埜比包囲網(5)
「おお、稜花! 戻ったか。いやあ、楊基殿、手間をかけ申した」
宴の間に戻ると、父も兄も完全に出来上がっていた。今日という日は、未ださほど呑んでいない稜花にとって、彼らとの温度差を実感する。人のことは言えないが、随分と他領の領主に砕けた様子ではないか。
李公季が居ない李家など、本能の赴くままのただの剛胆な集団だ。誰もまとめる者がいなくなるからたまらない。普段はそんな父や兄たちの仲間入りをしている稜花だが、ようやく、その行動における迷惑さを思い知った。これまでの所業を思い出し、李公季に深く頭を下げておく。
むしろ、冷静に李家の人間を操る人物がいなかったからこそ、稜花に楊炎を預けてくれたのかもしれない。長男の李公季は、李家の良心だったらしい。
ちらりと後ろを見ると、眉間に皺を寄せたまま楊炎がついてきてくれている。
宴の場にまったく似つかわしくない鈍色の鎧に血色のマント。明らかにこの空間の中で浮き立ってしまっているが、気にする様子もなさそうだ。
「楊炎、姫には私がついているから、其方は下がって良いぞ」
「李公季様の命が最優先です。そういうわけにも、まいりますまい」
「ほお。……まあいい、邪魔はするな」
にい、と楊基は口の端を上げたが、一瞬のことだ。稜花の手を引いたまま、上座へと足を進める。
「あの、楊基殿? 私はこんな場所」
「良いと言っておるのだ。なあ、李永殿」
「ふむ、楊基殿に気に入って頂けるとは。とんだじゃじゃ馬だが、今回の遠征に連れてきて良かったようだ」
「ちょっと。父上っ。好き勝手言わないで」
完全に見世物になってしまっていて、何やら心苦しい。李永と楊基は完全に意気投合しており、稜花に逃げ場はなさそうだった。
ちらりと、兄の李進に救援を求めるものの、手段なしと言うかのように首を横に振っている。むしろ、にやにやと面白そうな顔つきをしているから、この状況を楽しんでいるのだろう。
八方ふさがりとはこのことだ。
いっそのこと、酒を呑んでやろうか。稜花はこのどうしようもない時間を早いところ消費したかった。楊炎を見習って無の心を習得することにしようか。しかし、そもそも無の心など稜花には無理な相談だろう。
楊基が杯を掲げてくる。酒を注げと言うことか。
まがりなりにも他領の姫君であるのだが、ここ最近の力関係では昭が幾ばくか強い。今回のように三領集まった際も、呼びかけたのは昭からだったし、盟主も同じくだ。明確な力関係がそこにあるため、注げと言われれば拒まない方が良い。
腹をくくって、稜花は楊基に酌をした。満足そうに楊基が酒を口にする。不自然に肩に手を回され、釈然としない気持ちになった。
稜花はこれでも李家の姫君。今まで、気安く男性に扱われたことなどなかった。強引すぎる楊基の態度に、どう接して良いものかまったくわからない。恨む心地でじいと楊基を見つめたところ、彼はますます上機嫌になって酒をあおった。
そういえば、と。今更になって気がついたが、酒宴の場に、女が居ない。
――なるほど。つまり女のいない酒盛りで、生贄として差し出されたわけだ。父親に。
キッと李永を睨んでおいたものの、まったく気がつく様子はない。それどころか、李永までもが酌を強請ってくるため、確実に溢れるほど、なみなみに盛ってやった。そんなちょっとした嫌がらせも何のその。李永は気付くことがないようだ。ますます上機嫌になって、楽しげに楊基と話し始める。
「稜花は強い男にしか興味がないものでな。その上、我が娘ながらすこぶる腕が良い。釣り合う男がおらぬ故、まだまだ嫁ぎ先が見つけられそうもない」
「ほお。腕は拝見しましたが確かに。少し精神的に拙いところもありましたが、並の男では相手にならないでしょうな」
「そうだろう。父としては、いつまでも家に居てくれて嬉しいものだが、そうも言ってられん」
……雲行きが非常に怪しくなってきた。
稜花の歳はもう十五。冬が終わる頃には十六だ。誰かに嫁いでも全くおかしくない、適齢期に差し掛かったところである。しかし元来の彼女のお転婆さと、現在の大陸の状況がそうもさせない。
複雑に絡み合う領土間の関係により、領主の娘として、嫁ぎ先が慎重に検討されているのだろう。今後の稜明の先行きを決定付ける婚姻になることは間違いない。
しかし、稜花は婚姻に対する自覚が非常に薄い。まだ李家で自由に過ごす気満々なため、謀らずとも情勢が稜花を助けてくれているわけだ。
だが、先日の北方民族の掃討戦や今回の戦を終え、昭とは協力関係が見いだせてきた。だからこそ、稜明陣営でも一つの声が上がってきているのを少なからず耳にしたことはあった。
領主二人の会話に、周囲の者が声を潜めて注目をしはじめているのがわかった。今回、楊基自身が稜花を呼びに来たのも、ある種の体裁なのかもしれないと、ここに来て思い至る。
嫌な予感がぐるぐると渦巻き、稜花はとりあえず、楊基から視線を外すことにした。どうか、この話題、今すぐ終わって欲しい。
「稜花殿では、殿とも年まわりが良いのではないでしょうか」
しかし、稜花の願いはいともあっさりと崩れ落ちる。最悪なことに、昭側から後押しするような声があがってしまったのだった。
一度声上がってしまうと、それに賛同するかのような声が其処此処で沸き起こる。間の悪いことに、今回の戦を終えて、稜花の知名度がすっかり広がってしまっているらしい。しかも、かなり良い印象で。
「許せ、稜花姫。私も臣下が、早く身を固めよと五月蠅いのだ」
言葉とは裏腹に――むしろ、望むところだと言わんばかりに、楊基が宣った。
聞いたことがある。楊基は兄の李公季と同じくらいの年齢であるにも関わらずいまだ独り身。跡継ぎの一人も居ないと、昭では問題視されている独身領主らしい。
楊基自身の女性を見る目が非常に厳しいからだとか、好いた女性を亡くしたからだとか、もしかしたら男色家なのではとか、彼に関する面白可笑しい憶測が飛び交っていることも稜花は知っている。
それほど、領主が独り身であることに対し、周囲の者は関心を示しているわけだ。
ひくりと頬をひきつらせていると、昭だけではなく稜明側からも賛同の声が大きくなった。
李永を見ると、満足そうに、大きく頷いているのが見える。父親のある種強引なやり口に、稜花は頭を抱えた。
もしかしたら李永も、嫁ぎ先として昭を考えていたのではないだろうか。
しかし、普段から調練にしか興味を示さない稜花だ。婚約だ縁談だのとそんな話題、すべて受け流してきた。
だからこそ、王威という危険な相手がいるにも関わらず、楊基と引き合わせる為に今回の遠征に連れて来られたのかもしれない。
そう仮定すれば、兄と一緒に楊基のすぐ近くに配置されたのも合点がいく。いろんな状況が見事にかみ合ってしまい、言葉にならなかった。
更に、こうやって大勢が揃う場で口にすることによって、周囲の関心を一手に集められる。一度公になってしまったことは、取り下げるのが非常に難しい。
父をはじめとした、この場にいる全員に退路を完全に断たれてしまい、稜花は狼狽した。普段から戦と強さと調練のことばかり興味を示してきた稜花は、このような場を丸く収める言葉など思い至らない。
困ったように左右を見回すも、逃亡に手を貸してくれそうな者など一人も居なかった。
――楊炎は……うん、無理よね。
もとより、目立つことを好まない楊炎が庇ってくれる可能性など皆無だ。ちらりと視線を向けてみたものの、眉間に皺を寄せたまま固まっている。確実に不機嫌であることがわかってしまうが、特に何か手を貸してくれる気はないらしい。
孤立無援状態の稜花は、がっくりと頭を垂れるしか無かった。
「ふむ、稜花姫はまだ年若いが、必要なことはこれから学んでいけば良い。伸びしろもある」
……噂では、女性を見る目が厳しいのではなかったのだろうか。
稜花は、世間一般で言ういい女とかなりかけ離れていると、自負している。顔立ちや体つきだけ見ると、十分な容姿ではあるが、言動・行動・作法どれをとっても年頃の女らしくはない。
剛胆な李家の姫君だからと完全黙認されているが、彼女の一般的な評価が“変わった姫”であることくらい、自覚していた。
しかし、楊基の稜花を見る目は真剣だった。
真面目に、この縁組みについて考えているのだろうか。だとしたら、相当にまずい状況なのではないだろうか。
隣の領地同士で、規模は僅かに昭が大きい。主要産業は異なっており、取引相手としては最高。稜河を通じて交通の便も良い。更にこの乱世の世において、手を取り合ってきた仲でもある。関係が良好な限り、稜花の身の安全も保証される。
考え得る中で、理想の縁組みと言えなくもないことは、稜花だってわかる。
だけれども。
ちらりと楊炎の顔を見た。何故彼の顔色をうかがっているのだろうか、とも自覚しつつ。
ただ、思い出すのは楊炎の言葉だった。――「あまり、あの男に心を砕かれなさるな」確かに彼は、そう言った。
楊炎が楊基の何を見て、その言葉を述べたのか分からない。だが、確実に言えることは、楊炎は明らかに楊基を警戒――いや、敵視している。仮に昭との縁談があったとしても、楊炎の危惧に関して分からぬ限り、稜花は前向きになるつもりはない。
楊基を見やると、底の見えない笑みを浮かべて、こちらを見ている。まるで稜花がどう出るのか、見定めようとしているかのごとくだ。
「気が強いおなごは良い。人の上に立つ以上、思い切りや決断力も必要だ。そう言った意味では、稜花姫ほど肝の据わった姫君は見たことがない」
じっとにらみ付けていると、楊基は、観念したかのようにくつくつと笑い出す。
「いや、初めてお目にかかったときは、おなごの、しかも子どもが戦場にいることを疑いもしたが、あの王威とのやりとり。肝は冷えたが、見事だった」
そう言われて、稜花はようやく思い出す。
警戒に警戒を重ねていたため、すっぽりと記憶から抜け落ちていたが、そう言えば楊基に命を助けられていたのだった。こればかりは無視するわけにもいくまい。
「助けて頂き、ありがとうございました」
「いや、御身はなかなかに貴重だと思い知った。子どもなどと侮って悪かった。……無事で本当に良かった」
改まって礼を言うと、楊基は上機嫌で頷き、ますます酒をあおる。
そして何か悪戯を思いついたかのように口の端を上げ、稜花の肩に置いた手にぐっと力を込める。そのまま、もう一方の手で稜花の頬を押さえた。
何が起こっているのか、一瞬分からなくて、稜花は両目を見開く。
ただ、楊基の顔が近づいてくる。頭が真っ白になって、彼の瞳を見据えた。
強い光と自信を帯びた朱色。一瞬、吸い込まれそうになるが、はっとする。
――これは、まさか。
考えがまとまる前に、体が動いていた。
――パンッ!
稜花の意識が動き始めたとき、すでに彼女の手は楊基の頬を平手打ちしていたのだ。
「……」
たちまち、賑わっていたはずの会場の空気が氷点下に下がる。
左頬を腫らした昭の領主は、ほう、と、底冷えのする笑顔で稜花を見た。
――やってしまった……!!
対する稜花は、心の中で大騒ぎだ。突然男に迫られたとしたら、防衛するのは当たり前のこと。と、心の中で自分を正当化する。もちろん、この場では最悪な一手だったことも分かってはいるが。
頭の中に数々の言い訳が浮かんでは消え、浮かんでは消え。しかし結局、なんと言葉をかけるのが良いのか分からず、狼狽えた。
対する楊基は、獲物を見るかのような目で、稜花を見つめてきた。にやりとしたその笑顔が怖い。
「稜花っ!」
隣で李永が叱責の声をあげる。いやでも、あの状況だったら仕方ないでしょう、と、稜花は心の中で反論しておいた。身内に怒られるのは、そんなに怖くない。いくら生贄として捧げられたとしても接吻だけは回避したい。
……そう、あの行為は接吻だったと、思う。未遂に終わったし、稜花には色恋の知識がとんと抜けているため、おそらくではあるが、接吻だったはずだ。
気になるのは、自分の行動が稜明の皆に迷惑をかけないかという点だった。こればかりは感情的に行動に走ってしまったことを大いに反省する。
しかし、いや、しかし。と、何度も何度も、反省したり自分を正当化したりを脳内で繰り返した。
「ふっ……くくっ、ははははは!」
だが、何かと思えば、楊基は腹を抱えて笑い始めた。頬を叩かれても上機嫌な様子で、稜花も、皆も、きょとんとする。
しばらく笑いが収まらぬ様子でひとしきり声を出し、一度おさまったかと思ったら、それでもくつくつと思い出すかのように何度も笑いを堪えていた。
「ああ……そうだ稜花姫。人の上に立つ者は、それくらい強気な方が良い。……ふむ、本当に気に入った」
「えっ」
思いがけない展開に、稜花はまだ頭がついていかない。
楊基の言葉に、周囲が安堵して賛同をはじめる。凍えた空気を温め直すように、極端に太鼓持ちを始めるからたまったものではない。
状況がよく分からず、きょろきょろと視線を動かしていると、ふと、楊基が耳元で声を発した。
「これで貸し一つだ」
「……!」
耳を疑うような言葉に目を見開き、楊基の方を見た。にやりと、笑うその表情は王者の気風。……のはずなのに、稜花にとってはタチの悪いものにしか見えなくなってしまった。
もしかして。いや、もしかしなくても、完全に嵌められたのかもしれない。気がつけば楊基の放った糸に雁字搦めにされているような心地がして、ぞくりとした。
正面から武で対抗するならば話は単純だが、こういったやりとりでの稜花の頭はあまり当てにならない。底が見えない恐怖を感じて、身震いする。
「戯れもほどほどにして」
「戯れ? それは心外だな」
「父上も。酒宴の席でのことですから致し方ないにしても、冗談が過ぎるわ」
どうにか、酒盛りの場の戯れ程度に事をおさめておきたい。苦言を呈するように李永を見つめた。この怒り、どうにか伝わらないものかと思いつつ。
「殿。姫の婚姻について、このような場で勝手に推し進める話でもございません。稜明に返った後、李公季様ともお話し合いになるのが宜しいのでは?」
ここで楊炎が助け船を出してくれた。ようやく現れた唯一の味方に、稜花は目を輝かせる。これは便乗するに限る。
稜花は何度も頷きながら、父の説得にかかった。
「父上。今は酒が入って正確な判断もできてないわ。公季兄上と一緒に、あらためましょ?」
「ふぅむ……まあ、もっともだな」
酔いが覚めたのか、はたまた流石にやり過ぎたと思ったのか。李永も少々ばつの悪そうな顔をして、納得し始めた。その表情に心の底から安堵して、稜花は頬を緩める。
「なるほど。稜明側でも考えて頂けるか。ふむ、前向きに検討して頂けるとありがたい。なにせ、私と稜花姫はすこぶる相性が良さそうだからな」
にやりと笑う楊基は、本当にタチが悪い。
この底の見えぬ男の元に嫁ぐなど、恐怖でしかない。しかし、稜花を見つめる楊基の目は、相変わらず、捕らえた獲物を放さぬ強さを持っていたのだった。




