当たる殿方がいらっしゃるそうですね」
心得たと言わんばかりに、香祥嬉は満面の笑みを浮かべる。どうやら、まんまと誘導尋問に引っかかったらしい。
「本当に場の戯れでしかないのですよ? 縁談とか、私はまだ考えられないし。そもそも、楊基殿はちょっと」
「あら、何か問題ありまして?」
「……」
思い出すと、胸の奥にちくりと不安が沸き起こる。
底の見えない微笑み。油断するとまんまと彼の思い通りに動かされてしまうかのような感覚。逃れることの出来ない糸のようなものを感じて、稜花は目を伏せた。
「義姉上は、もし、意に添わぬ縁談を薦められたらどうしますか?」
「意に添わぬ? 楊基殿に何か不満でも?」
「……何故楊基殿を前提にするのです」
「前提でしょう。実現できるなら最も良い縁組みであることは誰の目にもあきらかでしょう? それくらい分からぬ稜花様ではありませんでしょう?」
「それは、そうですけど」
先日の宴から、稜明の中も、昭との縁談が非常に前向きに受け入れられていることを稜花は知っている。自分の力が及ばぬところで、領土の皆が勝手に縁談を後押ししてくる。
そもそも、独身領主と名高い楊基のことだ。そんな彼が“気に入った”などと口にしたものだから、稜明の領民皆が誇らしく思っているようだ。自領の姫君が、ようやく、誰も動かすことの出来なかった楊基の心を動かしたと。
しかし、稜花は知っていた。彼は単に、自分を気に入っただけではないことを。その思惑は分からないが、もっと別の目的があるのではと感じ取っている。もちろん、これは単なる勘でしかないのだが。
「……どなたか好いた殿方でもいるのでしょうか?」
「っ!? そんな。冗談はやめて下さい、義姉上!」
「別に、殿方を好くことに問題はないのですよ。稜花様だって年頃の女性なのですから。色恋の一つや二つ、経験していて当然です」
「当然……ですか?」
「ええ。ですが、稜花様? 稜明のために嫁ぐことになることは明白。そちらもきちんと覚悟を決めて、ご準備なさいませ」
「うっ……」
恋愛は自由だが、婚姻は自由ではないとでも言うのだろうか。
大きな釘を刺されてしまって、稜花は狼狽える。そもそも色恋経験が皆無のため、そう言った意味では婚姻に対する身軽さはあるのかもしれない。だが、引っかかるのだ。どうしても。
「あと、稜花様。意に添わぬ縁談を薦められたらどうするか、と仰いましたよね?」
「え? ええ」
「覚えておかれませ。どうしても縁談を回避したいのであれば、それ相応の餌を用意せねばならぬのですよ」
「餌?」
「そう。例えば、楊基殿。彼と縁を結ぶ以上に、稜花様をこの地に結びつけた方が良いと、皆を説得なされるだけの理由があれば宜しいのですわ」
香祥嬉の言葉に、稜花は大きく目を見開いた。
自分自身の力でもって、欲しいものを手に入れる。そんな当たり前のことにどうして気がつかなかったのだろうか。目から鱗が落ちた心地で、未来が一気に開ける。
つまり、これからの自身の頑張りようにとっては、昭との縁談を回避できる材料となるわけだ。
そして、そのために稜花にとれる手段など、一つしかない。
「義姉上、私……今度こそ、戦に出ます」
「あら、折角私が教育係を務めていると言いますのに。詮無いことですこと」
そう言いながらも、香祥嬉は誇らしげな笑みを浮かべている。
——そうだった、この人も、自身の実力で今の地位を手に入れた人だった。
兄の李公季が婚姻する際に、一悶着あったことを稜花は思い出す。数多くの恋敵を蹴散らして、香祥嬉は李公季の隣を勝ち取ったのだ。
自分の未来を周囲に決められる前に勝ち取った女性。目指すべき姿が目の前にある。先ほどまで、しぶしぶ彼女の教育に従ってきたけれど、俄然、彼女と共に過ごす時間が大切に思えてきた。
——義姉上のような考え方を身につけられたら、何か変わるかもしれない。
——そして、戦にも出る。私は、私の地位を築くんだ。
成すべきことが明確化し、稜花は、しっかりと前を向いた。引き締まった表情に、香祥嬉もたっぷりと微笑みを寄越す。
この女性は、自分を見守ってくれる気でいるんだ。
その気持ちが嬉しくて心強い。より一層信頼の意を込めて、稜花は香祥嬉に頷いてみせた。




